決戦(ティサ・ユージュ)4
「……はっ」
――気づくと。
私はそこに立っている。
どこからか鳥の鳴き声が響いてくる……すぐ近くから人の話し声がする
温かくて、凄く懐かしい場所。
「…………」
人の話し声は、知らない人の声……ではない。とてもよく聞きなれていた、ずっと聞きたかった、そんな声に思える――
「……お母さん!」
「……あ……」
――話し声は、誰かと誰かが話している声ではなかった。その声が、私にずっと話しかけてきた、そんな小さな子供の……舌足らずな、優しい声――
「……なんだい?」
「うん、あのね――」
――振り向くと。そこには少女が座っている。私が作っている料理を待っているんだ。朝ごはんを、私が作っているスープを今か今かと待っていてくれている。
年は……きっと六歳か、いや……七歳。
この年頃の子はもっと活発に走り回るものだが――この子は、他の子より大人しめだ。気性がのんびりした……おとなしくて、行儀がよくて、とてもいい子なんだ。
「今日からわたしね、学校だけど……楽しみだけど怖いな……」
「…………心配ないよ」
少女は不安と緊張でかすかにふるえているようだった。カールのかかった、私が結んであげた髪紐をいじりながら、こちらをちらちらと見てくる。
こういう時はハグをしてあげると、はにかむように笑うんだこの子は。
「困ったら私になんでも聞くといい! なんたって私は先生だからね!」
「! えへへー!」
ぎゅっと抱きしめると。
小さな手を私の背中に回して満面の笑顔を見せてくれる。
まったく、甘えん坊だな……誰に似たんだろう。私ともあの人とも違う、でも見た目だけは私によく似ていて、ちょっと不思議な気持ちになる。
私の娘……私とあの人の子供だ。
世界で一番大事な、私のたからもの。
「……お父さんはいつもはやいよねー」
「…………」
少女が言って、テーブルの空席を見つめる。あの人は夜遅く帰ってきて朝早く仕事に出ていく。リデック第六公国の国境警備。
数年前までは暇で仕方がないと言っていたが、最近は忙しいらしい。このままじゃ娘に顔を忘れられてしまうのでは? とからかってやると、気恥ずかし気に頭をかいていた。
そういう仕草は娘に受け継がれているみたいで、ちょっとおかしい。
「さあ、行こうか!」
「うん!」
少女の手を取って――家を出る。今日は私の学校にこの子がやって来る日だ。
生徒がそんなに多いところじゃない、学年も何も関係なく、みんな楽しく勉強して遊ぶ、公都のほうとはまた違ったスタイルの学び舎。
私は今の仕事が好きだった。
本当に好きだった。
あの子たちのことが……大好きで仕方がなかった。みんな家族だと、私は本気でそう思っていた。
*
「せんせーおはようございまーす!」
「ライカてんてー! こっちこっちー!!」
「せんせい、宿題わすれちゃったー」
「……あれー、初めて見る顔だ! てんこーせーですかー?」
「わ、わ……」
――学校には色んな子たちがいる。得意なこともそれぞれ違う。でも、教師は私しかいない。この学校の運営をしてくれる校長先生は、この辺鄙な町に子供たちに教育を施す場所を用意したいと色んなところを周って、運営資金の確保や校舎の設営まで、尽力してくれた人――かつて私が幼い頃、教鞭をとってくれていた恩師だった。
私は……私は楽しかった。毎日毎日違う表情を見せて、少しずつ成長していくこの子たちがすごく誇らしかったんだ。
「ああ、この子は転校生じゃない――今日からこの学校の新しいお友達になる。レイサ・アヤシキ――新入生だよ!」
「あやしき……? あやしきって先生の名前じゃない! ということは……」
「わ、わたわたわた……私、先生の子供……です! よろしくおねがいします!」
「あははっよろしくね!」
「たしかによく見ればにてる……」
「ちっちゃい先生みたいでかわいー」
「おいおい、なにかその言い方は恥ずかしいのだがね!」
「わー先生の顔が赤くなったー!」
周囲が笑い声に包まれる。陽だまりが廊下に入ってくる。一時間目はなんだったかな……ああ、そうだ……体育だった。
健全な精神を育成し、健康に日々を過ごせるようにする。
