第90話 抜き手と小手返しで奪取します 


 お嬢さまのような、王族の末姫の血をひく血系貴族のご令嬢ならともかく、元々下位貴族の三男で、功績から方伯の推薦で辺境伯に子爵位を叙爵された官僚子爵である、限りなく平民に近い父と、同じく官僚伯爵家出身の母の娘である私では、国境守護職長官の辺境伯の子息に嫁ぐ身分ではない。


 そんなのは、ご本人も承知のはず⋯⋯


 だから、父の陞爵なの? そんな、私が11~2歳の頃から、すでに計画していた?


 ギムナジウムに上がったばかりの、多少語学に明るい程度の小娘の、何を以て価値を見出したと言うのだろう。


 理解に苦しむ。


「クリスと結婚するのかと訊いたら反応したのに、僕がもらってもいいかと訊ねたら反応なし? つれないね、アンジュ嬢は」


 精一杯虚勢を張る姿も可愛いけど。などと耳元で囁いて、喉の奥で笑うシュテファン様は、本気なのか冗談なのか、ただの脅しなのか、私には判断できなかった。


 どちらにせよ、かなり前から私を捜していた事は判ったし、地位的にも職務的にも、私の情報を入手する事はさほど難しくないシュテファン様のこと、それなりの確信を持って話しているのだろう。

 身分、秘密を握っているという立場、すべてにおいて向こうが上だという余裕さえ見える。


 悔しい。


 お父さまやお母さま、お兄さまやお祖父さまのためにも、お嬢さまの遊蕩ぶりや病のことを隠さなければならないし、身分差からも、下手に言い返したり私を摑まえる腕を返して反撃も出来ない。


「領邦候の子息より辺境伯の子息の方が、お得だと思うけど」

「お得とか、優位とか関係ありません。父がエルラップネス公爵閣下と、隣り合った領地同士、交易も交友もよき関係を続けるための契約として、わたくしとクリストファー様との婚姻契約を締結なさったのですから、従うだけです。横槍を入れるのは、辺境伯家といえども無粋なのでは?」

「知り合ったのはクリスが先かもしれないけど、目をつけたのは僕が先なのになぁ。父上にも、子爵の起用を提言してあったし、僕がグランドツアーから戻って、国境警備に戻る時、昇格と同時に、君を迎えに行くつもりだったんだけど、子爵が亡くなっていて、夫人は青の森のブラウヴァルト 金持ち男爵と再婚してて、君は平民として奉公働きに出て居場所は不明。身元引受人である祖父の伯爵にも告げてなかったのかい?」


 最初のうちは、未成年で細っこい頼りなげな小娘ゆえに、いい仕事やいい雇い主に恵まれなくて職を転々としていたから、きっと偶々、転職後に諸々の手続きが済んでなかった頃に探しに来たのね。運の悪いこと。いえ、運が良かったのかしら? 見つからずに済んだのだから。


「なぜ、アンジュリーネ嬢の替え玉をしているのかの答えを聞いてないけど、来年の結婚までには、再び入れ替わるつもりなんだろう? その後はどうするの? 身近にいた人達──テレーゼ嬢や王族の方々と、再び顔を合わせる訳にはいかないんでしょう? 今後は王都は離れて暮らすんだよね? また、新しい仕事を1から探すの? 僕のところに来た方が楽じゃない?」


 まだ、もっと楽をしたいと思うほど、苦労はしてないわ。


 あのまま、パン屋の若夫婦と平和に暮らしていけたら、それでよかったのに! あの、朝が早くて忙しいけれど穏やかでやりがいのある毎日を、お嬢さまが壊した!

 あなた達上位貴族の都合で、私の日常を壊して、貴族の事情に巻き込んだのよ。

 そして、もう、あの日常には戻れない。


 貴族階級が来店するような店舗ではないけれど、貴族向けの高級店舗の建ち並ぶ通りに近いから、何かの折に誰かに顔を見られるかもなんて事にならないよう、いつも気を抜けなくなってしまった。


 あの女将さんも、ある中間管理職宮廷貴族家の三女で、ご主人も王城騎士を引退した一人。

 お祖父さまの顔を立てて雇ってもらったのに、お嬢さまが迎えに来たことで、厄介事に巻き込まれたと察しただろうから、あそこに戻ることは迷惑でしかないだろう。


 嫌なことを考えすぎて目尻に湿気が溜まりそうになって来た時、シュテファン様が再度、私の顎にかけた手を引き、目を無理矢理合わせる。


「悪いようにはしないよ? 自分の妻を虐めるような趣味はないからね」


 そうだとしても、お嬢さまと結婚したクリスの、従兄で上司にもなるあなたの妻になんかなれるもんですか。

 こうして身代わりをするほど似てるというのに、そんなややこしいこと出来る訳ないでしょう。


 睨んでいるのを何かと勘違いしたのか、シュテファン様の顔が、鼻先が触れそうなほど近づいてくる。








「君、クリスのことが好きなの?」

「え?」


 この人は急に何を⋯⋯


 息がかかるほど近くで、困惑したシュテファン様の顔を見ていると、左眼の端から、一滴ひとしずくこぼれた。

 緊張と、秘密を知られている恐怖からかな。


「自覚ないの? とぼけてるの?」

「クリスは、小さい頃数回あっただけの、ただの顔見知りで、その時子分になると誓わされたから、クリスとハイジは、私の初めての、心のお友達。それだけですけど?」

「⋯⋯どうやら、本気ヽヽのようだね」


 鼻先が触れそうなほど近くにあった顔を離して、左手は私の手首を摑んだまま、右手でご自身の顔を覆って、天井を向く。


「はぁ⋯⋯ やれやれ、今は、気が削がれたかな」


 大きなため息をつくシュテファン様。腕は摑んだままだけど。


 子供の時、子分になった証しとして、クリスに教えてもらった抜き手で、手首を取り返せないかしら。

 これを教えてもらったおかげで、平民として市井に出ても、身の危険から逃れられて来たのだ。



「アンジュ?」


 どうやって手を解こうか思案していると、シュテファン様の背後から、戸惑いを含んだ声が聴こえる。


 その声に、シュテファン様の意識が逸れ、視線は背後に向かう。

 

 今だ‼


 自分の手を手刀型にして手首を回しながら、摑んでいる手の親指と人指し指中指の隙間から抜くようにすると、力の弱い女性でも、比較的簡単に抜けると、子供の頃教えてもらって、何度も練習したっけ。


 おかげで、人攫いにも攫われずに済んだし、酔っ払いや強引な客引きからも逃げられたのだから、クリスには感謝してもしきれない。


 気が弛んでいたのと、私がそんな事をするとは思わなかったのだろう、摑む力が弱くなったシュテファン様の手から自分の手首を取り返し、慌てて摑み直そうとした手の甲を払って返して再び摑まれるのを阻止し、そのまま声の主の元へ駆け寄る。


「お兄さま」


 部屋にいない私を、捜すなら図書室だと当たりをつけて来たのか、ドレスシャツにトラウザーズだけのテオドールお兄さまが立っていた。



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