爪と眼鏡

ちくわノート

第1話


 髪、ぼさぼさ。

「アダムの見えざる手は―――」

 牛乳瓶の底みたいな分厚い丸眼鏡。よりにもよって何でその眼鏡を選んだの?

「これは1929年の世界恐慌では―――」

 背中、すごい丸まってる。

「じゃあ、この問題を.......笹原。分かるか?」

 あ。今すごいびくっとした。

「き、キリスト教です」

 声ちっさ。

「その通り! 難しいのによく分かったな」

 先生から褒められた笹原は俯き、しかし、どこか誇らしげに板書をノートに写す作業を続けた。

 さすが笹原さん。と教室内で声が上がる。

 大学に進学する人自体が少ないこの学校で、笹原は国立大学に行くんだそうだ。

 テスト前は皆、笹原さん勉強教えてー、と助けを求める。でも彼らはそもそも基本すら暗記していない。勉強を頭の良い人に教えてもらえれば自分たちが勉強しなくても出来るようになると本気で思っているのだろうか。

「皆もわかんないとこあったら、先生じゃなくて笹原に聞けよ」

 なぁーんて、と先生がおどけると教室が笑い声に包まれる。

 当の本人は恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべている。


 ばっかじゃねーの。


 ※


「そうか、美容師ねぇ」

 ヤダケンが1枚の紙を見ながらそう呟く。

 私たちの担任であるヤダケンは、ザ・中年といった感じで、腹が出ており、人の良さそうな顔をしている。そしてその顔の通りに気さくで優しく、生徒からは人気がある。

 窓の外から部活動に勤しんでいる生徒の賑やかな声が聞こえてくる。しかし、外とは対照的に普段は生徒が賑わっているはずの教室には私とヤダケンしかおらず、どこか物寂しい気分になる。

 窓から差したオレンジ色の日光が私と先生の間に置かれている机とヤダケンの横顔を照らした。

「まあ、佐倉はお洒落だし、器用そうだし、向いてるんじゃないか」

 ええ、そうですかあ、と嬉しそうに笑ってみせるとヤダケンは満足気に頷いた。そして、視線を私の頭から下の方へざっと滑らせ、言う。

「まあ、校則はもう少し守って欲しいけどな」

 染髪禁止。化粧禁止。ネイル禁止。アクセサリー禁止。

 徹底的にお洒落することを抑圧したクソみたいな校則。

 そんなもの、誰が守るかよ。

「美容師になるのに、そんな爪してていいのか」

 私は自分の爪を見た。

 鮮やかピンク色で先端にきらきらしたラメが散りばめられている。

 自分の爪を見ると、私はいつも嬉しくなる。

 なんかじゃない。

「平気。今はネイルしてる美容師さんだっていっぱいいるし」

 ヤダケンはふーん、とわかったようなわかってないような顔をする。

「佐倉が美容師になったら、先生、佐倉に髪切ってもらおうかな」

「その時までハゲないでくださいね」

 ヤダケンは笑って、これからは生徒より自分の頭皮に気を配らなきゃならんな、と言った。

 無精髭が見えた。口元をほんのり青く染めている。

 眉毛は太く、寸胴だ。多分、生まれてから一度も眉毛をいじったことなんてないんだろう。

 眼鏡。四角く、大きめ。少し汚れて曇っている。

「どこの専門学校に行くか、もう決めたのか」

「.......え?」

「専門学校。どこにいくのか決めたのかって」

「ああ、セントラルビューティ。家から通えるし」

「そうか、たしか先輩も何人か行ってるはずだな。見学は行ってみたか。もし先輩達の話を聞きたかったら何人か.......」

 シャツのしわ、爪、指毛、鼻毛―――。

 つんとした臭いが鼻を刺す。加齢臭。

「ごめん! ヤダケン、うち、この後バイトあるんだったわ」

「おいおい、前から今日進路相談やるって言ってただろ。それから、な」

 ヤダケンはヤダケンと呼ばれる度にこのように訂正するが、本当はヤダケンと呼ばれて満更でもないのはその態度でわかる。

「まじごめん! また今度ね!」

 そう言いながら、バッグを取り、教室を出る。

 ったく、しょうがないな、と教室にぽつんと残ってぼやくヤダケンを最後、一瞥する。


 寝癖!