だけど堅苦しいものじゃない。こんなに小さな学校なんだから……ちょうどいい、みんなで楽しめる遊びでもしてみようか。
*
二時間目は……算術。
三時間目は……国語。
私の娘は休み時間のたびにあっという間に同い年の女の子たちに囲われて……友達がたくさん出来たみたいだった。一つの町といっても住んでいるところはそれぞれ離れている。そんな子供たちがひとつの場所に集まって、同じ空間でそれぞれ適したことを学ぶ。
彼ら彼女らが将来何になりたいか。それをちょっとずつでも見つけていける場所。
これからも友達同士として、気の置けない大切な仲間として、仲良くしていければいい……それを手伝えれば、きっとそれ以上の喜びはないんだ。
私はいつもこの子たちを教えていたけれど。きっと、私のほうがたくさんのことを学んだ。たくさんのことを教えられた。
私は……私は、ずっとこの町で……この子たちと一緒に、この子たちの先生をやっていくんだ。
「少し待っていてくれたまえ!」
「はーい!」
……校外学習。
ああそうだ……
その日の最後の時間は校舎から出て、すぐ近くの森に入って生物観察……自然学習を行う予定だった。
私はあの子たちを校舎に待たせて……経路と安全確認を行おうと、森に一人で立ち入ったんだ。
時間にしてはきっと数分……十分には経たなかったと思う。
「お、おか……せんせい!」
「ん……?」
私を先生と呼ぶかお母さんと呼ぶか。ごっちゃになりかけた彼女の声に振り向くと。
あの子は手を振って笑って私に言ったんだ。
「が……がんばれ!」
「……はは!」
――娘は私が校外に出て安全確認することが、なにか大変そうな仕事だと思ったらしい。だからそんな言葉をかけてくれたのかもしれない。それがおかしくて思わず私は笑ってしまって……でも、あの子の頭を撫でて……嬉しかったんだきっと。
……嬉しかったんだ。
「はあ、はあ…………っ!」
私は――私の目の前で行われている現実に、理解が追いつかなった。
全てが夢だと、その瞬間思っていた。
「っ…………」
遠く……遠くから火の手が上がっている。黒い煙が天をどこまでも登っていく。夕焼けが、赤々とした炎と混ざって溶け合い、どこからか何か得体の知れないものが焦げる匂いがする――よく耳を澄ませば。老若男女分け隔てなく、その声は――苦悶といっていいのだろう、おおよそ私がその生涯で聞いたことのないうめき声がこだまし、それはこの町のどこにおいても聞こえるたぐいのもので、それはどこまでも沈殿し、地の底を広がっていくように――
「あ……あ……」
私は……私は。
民家が崩れ落ちる。
人々が駆け、それも背後から大小の剣に貫かれていく。
高らかな笑い声が聞こえる。
それは若い男の、この景色を作り出した男の、耳から離れない嬌声で、二度と忘れられない大笑だ。
その笑い声は、私がさっきまでいた校舎の……あの子たちがいる場所から聞こえている。
今も、聞こえてくる。
「…………」
私が森に立ち入って。たまたまこの場を離れて。たった数分で町はその様相を変えてしまった。この場所は、この世界のどこよりも地獄と化してしまった。
これが現実のはずがない、そうとしか思えなかった。
「せんせー! せんせー うわあ、うわああああああん」
「っ……」
大きく泣いていた子供の声が、一人やんだ。今のは……ガットの声だった。泣き虫で食い意地が張っていて……でも他人を思いやれる優しい心を持った男の子。
性根の優しい――
「みんな、逃げて! 早く、森の……先生がいるところに! はや――」
また、一つ声が消えた。
今のは……サユナの声だ。生徒の中では一番年上で……みんなのお姉さん役で。私も時々驚かされるほど、たくさん本を読んで色んなことを知っている子。みんなのまとめ役でリーダーで……
「う。うううううう…………」
今のは……今のは……ジエタ……運動が得意で……同い年のリリルのことが好きで……
「…………」
「…………」
……声が
ひとつずつ消えていった。
私のすぐ目の前で、ひとつずつ、まるで虫けらを踏み潰すように……それよりもずっとみじめに無価値なものを削除するかのように、何のためらいもなく、声が失われていった。
私は……私は、なぜか動けない。
