第86話 僭称  


 目覚めた時、私はテレーゼ様の手を握ったままだった。

 寝苦しかっただろうに、テレーゼ様は文句も言わず、むしろ気づかってくださった。


 朝食の場に、お祖母さまは顔を見せなかった。

 偏頭痛がするとかで、ご自室で軽い物だけを召し上がったそうだ。


 ジェイムスさんは良くあることなので気にするなと言ってくださったけれど、お兄さまもお客さまもいない状態で、緩衝材なく私の顔を見たくなかったのかもしれない。


 結局視察先でお泊まりだったらしく、お兄さまもクリスも、シュテファン様も戻ってこなかった。



「今日は、難しいことを考えたり語学に頭を使わずに、刺繍かキルティングを無心でやりましょう?」


 テレーゼ様の勧めで、ヴェストファーレン州の伝統紋様をベースに、私はヒューゲルベルクとハインスベルクの伝統の図案を、テレーゼ様はご自身の領地エーデルハウプトシュタットの伝統紋様と青の森のブラウヴァルト 氏族の伝承図案をキルティングし、テレーゼ様は出来上がったら更にヴァルデマール家の紋章を刺すことにするという。


「テレーゼ様、教わらなかったと仰ってましたけれど、すっかり慣れたようですわね」

「ええ。曾祖母は母になぜ教えなかったのかしら。お父さまは男だから刺さないにしても、普通は嫁に伝えるものではないのかしらね」


 曾祖母同士が姉妹だと言っても、メヒティルデ様は男児を五人と女児を四人産み、その嫡男がテレーゼ様の祖父公爵さまにあたり、ミルヤム様は女児しか産まず、長女がギーゼラ・ロスヴィータ様にあたる。


 テレーゼ様曰わく、大叔母も叔母も、青の森のブラウヴァルト 氏族の図案は習っていないらしい。


「ミレーニア様がよくご存知でよかったですわ」

「ええ。わたくしもまだ習ってませんでしたので、一緒に習えてよかったですわ」

「アンジュ様は、キルティングを習いませんでしたの?」

「え、ええ。その、お恥ずかしながら、詩作と同じでキルティングや刺繍はあまり得意ではなくて、ずっと一人で語学や文学ばかりやってましたの」


 半分は本当で、半分は嘘。


 詩作が苦手なのも、針仕事が人並み程度で得意ではないのも本当。

 でも、もう半分の真実は、私は青の森のブラウヴァルト 氏族の出身ではないこと。

 また、父の家門の紋章も、生まれ育った土地の伝統紋様すらも、教える気はなかったのか社交に忙しかったからか、母が教えてくれなかったのと、父の死後、働きに出てゆったりと習う時間がなかったからだ。


 本当は、私如きが、青の森のブラウヴァルト 氏族の伝統紋様を刺すなど烏滸がましい事。

 王族を僭称するに等しい行為。


 昔は、王族の僭称は、縛り首の上、一定期間の公開さらし首だった。



 今は、お嬢様として、お母さまの娘として、青の森のブラウヴァルト 氏族の伝統紋様を刺しているからいいようなものの、このまま入れ替わりが遅れたら、どうなるかわからない。

 そもそも、侯爵令嬢であるお嬢さまのフリも、その恵まれた環境の恩恵を受けている以上、元子爵令嬢で平民の私では、これも僭称にあたる。


「アンジュ様? また、何か難しいことを考えていらっしゃるでしょう? 眉間にうっすらと皺が寄ってますわ。ダメですわよ? 今日は、無心で針を進めてくださいませね」


 テレーゼ様の柔らかな指先が、私の眉の間を揉みほぐそうと撫ぜる。


「悩み事があっても、顔に出してはダメ。皺になるし、領民や使用人達の前で、そんな顔をしては、下の者は不安になるわ。わたくし達は、常に微笑んでいなくては」


 領主の暮らし向きがよくなくなるということは、領民達の生活もよくなくなるということ。

 領主の一家が笑っていれば、民も庇護下にいることを安心出来る。

 上に立つ者は、弱った姿を見せてはいけないのだという。


「わたくし達がドレスを着て微笑むのは、贅沢して遊び暮らすためではなく、職人達に仕事を与え、商人達が儲かり、徴収した税で領地を豊かにしていくため。領民のためなの。無駄な贅沢は不要だけれど、わたくし達がある程度豊かさを象徴していることは必要なのよ」

「お母さまにも言われました」

「当然ね」

「わたくしが別荘から戻って、サイズが落ちていたので、ドレスを作り直すと言われて⋯⋯遠慮したら、わたくしのドレス代金も商人や職人、運搬業や素材を作る人達など、国の中でまわっていく物だから、必要に応じて使うべきだと」

「そうね。昨年の冬の王家主催のシルベスターで見た時よりも、ほっそりとされたようね?」


 ぎくっ それは、お嬢さまです、ワタシジャアリマセン⋯⋯



 夕刻の陽が落ちる頃、お兄さまとクリスと、シュテファン様が戻って来た。

 公爵さまを送っていった騎士ふたりも一緒だった。




「お嬢さま、王家からの召喚状が届いております」 


 晩餐中に、恭しく、ジェイムスさんが、封蠟押しの書状を持ってきた。


 ──王家の召喚状?



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