 勿論バイトなんて嘘で、もともとは真面目に進路相談を受けるつもりだったので、この後は何も予定は入れていない。

 私は駅の目の前にあるマックに入り、マックシェイクとSサイズのポテトを注文すると、2階の窓際の席に腰を下ろした。

 窓から外を見下ろすと、様々な人がマックの前を通る。

 スーツを着たサラリーマンや騒ぎながら歩く学生たち、何をしているのかよく分からない私服の若者も結構見かける。

 そして、その中に必ずと言っていいほど顔に覇気がなく、世界から自分を隠すように背中を丸めて、早足で歩き去っていく人がいる。

 彼らは、お洒落をするのは恥ずかしい。私はそんなお洒落をしても似合わない。お洒落の仕方がわからない。お洒落には金がかかる。みんなそう言う。

 お洒落をするのが恥ずかしい? 私に言わせればお洒落をしない方が恥ずかしい。

 お洒落が似合わない? やったこともないのに?

 お洒落の仕方が分からない? 今どき動画配信サイトやネットでいくらでも調べられるのに?

 お洒落にはお金がかかる? 当たり前だろ、働け。

 きっとお洒落をすれば人生が変わる人って結構いると思う。

 お気に入りの服を着て、メイクをして、髪をセットする。そうするだけで自信を持って街を歩ける。自分に自信が持てるから性格だって明るくなるし、鏡に映る自分を見て幸せな気分になれる。

 ポテトをつまみながら、お洒落をしようとしない彼らを見る。

 あーあ、そのよれよれのTシャツ、何年着てんの?

 寝癖、つきっぱなしじゃん。

 靴きったな。洗いなよ。

 私のそうした心の声はどこにも行き場がなく、がんがんと私の中で反響して大きくなっていく。

 そういう奴らは皆馬鹿だ。例えいくら勉強できて、革新的な発明やノーベル賞ものの発見をしたところで馬鹿であることは変わらない。

 なんで、自分が他人からどう見られるのかを考えようとしない? なんで自分がどう見られたいかを考えない? なんで自分がどうなりたいかを考えられない?

 この世には馬鹿が結構、いる。


 ※


 笹原は今日も分厚い眼鏡をかけて、ぼさぼさの髪を邪魔にならないように後ろで適当に縛って黙々と問題集を解いている。

 覗き込んでみるとよく分からない図形が何個か散らばっており、ページ上部には大きめのゴシック文字で『ベクトルの応用』と書かれている。

 ベクトル? なんだそれ。

 普段は30人程度入るはずの教室には現在10人程度しかいない。既に進路が決まっている生徒は学校をサボってカラオケに行ったり、ボウリングに行ったりと最後の高校生活を満喫している。

 残った10人はこのままだと出席日数が足りない奴か、ただの真面目ちゃんか、受験を控えている奴だ。

 でもその10人も皆が真面目に勉強をしているかと言ったらそうでは無い。

 特に今日のような自習の時間であれば、後ろの席の方で男子たちがカードゲームに興じているし、1番前の席の女子は教室に入ってきてから今まで彼氏と電話をしている。机に突っ伏して寝ているやつもいる。真面目に勉強をしているのはこの教室内で笹原しかいない。

