第6話 人質
近所のみならず遠くの街にまで人気のパン屋の評判や、年金で質素倹約して暮らす真面目な祖父母の人格や過去の仕事ぶりを、疑われるような噂をまかれるだけで、私の世話になった人達が不幸になり、或いは破滅するかもしれない。
私には、断る勇気はなかった。
もしかしたら、ただの脅しで、本当にやるとは限らない。
でも、もし本当にやられたら?
私にはその噂を回収する伝手も技量も財力もない。
抗えないと諦めた私に気を良くしたお嬢さんは、パン屋の若夫婦にたっぷりの退職金を渡し(引き抜き迷惑料?)、私の語学力と教養、よく働くという評判から、ぜひお嬢さんの身の回りの世話をする高級侍女に引き抜きたいなどという大嘘を披露して、私を連れ出した。
「なあに? アンタ、あそこで一年以上暮らしてたんでしょ? 荷物、それだけなの?」
お嬢さんの馬車に乗り込むとき、馬車の屋根の上の荷台に荷物を乗せるからとフットマンに訊ねられても、この手にある、就職祝いに祖父にもらった革製の、ボストンバッグひとつしかないからと断りを入れると、お嬢さんは、心底驚いた様子で訊いてきた。
「ええ。着替えと、辞書が少し。他は、住み込み用の備品と作業着とエプロンだけなので、持ち出すものは特にありません」
急なことで、掃除や仕込み用の作業着と販売用のエプロン、貸与品のシーツを洗濯する暇もなかったことを詫びると、若夫婦は、普段から掃除は行き届いているし、洗濯も、替えは出来ていて今日着ていた物だけだから構わないと言ってくれたのが申し訳なかった。
引き抜くにしても、普通ならば準備期間を設けるものではないの?
私の後がまを探す時間も必要だろうに。
そういうところに気が回らないのか急いでいるのか、気にする必要もないと思っているのか。
いずれにしても、自分勝手な人達。
馬車の扉が閉められると、程なくして発車する。
私は、お嬢さんの向かい側、進行方向とは逆向きに座っている。
発車前の僅かな振動は、馬車の客室の後ろのステップにフットマンが乗った時のものだろう。
馭者だけでなく、フットマンが付き、幌やシェードではなく屋根があり、のみならず扉もある箱型馬車。四頭立てで四人乗れる。
かなりのお金持ちのお嬢さんなのだろう。
馬車の窓から外を見ると、若夫婦がずっと見送ってくれていた。
申し訳なさと悔しさで、胸が焦げつきそうになる。
「さて。身代わりをしろと言っても、すぐには出来ないでしょうから、」
そこはちゃんと理解しているのか⋯⋯
「まずは別荘に行って、私をよく見て、仕草から口調まで憶えてもらうわ。その後、関係者の名前や背景なども、間違わないように暗記してもらわなくちゃね」
「⋯⋯わかりました」
こんな我が儘放題に育ったお嬢さん本人に見えるような仕草をして同じ口調で話せなんて、中々の苦行に思えたが、お世話になった人達のためにも、頑張るしかない。
「まずは、その話し言葉を令嬢らしいものに変えてもらわなくちゃならないわね」
「その心配はございませんわ。辺境伯の領地で子爵令嬢として過ごした頃の自分に戻ればよろしいだけですもの」
「なるほど。そのようね。田舎訛りもないみたいだし、そこは及第点をあげるわ」
どこまでも上から目線な人だ。
交流のなかった程度でも血縁者だというのなら、もう少しそれらしい対応もあるでしょうに。
こんな人の真似をして、こんな人に成りきらなくてはならない事に、今から頭が痛かった。
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