第88話 方伯  


 テレーゼ様がお湯を使われている間に、借りていた本を、あの図書館と言ってもいいような書庫へ戻しに行く事にした。


 侯爵邸より大きく使用人も多いと思われるのに、このお城のような公爵邸でも、廊下で使用人と擦れ違う、という事は殆どない。

 あっても、精々が部屋付きの上級メイドか、当主の仕事を手伝う執事や各部署の事務官である伯爵や子爵。

 彼らは当主の孫である私に道を譲るし、不用意に声をかけるものなどいない。


 行き届いた上位貴族家の屋敷ほど、使用人達の姿を見ないよう、彼ら専用の通路を作り、表には出てこないものだ。

 人目も、気兼ねもなく、家人が快適に過ごせるようになっている。

 

そんな屋敷の中だからと、イルゼさんを伴って出なかったのは失敗だった。完全に気が緩んでいた。



 本を書棚に戻し、顔見知りになった大学生に明日王都へ戻ることになったと挨拶をして(これが最後だろう)別れ、本館に戻ると、侯爵邸でお兄さまが初対面で私を放蕩娘と言ったときと同じ姿勢で、シュテファン様が立っていた。


 壁に背を預け、前で腕を組み、ややうつむき加減にあちらの方が背は高いのに見上げるような目で、こちらを見ていた。

 黙って通り過ぎるのもどうかと思案していると、片手をあげて、気軽な感じを出してくる。


「あの⋯⋯」

「クリスならバスルームだよ」

「明日は早く発つのでしょうから、もう、ゆっくり休まれるのでしょう。シュテファン様もそろそろお休みに?」

「まあ、そうだね。だけど、その前に⋯⋯」


 組み直した腕を解し、ゆらりと上体を起こして一歩二歩と、近づいてくる。


 何か、頭の中に早く逃げろと警告が響き渡る。


 ──この人は、危険だ


 なぜそう思うのかは解らない。でも、最初からこの人には近づきたくなかった。


「わたくしもそろそろ休みますので、また明日⋯⋯」

「逃げなくてもいいでしょう? アンジュ嬢⋯⋯ いや──」


 擦れ違って逃れようとする私の手首を摑み、耳元に口を寄せて、名を告げる。


 名。今は、誰も呼ぶ事のない、私の、父からもらった名。もう、貴族名鑑から削られた家名と共に、私のファーストネームを、シュテファン様は囁いた。



 真っ白になりそうな頭をゆるゆると働かせて、ようようひと言だけ返せる。


「なぜ、その名を⋯⋯?」


 勝ち誇ったような笑みを浮かべるシュテファン様。


「君、僕の父が穀倉地を任せていた方伯の元で財務官をしていた子爵のひとり娘だよね? 何で、こんな所で、侯爵令嬢のフリをしているのかな?」


 バレている!? 私がお嬢さまでないだけではなく、私の出自まで!!

 いったい、どうしてバレたの? なぜ、シュテファン様は、ご存知なの?


 この場は、どうやってやり過ごせばいいの?

 どう答え、どう動くのが正解なの?


 私が困惑していると、シュテファン様は楽しそうに、私の顎に手をかけて強引に目を合わせる。


「この帝国内でも、小麦が採れる土地は重要だからね、近隣諸国はもちろん、方伯の動向にも常に目を光らせてるんだ」


 それが、私の出自と関係している? そんな馬鹿な事はないはず。


「貴族として力をつけるには、本人の能力や財力はもちろん必要だけど、人脈や知識も重要なんだよ。宮中で味方がいない貴族ほど惨めなものはないからね。

 何かをなすにしても、ことを起こすにしても、ひとりじゃやり遂げられない。必ず、味方は必要だ。だからかな、方伯は、頻繁に茶話会や夜会を開いていた。顔を売って、人脈を広げたかったんだろうね。また、将来の優秀な手足になる若者を取り込もうと、子供を集めた茶会もよく開いていたかな?」


 そう、そのお茶会の内の五回で、クリス達と一緒になったのだ。


「その方伯の茶話会の中でも特に目をひいたのが、子飼いの子爵の奥方で、王族でも滅多にお目にかかれないような、純血上位貴族かと思わせる光り輝く金髪と、青の森をブラウヴァルト 思わせる深い翠の宝石の瞳、脱けるような白い肌。あれは、染め粉や脱色をしてもああまで見事な金髪にはならないだろう。

 彼女が参加していれば、多くの貴族紳士が集まったので、方伯はよく彼女を招待、起用していた。愛人ではないかと疑われるほどにね」


 そんな噂があったの? 知らなかった。


「当時の君は子供だったし、子供の前ではそんな話はさすがに誰もしないだろう?」


 いいえ。大人達の真似をした小さな令嬢達が、私や母のことを貶めたのだから、あちらこちらで話されていたはず。

 ああ、嫌なことを思い出させる。


「その方伯の子飼いの下級貴族達が提出してくる公文書がね、おかしいんだなぁ?」


 え? まさか、そこまで把握しているの!?


「どの文書も同じ手になる繊細な文字で、丁寧且つ古典文学的な文面でね。ああ、古臭いって意味じゃないよ、古典文学のような詩的な文体を使ってあるんだ。騎士訓練や芸術観覧ばかりしていた彼らにはとうてい書けないような、古語も使われていたっけかな?」


 手本になるのが、父と、父の辞書、書棚の古典文学だったから、知らずそういう文体をするのは仕方ない。今なら、もっと効率的な文章で書くのに。


「あれ、君が書いてたんでしょう?」


 心臓を直接摑まれたように、痛みを伴って激しく動悸する。


「おかしいよね? 社交と美容に余念がない夫人と、優秀だけど地方下級貴族の父親。後継ぎ候補を複数育てる事が多い貴族なのに、子供はひとりだけ。民間人だって、4~5人は産むよ?

 子爵も語学センスはずば抜けていたらしく、当時のぼんくら下級貴族達は、ラテン語や友好国の言葉での公文書は、子爵に書かせていたそうだね。だから、そのぼんくら共を更迭して、子爵を陞爵させて、方伯と入れ替えるか、侯爵にでもしてやろうと思ったのに。流行病で呆気なく逝ってしまって、僕の計画は狂ってしまったよ」


 計画? 更迭のこと? 父を取り立てること?


 父を陞爵させて、何をしようとしていたの?



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