 騒がしく、決して勉強に適しているとは言えないこの環境で笹原はベクトルとやらの問題を解き続けている。

 何が楽しいんだろう。

 まさか勉強が心の底から好きなわけあるまいし。

 将来の夢とかなさそう。偏見だけど。ただ親に言われるがまま勉強してる、みたいな。

「あの」

「へ?」

 気づいたら笹原と目が合っていた。

「あの、なにか?」

「なにか? ってなにが?」

「あ、いや、ずっとこっちを見ていたみたい、だったから」

 見てた? 私が? そうだったかな。そうだったかもしれない。

「あー、なんか」

 なんか。なんだろう。

 視線が笹原の顔から首、胸元、手と徐々に下がり、彼女が開いていた問題集に終着した。

『ベクトルの応用』。

「なんか、その、ベクトル? っていうの? 難しそうなのやってんなって」

「これ?」

 笹原は少しはにかんだ。

「佐倉さんも習ったでしょ」

「知らないけど。なにそれ」

 それを聞いて、笹原は苦笑する。

「大きさと向きを持った量のこと」

「はあ?」

「えっと、なんて言えばいいかな。そう。矢印」

「矢印なんか勉強してんの。意味わかんないね」

 私がそう言うと笹原は笑った。

「うん、意味わかんないでしょ」

 あ、笑うとえくぼが出来るんだ。

 まず、その牛乳瓶の底みたいな眼鏡はやめてコンタクトに。

 髪は今伸び放題でぼさぼさだから、少し梳いてセミロングくらいの長さに切ったら良さそう。

 顔の印象が薄いからメイクでもっと―――。

「ねえ、今日うち来なよ」

 思わず、口からついて出た。

「え?」

 笹原は目を大きく開けて戸惑っている。

 私と笹原は思い返してみれば殆ど話したことがない。急にそんなこと言われて戸惑うのも当然だ。

「で、でも私、勉強が」

「矢印の勉強?」

「うん、矢印の勉強」

 矢印の勉強なんかしてどうするつもりだろう。

「いいじゃん。1日くらい」

 いい大学に入るため? その後、いい企業に入ってじゃあその後は?

 ずっとのつもり?