身動きひとつ、身じろぎ一つできずに。
森の切れ間から、自分がついさっきまで教鞭をとっていた学校を覗いている。
声が消えていく様子を……まるで足に根っこが生えて、それが地面に縫いついて深く深くまで潜っていってしまったみたいに……
己を人ではない、無機質の何かのように錯覚するほど、気配を殺してその光景を見ている。
その男の凶刃がこちらに向くのを恐れたのか。
違う……そうではない……ただ、もう間に合わないという事が、私が今出ていっても意味がないということが、私がどこまでも無力だと思い知らされることが、私は……私はそれを心のどこかで俯瞰している冷静な私が恐ろしくて……狂いたくて狂ってしまいたくて……狂ったふりをしようとしてしまって。
この光景を作り出した存在と同じくらい、そんな全てが、憎たらしくて……
私は動けなかったんだ。
「おかあさ……おかあさん……おかあさん…………ああああーん、あああーん……」
「………………!」
……その声は。私が一番よく知っている少女の声だった。
私は……根のように降ろした足を引き抜くように、はじめてその時一歩を――辛うじて、どうにか踏み出そうと――
「大丈夫か!」
「!!」
――声がその場に一つ加わった。それは……少女と同じくらい良く知っている、私が人生でもっとも長く聞いてきた声。
「なんで……ここ、に……」
「おとうさ……お父さあん……ええん、えええーん…………」
あの人は。
町がこうなっていることを知って、きっと遠いところから誰よりも早く戻ってきたのだ。国境警備の仕事……国を守る者としては失格かもしれない。でも、家族を守る者として、彼は……あの人は、世界中の誰よりも正しかった。
それは、私なんかよりも。
「--――!」
その声が、二つとも消えた。
私の目線の先には――若い男が立っている。細い刀身をその右手にゆるりと携えて、その足元には二つの骸を転がして。
余韻に浸るように空を見て。そして燃え盛る校舎を見て。
楽し気に笑っている。
「あああ、ああああああああああああああ……」
あアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ…………
……声が出ていた。
ずっと、その時まで出なかったのに、何もかも決壊したように――私の喉の奥からすべてを絞り出すように声にならない声が出ていた。
やっと出てくれた……もう、全ては遅いのに。
「…………」
――そうして。私の声に振り返る男は、この世のものとも思えない、性別や種族さえ感じさせないように妖しく笑う。
男のくせのある白髪が揺れて。眼帯を撫でて、そして男はなぜか剣をゆっくりとその腰に収めて。
「あなたが……ライカさんですか? いえね、さっきこの男の人が呼んでいたんですよ。本当についさっき……今際の際にね。それでこの女の子のほうがこの人の子供だとして……あなたはお母さん? 三人はご家族、ということでしょうか?」
「ああああ、あああ……」
「あ、安心してください。あなたは殺しません。なぜだか分からないけど、そっちの方が面白そうだと思ったので。そう僕の眼が教えてくれる気がするんですよ」
「…………」
「それに……たまにね。こうやって誰か生かしてあげるんです。そうしたら、その生かされた人はずっと、ずっとずっと僕のことを想い続けて生きてくれるでしょう? 世界が少しだけ色を持ち、楽しく尊いものに変わってくれるんです、あはは」
「………………」
「だからどうか――僕の顔を忘れないでください!」
「…………」
にこり、と笑って男は消えた。
……あとには、もう何もない。
あたりには……たくさんの亡骸が転がっている……そのほとんどは、私の背丈の半分と少しくらいしかない、幼い子供たちのものだ……ついさっきまで、みんなで笑っていた……みんなで楽しかった、私が……私が先生だった、生徒たちの……そんな、生きていた……確かに生きていた……これまで私の人生でいちばん楽しい時間を過ごした……
「…………」
私は……自分の目の前にある二つの……もう動くことはない、二人にもう一度目をやる。
それは……それは……もう二度と起き上がることはない。
