第91話 妹の(唇の)危機に必ず駆けつける兄 


「お兄さま」


 を放蕩娘と呼んで冷たい目をしていたとか、自分は偽者だとか、そんな事は関係なくて、ただ、「来てくれた」というだけで、その胸に飛び込んでしまった。


 お兄さまは、押し返したり怒ったりしなかった。


 むしろ、狼狽えた。


「え、ちょ、アンジュ? ⋯⋯泣いてるのか?」


 肩の辺りを抱き返してくれる温かさに、恥ずかしくなって迷惑だろうと身を離した私を見て、お兄さまの声がワントーン低くなる。


 厳しい目をして顔を上げようとしたお兄さまに、首を振るだけで制止する。

 相手はこの国を含む西域全土を取り纏める長官の後継ぎ。適う適わないではなく、問題を起こさない方がいいに決まっている。


妹がヽヽ何か失礼を?」


 どちらに非があろうとも、妹に何かしたのかと訊ける立場にない。


「まさか。ちょっと昔話をしただけだよ」

「昔話? ですか?」

「そう。一昨年、アンジュリーネ嬢が僕の従弟いとこと婚約するより前の話」


 本当か?と視線をよこすお兄さまに頷き返す。


「それだけで、この兄の胸に飛び込んでくるような内容になるのか?」


 なるべく小さい声で訊いてくる。


「ち、ちょっと、甘えてみました。辺境伯家のご嫡男様との会話は緊張して⋯⋯ お兄さまのお声を聴いてお姿を見たら、つい」


 出自を、正体を知られているとは言えないし、不埒な行為を強要されかけたとも言えない。


「お父上を陞爵させたりこっちも足元の地を固めて、僕がグランドツアーから戻ったら国境警備の士官になる予定に合わせて迎えに行こうと思ってたら、盗っ人狐に獲物をさらわれた話。とかね?」


 それ、隠し切れてませんよシュテファン様。わざとですか?


「‼ それは、さぞかし残念だったことでしょう。秋の狩りの季節にまた、もっといい獲物がありますよ、きっと」


 お兄さまは、どこまで理解して、どこから予測で、話を合わせているのだろう。

 クリスにお嬢さまを横取りされた話だと思ってる? それとも、全然別の話だと?

 まさか、私が偽者だと気づいて、以前からシュテファン様と面識があったとか(ないけど)、シュテファン様に狙われているとか、想像してないよね?


「アンジュ。明日王都へ行くのに、荷物のことや色々と話があるから、部屋へ行こう」

「はい」

「では、シュテファン様も、明日の朝も早いので、そろそろお休みください」

「ああ。そうさせてもらうよ」


 お兄さまに、肩を抱くように部屋の方へ促される。


 摑まれていた手首をなにげにさすってしまう。

 あの摑まれていた感触がまだ残って⋯⋯  


「え?」


「どうした? アンジュ」

「あ、いいえ。何でもありませんわ。図書室の管理人全員に挨拶が出来ませんでした」

「また帰ってくるだろ。そん時改めて挨拶しろ」

「⋯⋯はい」


 次にここに来るのはお嬢さまだろうから、ちゃんとお礼を言えなかったのは残念。


 でも、それよりも、どうしよう。

 不安でしかない。


 振り返ると、シュテファン様が、口の端をあげて薄く笑いながら片腕をあげる。その手にヒラヒラと見せびらかすものが。


 お嬢さまとしてだけど私が初めてクリスに買ってもらった、青孔雀のピーコックブルー色水晶とカラークオーツ 花を象った天然石のブレスレットが、先ほど抜き手を切った時に、シュテファン様の手の中に残ってしまった‼


 簡単には返して貰えそうにないと思われる。


 それとも、今、お兄さまの前で返してくれと言えば、あっさり返してくれるだろうか?


 なんとも言えない笑顔で、一度ブレスレットを見て、再び私達を見ながら、ドレスシャツの胸元の隠しに入れた。


 と、いうことは、すぐには返す意志はないと言うこと。


 どうやって取り返せば⋯⋯


 もう一度振り返ってみたけど、見えたのは、シュテファン様の客室の方へ戻っていく後ろ姿だった。


「王都へ行くにしても、また、こっちへ帰って来たらいいし」

「帰る? 来る、じゃなくて? 王都へ行くじゃなくて、帰るでしょう?」


 お兄さまの言葉が少しおかしい。


「何を言っている。おかしいのはお前の方だ。王都のやしきは、貴族屋敷街にあるから勘違いしてるのか? あれは、ランドスケイプ家のタウンハウスだ。代々の、王都や王城で働く一族が住まう屋敷。

 元々は、ヒューゲルベルクのこの城が、マナーハウス──本宅だぞ?」


 あ。そうだった。


 お父さまやお母さまが一緒だから、あそこが本拠地のような気になってた。


「父上だって、何年かして通産省の仕事を引退なさったら、ここへ戻ってこられるんだぞ? ここがお前の家だ」


 お嬢さまは、お祖母さまの厳しい教育や、農業の盛んなこの土地を嫌って、華やかな王都に暮らしているけれど、本来は、テレーゼ様がご領地で暮らされているのと同じで、お嬢さまもこちらでお兄さまと一緒に育つはずだったのだわ。


「だから、だな。持って来たドレスや家具の半分はここに残してお前の部屋をちゃんと作って、王都での殿下の用事を済ませたら、またここへ戻ってこよう? 心配しなくても、祖母さまには文句は言わせないよ。お祖父さまも、公爵家の孫が王都へ向かうのに騎士を出さない道理はないって言ってただろう? ちゃんと、お前のことは孫だと認めてくれてるさ」


 不思議だ。


 お兄さまの言葉は、時々、私がアンジュリーネお嬢さまではないと知っていて、ちゃんと『アンジュ』と、私を呼んで、私の事を話しているように聴こえてくる。


 そんなはずはないのに。


「ここからなら、クリスんとこの城のあるハインスベルク本拠地までもそう遠くないから、アイツが領地に戻っても時々会えるぞ?

 だから、今テレーゼ様と一緒にいるあの部屋、そのままお前の部屋として、可愛い壁紙や、緻密な彫り物の家具、お気に入りの茶器なんかを揃えような」

「でも、来年のお誕生日の後、クリスの──クリストファー様のもとに嫁ぐのに、今更お部屋を拵えても、正味1年も暮らさないわ?」

「構うもんか。あって当然のものだろ。それになんだったら、成人するまで ※ヨーロッパの成人は21歳嫁ぐのを伸ばしてもいいんだぞ? もっとお兄さまと一緒に遊ぼうか」

「そうしようかな」


 お兄さまの言葉が優しいから、甘えてみたくなって、腕に巻き付くようにくっついてみる。


「よし、決まりだ」

「ちょっと待て! なんで来年の輿入れが当たり前のように3年延びてんだよ!」


 部屋の前で待っていたクリスが、慌ててお兄さまに文句を言っていたけど、冗談だと気づいたのか、ブツブツ言いながら、私の方を向く。


「アンジュ。明日でしばらく会えないけど⋯⋯」

「お兄さまの言うように、このお城に帰ってきたら、お手紙を書きますわ。そしたら、会いに来て?」


 湯上がりで火照ったのか真っ赤な顔で、クリスが私を抱き締めたけど、お兄さまは咎めたりしなかった。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る