「来なよ」

 私がそう言うと、笹原はやはり少し困ったような表情を見せたあと、問題集に目を落とした。

 あ、今嫌そうな顔をした。

「.......うん」

 いつもの小さい声で笹原は言った。


「今日、親いないから」

「え、あ、そうなんだ」

 顔を見て、乗り気でないのがわかる。

 嫌なら嫌と言えばいいのに。まあ、私が半ば強引に誘ったんだけど。

 階段を上がり、私の部屋に案内する。

「わー、綺麗にしてるんだね」

「そこの椅子、座ってて。飲み物取ってくるから」

 うん、と返事をして彼女は椅子に腰を下ろす。鞄を膝に抱え、視線を彷徨わせている。

 背中が丸まっている。外敵から自分を守ろうとするアルマジロみたい。

「背中、丸まってるね」

「え、うん。ごめんね。私すごい猫背で」

 私はそっと彼女の後ろに立ち、肩に手を置いた。

「伸ばして、もっと」

 笹原は背筋を必死に伸ばそうとする。ぼさぼさの髪が私の顔に近づいた。

 私は制服のポケットからコームを取り出し、髪を梳かしていく。

「あ、あの、佐倉さんと、あまり話したこと無かったよね」

 徐々に髪が整えられていく。

「き、今日、誘ってくれて嬉しかった。ありがとう」

 嘘ばっかし。

 私は鋏を手に取った。

「で、でもなんで今日私を誘って―――」

 ジョキン。

「へ」

 黒い髪の毛が私の足元にぱらぱらと落ちた。

 ジョキン。

 ジョキン。

 鋏の音が鳴る度に髪が落ちていく。

「え、ちょっと何やって」

 振り向こうとした笹原の頭を押さえつけ、髪を切る。

 床が黒く染っていく。

 笹原はしばらくすると抵抗する気をなくしたようで、ぴたりと動かなくなった。

 笹原は息を少し吸った。

「そういえば、佐倉さん。美容師になるんだってね」

 先程よりも声が小さく、震えていた。

「ありがとね。髪、切ってくれて。嬉しいな。私が初めてのお客さんか」

 普通、怒るところでしょ。髪を勝手に切られて。

 嫌なら嫌って言えよ。

 何してんだ、って彼女には私を殴る権利があるのに、彼女はそうしない。

「初めてじゃないよ」

「え」

「初めてはお父さん。最初は変なおかっぱみたいになったけど」

 少し頭から顔を離して、バランスを見る。

「安心していいよ。変な風にはならない」

 私がそういった途端、笹原の強ばっていた首の緊張が少しだけ解けた気がした。


「ごめんね、制服」

 髪を切り終えると、彼女の制服から髪の毛を払いながら言った。

 彼女の正面に立ち、自分の仕事の結果を眺め、彼女の眼鏡をそっと外した。

 眼鏡のレンズにも髪の毛が付着しており、曇っていた。眼鏡を机の上に置く。

 二重だ。

 眼鏡のレンズによって歪んで小さく見えていたのだろうか。目も大きく、輝いて見える。

 右目の下には今まで眼鏡のフレームで隠れて見えなかった小さなほくろがあった。

 鼻の頭に付いていた髪の毛を1本取った。

「ちょっと待ってね」

 そう言って、私は自分のバッグを手繰り寄せ、中から化粧ポーチを取り出した。

「お化粧、普段してる?」

 彼女は首を振る。

 うん、そうだろうね。知ってた。

 肌にファンデーションを載せていく。

「コンタクトにはしないの?」

「え、えっと、目、に入れるのが怖くて。それに、この眼鏡、お父さんがくれたものなんだ。うちのお父さん、私が中学生の頃に死んじゃったから、今はこの眼鏡を形見みたいに思ってて………」

「したほうがいいよ。コンタクト」

 そんな眼鏡なんかつけてるよりは。圧倒的に。

 フェイスパウダーを載せ、頬に薄いピンク色のチークを入れる。

 次に、コーラルピンクのアイシャドウを引く。伸ばしっぱなしの眉毛はカットして眉ブローで形を整える。鼻が高く見えるようにノーズシャドウで影を入れ、最後に口紅を引くと、途端に顔に生気が出て、華やかになる。

 ヘアアイロンが温まったのを確認して、毛先を緩く巻く。

「できた」

 彼女の手を引いて、姿見の前に立たせた。

「え、これ」

 すごい、と笹原は口だけを動かした。

 ぼさぼさだった髪はすっきりと整えられ、軽くウェーブがかかっている。

 眼鏡を外し、もともと大きめだった目は強調され、暗い印象だった顔に色が差した。

「可愛くなった」

 私がそう言うと、彼女は頷き、「うん、可愛く、なった」と繰り返した。

 彼女は一心に鏡に映る自分の姿を見つめていた。


 ※


 一番乗りだった。

 黒板から見て右から2番目の列、前から3番目のいつもの席に腰を下ろし、スマホの内カメラで前髪の乱れを直した。

 一番乗りってなんだか分からないけど気分がいい。今日は雲ひとつ無いほど晴れていたからそれも私の気分を上昇させる助けとなっていた。

 爪を見た。

 鮮やかなピンク色で、先端にきらきらと輝くラメが入った爪。

 1週間前にネイリストにやってもらったその爪は見る度に私の気持ちを上げてくれる。

 そしてなにより、と右隣の席を見た。

 きっと、今日笹原は変わってる。背筋を伸ばし、表情は豊かになり、声は大きくなっている。

 クラスメイト達が笹原の変わりぶりを見て驚く顔を想像して一人ほくそ笑んだ。

 ホームルームまでまだ時間がある。

 今日は気分がいい。


「おーい、佐倉起きろー」

 その声で目を覚ますと、ヤダケンが教壇の上から私を見下ろしていた。

 いつの間にか教室はいつもの騒々しさを取り戻していた。

 私は慌てて体を起こし、スマホの内カメラで髪を直し、涎を垂らしていなかったかを確認した。

「よーし、じゃあホームルーム始めるぞ。おいそこ。ゲーム機仕舞え。まあ、特に連絡事項はないんだけど―――。おい、机の下でゲームやってるの見えてんぞ。仕舞えったら」

 一時間目の授業なんだっけ。

 起き抜けのぼんやりとした頭で考える。

 世界史だったらやだなあ。あの先生、教科書とか用意してないとぐちぐち言ってくるし、授業中も指してくるし。

 目の前に、急に白いプリントが現れた。前の席の男子が体をこちらに向けないまま、数枚のプリントの束を私の前でひらひらと揺らした。

「もしプリントの過不足あったら後ろの方で調整してくれ」

 前に視線を向けるとヤダケンがプリントの束を持って前の席の人達にどんどん手渡している。

 前の席の男子が、私が一向にプリントを受け取らないのに焦れたのか、体を半分だけこちらに向けて乱暴に私の机の上に数枚のプリントを置いた。

 保健室便り。

 A4のプリントいっぱいに手書きの文字で、イラストや装飾を散りばめながら、手洗いうがいをしっかりしましょう、だとか最近冷え込んできたので体調管理は万全に! みたいなことが細々と書かれている。

