承転


 飛び降りの場所は、大学の二号館の屋上からと決めていた。


 唯一屋上が解放されており、見晴らしの良く富士山も良く見える位置だからである。


 最後くらい、良い景色を見て死にたいと、そういう願いを込めての場所選びだった。

 

 ある日、五限目が終わった後、六時半を回った頃、警備の人が見回りに来る前に、そっと屋上への階段を上った。


 傾く夕日を見ながら、春彦は思った。

 

 否。


 走馬燈は、走らなかった。


 今までの人生なんて、何もなかった。


 きっとこれからも、何も無いだろう。


 そう思って――屋上へと続く扉を開けると、そこには果たして。

 

 先客がいた。


「やあ、羽豆春彦君」


 知っている顔だった。


 名前は、確か石廊崎いろうざきなびき――であった。


「石廊崎、さん」


「覚えていてくれて光栄だ、羽豆君」


 同じ大谷ゼミ所属で、学年でも有名な秀才であり、大学のパンフレットにも名前が掲載されている。


 どうしてここに居るのか、それを問おうとすると。


「私はね、羽豆君」

 

 と、まるで心を読んだかのように、彼女は語り始めた。



「!」


 彼女が何を言おうと――また彼女から何を言われようと、鉄面皮を貫こうを思っていたけれど、まさか自殺だとは思っていなかった、つい、顔に出てしまった。


「ここから飛び降りれば、十中八九死ぬことが出来るだろう。下はコンクリートだし、見回りもまだ来ない、他の棟からここの頂上は目視できないからね。絶好の飛び降り場所という訳だ」


 ははは――と。


 楽しそうに、石廊崎は笑った。


 楽しそう?


 どうして笑っているのだろう。


 否――それよりも、彼女が自殺をする理由の方が、気になった。今の学年では一二を争う秀才で、人あたりも良い――恐らく僕にないものをいくつも持っている――そんな彼女が、自殺などするとは到底思えなかったからである。


「どうして――自殺なんかするんだ」


「おいおい自殺なんかって、君だって、ここに自殺しにきたクチだろう?」

 

 そう言って、また石廊崎は笑った。


「分からないかい。考えているね。私が自殺をする理由を。まあ、考えても分からないと思うよ。私の気持ちなんてものはね」

 

 と、石廊崎は夕焼けを見ながら言った。


「ただ、理由なんてないのさ、何となく、死にたくなったんだよ。人生は上手くいったり、失敗したり、その繰り返しだろう。なんか、そういうのに、疲れちゃったとか、そういう理由かなあ。いや、気分で変わるかもしれないな。後は、そうだな、家が大変だとか、虐待受けてきたとか、そういう理由も良いな。それっぽい。まあ、実際に受けていないから却下だな。やっぱり、疲れちゃった案が妥当だと、私は思うんだが、君はどう思う? 羽豆君」


 まるで普通に会話するかのように、石廊崎は言った。


 内容が、狂っている。


「そ……そんな理由で?」


「ああ、そうだけど?」


「く――」

 

 狂っている、と言いかけて止めた。

 

 


 死ぬこと――自殺は、基本的には是か非なら非の側である。

 

 苦しんでも、辛くとも、逃げたくとも、それでも耐えながら生きていることが、この世の中では正しくなる。


 ――と、羽豆はいつも疑問に思う。


 苦しみに耐えられなかった者は?


 辛さを克服できなかった者は?


 逃げる先がなかった者は?

 

 どうすれば良いのだろう――と、ずっと羽豆は疑問だった。


 そしてその先の混沌の、数十年に渡る思考を重ねて、死という選択肢を選んだ。

 しかし、目の前の女はどうだ。


 まるで今日は天気だったからとか、湿度がいつもより高いからとか、傘を家に忘れたからとか、好きな曲がプレイリストで流れたからとか、コーヒーがいつもより熱かったとか、そんな理由で――死のうとしている。


 あまりに、軽すぎる。


莫迦ばか、じゃないのか……」


「そう? でも、死って皆、平等じゃん。どう死のうと、確実に訪れる」


 遅いか早いかだけの、違いだよ。


 そう割り切られたら、春彦には何も言えなかった。


「君はさ、なんか病んでて、そういう自分に酔っているみたいだけど、死にたい死にたいって顔しながら生きることが格好良いって思っているみたいだけれど、そんなことはないからね。そういう君が、一番生きることに固執している。自分から行動とか、していないでしょ。誰かが助けてくれるって思っているんでしょ。自殺しようって思えば、行動すれば、誰かが止めてくれるって思っているんでしょ」


 そんな訳ないから。


 と――石廊崎は笑いながら言った。


「君が生きようと死のうと、他人から見たら結局どうでも良い。だって自分の人生じゃないもん、君の人生がどれくらい辛いかは想像できないけれど、今まで生きてきた君は、じゃあ何な訳? 死ぬことができずに生きるくらいだったら――いっそ死んだ方が良いと思うよ」


「…………」


 春彦は、何も言えなかった。


「ぐちぐち悩んでる暇があるなら、病院に行けば良いじゃん。精神科とか心療内科とか、或いは弁護士とか、色々と手はある。なのに君はそれをしない。逃げ道が沢山あるのに逃げないで立ち向かうのは、勇気じゃなくって愚鈍だよね」


 春彦には、何も言えなかった。


「でも、楽な死に方って言うのが無いんだ――これがさ。だから、私が教えてあげるって訳。死ぬってことは、一歩を踏み出すってことは、こんな簡単なこと――だって、さ!」


 何も言えない春彦を飛び越えるようにして。


 勢いを付けて。

 

 綺麗なフォームで走って。


 そしてそのまま、フェンスを飛び越えて。


 下へと自由落下した。


 数秒後、鈍い音と、何かが弾けるような音が響き渡った。


「…………」


 恐る恐る下を見ると、見る影もない、石廊崎の遺体が見えた。

 

 まるで、付いてこい――とでも言わんばかりに、思いっきり手を広げていて。


 身体が変な方向にねじれていた。


「…………」


 フェンスまで、寄った。


 そして力を込めた。


 後は、よじ登って自由落下するだけで、全てが終わる。


 なのに。


 それでも。


 ――僕は、飛び越えることができなかった。

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