 こんなもの真面目に読む生徒いるんだろうか。しかも今どき手書きって。

 私は自分の分を取らずにプリントの束をそっくりそのまま後ろの席に回した。

「それから来週は模試があるから、進学組は忘れずに―――」

 突然、教室内に大きな音が鳴り響いて、ホームルームが止まった。

「は」

 少しして自分の椅子が倒れた音だと気がついた。

 意味が、わからない。

 私は立ち上がり、視線は右隣の席に釘付けになっていた。

 昨日、髪のセットの方法を教えたし、メイク道具だって私がもう使わないやつをあげた。

 それなのに―――。

 笹原はいつもと変わらない分厚い眼鏡越しに突然立ち上がった私を不安そうに見ていた。背中は丸まり、すっぴん。髪は昨日私が切った分、少しさっぱりとしていたが、起きてから殆ど手が加えられていないのだろう。右後頭部の髪は変な癖がついたままになっていた。

 どうして。

 髪のセットやメイクの方法がわからなかった? それとも寝坊した? メイク道具が私のお下がりだったから気に入らなかった?

 どうして?

 意味がわからない。意味がわからない。意味がわからない意味がわからない意味がわからない。

「佐倉? どうした?」

 ヤダケンの声がどこか遠くから聞こえてくる。

「具合でも悪いのか?」

 私だけが水の中にいるみたいに、くぐもって、世界の輪郭がぼやけていく。

「わ、私、佐倉さんを保健室に連れていきますね」

 手を引かれた。

 目の前で、ぼさぼさの髪が揺れた。


 保健室に入ってすぐに先程配られたものと全く同じ『保健室便り』の束が机の上に置かれているのが見えた。

 アルコール消毒の匂いがする。

「先生、いないね」

 室内をきょろきょろ見回しながら笹原は言った。

「ベッド、勝手に使っちゃっても平気かな」

 同意を求めるように私を見た。

 そのおどおどした態度、むかつく。

「………なんで?」

「え? なにが?」

 笹原はきょとんとしたように小首を傾げる。

 むかつく。

「なんで平気なんだよ」

「え? え?」

「なんですっぴんのまま外出て平気なわけ? なんでぼさぼさの髪で平気なの? そんなダサい眼鏡よく平気でつけてられるよね!」

 私の中で大きな感情がみるみる育ち、外に出ようと足掻いている。

「え? あの、ごめん。ごめんなさい!」

 困惑した表情のまま笹原は謝る。そして少し目を泳がせてから笹原は言った。

「佐倉さん怒ってるの、昨日佐倉さんが私にメイクや髪のセット教えてくれたのに、やってこなかったからだよね? 違うの、昨日佐倉さんに教えて貰えて本当に嬉しかったんだよ。だけど、うちは朝とかまだ小さい兄弟たちの世話をしなきゃいけないし、勉強だってしなきゃいけないから時間が無くて」

「だから? だからなに? 全部言い訳じゃん。そんなだからお前は今までもこれからもずーっと陰キャなんだよ。考えろよ。頭使えよ。お洒落をしないことがめちゃめちゃ大きなデメリットになることになんで気づかない?」

 笹原は傷ついたような顔をして、目を伏せた。

「………ねえ、佐倉さん。疲れてるんじゃない? とりあえずベッドに横になって―――」

「触んなよ!」

 笹原が私に向けて伸ばしてきた手を払おうとすると、私の手が笹原の顔に当たり、彼女の眼鏡が音を立てて、私の足元に落ちた。

 ダサい眼鏡。

 床に落ちた眼鏡を見ながら思う。

 こんなものかけているやつは頭がおかしい。美的感覚が狂ってる。これをかけて違和感を抱かないのは本当に致命的だ。

 右足がそっと眼鏡の上に乗る。

「ちょっ」

 ぺきょ。

 少し体重をかけただけで眼鏡が壊れる音がした。

 すーっと、私の中の憤懣が消えていく。荒ぶって、ささくれだった私の心が癒され、温かい気持ちになる。

 そっと右足を避けてみるとレンズは粉々に割れ、フレームは見るも無惨に歪んでいた。

「何してんの!」

 笹原が血相を変えて、私を突き飛ばした。

 私はバランスを失い、尻餅をついた。

 笹原はしゃがみこみ、粉々になった眼鏡の欠片を必死にかき集めようとしている。

 そんなもの集めたところで直るはずないのに。

 やっぱりこいつ、馬鹿だ。まあ、でも覚えは悪くても根気よく教えていったら彼女はまともになれるかもしれない。化粧や服のこと、その他にもしつこいくらいに教えないといけないだろうが、まあ、人助けだと思うことにする。

「よし、眼鏡壊れちゃったし、今からコンタクト買いに行こうよ。駅前のお店だったら即日手渡ししてくれるし、あ、そうだ。今お金ある? ないなら私全然貸せるからさ」

「は?」

 笹原は私を睨みつけた。彼女の目は潤んでいた。

「人の………人の眼鏡踏みつけておいて何その態度?」

 声がいつもより大きかった。顔はいつもの覇気のない顔ではなく、赤く色が差していた。

 やっぱり、あの眼鏡が悪かったんだろう。

 いつもより今の方がよっぽどだ。

「謝って」

 眼鏡が無くなった彼女はこれから髪にも服にも気を遣うようになる。

 そのとき、今までの人生がどれだけ無駄だったか知ることになるだろう。

「謝ってってば!」

「コンタクト買いに行くついでに服も買いに行く? 駅前だったらpastelってところが今ちょうどセールやってて―――」

「うるさい!!」

 え。

 私は自分の手に視線が釘付けになった。

 爪が欠けていた。

 私の、左手小指の爪が欠けていた。

 どこで? いつ?

 混乱する頭で必死に記憶を手繰る。

「お洒落を押し付けるのとかウザいんだよ! あんた頭おかしいんじゃないの? 昨日だって人の髪勝手に切るとかありえないし! あんたと私はそもそも向いてるベクトルが違うんだよ! 無理強いして同じ方向向かせようとしないでよ! 私は今の自分がいいの! 今の自分に満足してんの! ねえ! 聞いてんの?」

 あの時だ。

 笹原に突き飛ばされて、バランスを崩し、床に手をついた時。

 私を守っていてくれていた鎧がぼろぼろと崩れ、醜い私が顕になっていく。

 嫌だ。

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

 視界が真っ赤に染まった。


 誰かが叫んでいる。

 気がつくと、私は誰かに羽交い締めにされていた。その誰かの腕から逃れようと、私は必死にもがいている。

 保健室の中は椅子は倒れ、保健室便りはびりびりに裂かれ、絆創膏や消毒液が床に散らばっていた。その奥に保健の先生がこちらに背を向けているのが見えた。保健の先生の前には笹原がいた。鼻から血を出し、怯えた表情で私の方を見ている。

「死ね! 死ね! 死ねったら! 死ねよ! 早く死ねよ! 死ね! 死ね! 死ね!」

 叫んでいるのは私だ。喉が痛くなるほど憎悪を込めて、笹原が死にますように、と祈りを込めて、私は叫んでいる。

「おい、佐倉! 落ち着け! 落ち着けって!」

 その声で私を羽交い締めにしてるのはヤダケンだと気がついた。

 保険の先生が着ている白衣にはシワが寄り、薄い染みが所々についている。

 笹原の髪の毛には枕の跡が残ったままだ。

 保健室の窓には部屋の様子が映っていた。

 まず、散らかった部屋が目に入る。次に笹原の後頭部。保健室の先生の心配そうな顔。ヤダケンはズレた眼鏡を直す暇もなく、必死な表情で私を羽交い締めにしている。

 そして、髪を振り乱し、化粧は崩れ、鬼のような表情をした私が居る。

 私の小指の爪は欠けている。

 ああ。


「死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね! 死ね!」


 笹原も。ヤダケンも。保健の先生も。そして私も。

 みんな死んでしまえばいい。


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爪と眼鏡 ちくわノート @doradora91

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