まるで寝ているみたいに見えたけれど、それぞれの胸にぽっかりと空いた小さな穴が、二人の口の端から流れ出る紅い液体が、それがもう永遠に叶う事がないことを私に教えてくれる。
これ以上なく……徹底的に、一切の逃げ場無く、取り戻せないことを……二人の喪失を、私に提示する。
「……なあ、ライカ……」
「…………?」
――ふと。
二人の亡骸の前に座り込む私の横に、少女が立っていた。
かすかに首を動かして視線を送る。
でも、それが誰なのかは分からない。
私の学校の生徒……じゃない。こんな子は見たことがない……でも、なんでだろう、私はこの子を知っている……この子のことをとてもよく知っている気がする……
「もう、逃げてもいいんだぜ? あたしは……ライカが大好きだから」
少女は……小さく、ここではないどこかに言葉をかけるように、優しく私に言う。
「ライカが辛いの、見たくねーんだよ……本当は、頑張ってほしくなんかない、ただ、ライカが幸せに生きてほしい……」
「…………」
「それだけなんだ……それで十分なんだよ」
「…………」
――少女が何を言っているのか、私には分からない。だが、少女が私を慮ってそう言っているという事だけは、よくわかった。
なぜなら、少女の瞳から落ちた、温かなものが、座り込む私の手を打ったから。
「…………私、は……」
私は……私は自分で何を言っているのか、言おうとしているのかよく分からない。でもそれは心に決めたことだから、と勝手に口が動くように、言葉が流れ出ていく。
「私は……ここから……故郷から逃げて……呪いにかかって。最低な人生から目を背けて……」
「…………」
「逃避のはてに復讐を選んだ。復讐の正しさ、善や悪の話なんて、私に論じる資格はない……なぜなら今日ここで……彼らを見殺した私に、正義なんてものがあるはずがないから……」
「…………」
「理屈、じゃないんだ……もう、私の心が決めてしまったんだ……あの男を倒す、と。それがきっと……私が生まれてきた……あの日命を拾った意味なんだと、そう……それだけ、しか……」
「……違うよライカ。あんたは復讐のために生まれたんじゃない。それが違うって事だけは、絶対の絶対に断言させてもらう……」
「……」
「だけど、な……それでもライカが戦いたい、っていうんなら……あたしもがんばれ! って言うしかねえよな……」
「………………」
少女はため息をついて、顔をごしごしとこする。もう泣いてはいない、ただ真っすぐにこちらを見つめていた。
「……私は……」
私は。どうしたいんだろう。どうすればいいんだろう……それが分からなくて、ただ思うがままに口に出るのは、大層な事を考えながらも、弱気なことだけだ。
「あの男には敵わない……それが、それは分かっているんだ。相手は剣境第三位……普通に考えて、勝てるわけがない。一介の愚かで、未熟な女剣士が……剣境になんてその刃を届かせられるはずがない」
「…………」
「でも、それでも勝ちたいんだ。でなければ、私は……二度と私を名乗れない。それが、私の気持ちなんだ……」
「…………」
少女は黙って私の弱気を聞いてくれている、それがどんな感情なのか、今の私にはわからなかったが。
「心が読めないんだ……あの男の心が読めなかった。心の呪い……あの男の心の深み、深層を読まなければ……きっと、何度やっても私は詰まされてしまう。それくらい、あいつと私の力量は離れている……私は――」
「なあ、ライカ……」
――いつの間にか、私は拳を強く握っていた。血がにじみ出るほどに――そんな拳に手を添えて、少女は私の隣に寄り添うように――、一言ずつ、泣いて駄々をこねる子供をあやすように、私に語り掛けてくれる。
「あんたなら出来るよ」
「…………」
「心のない人間なんていない。もしもあいつの心が読めないとしたら……、それはあいつじゃない、答えはきっとライカの心の問題さ」
「…………」
「あんたの心が……あいつの心に近づくのを、きっと恐れているだけだ。ライカが本気でやろうと思えば……きっとライカはたどり着ける。だって、ライカは先生じゃないか。みんなの……あたしの、すげえかっこいい先生じゃねえか」
「ライカならきっと出来る……そんなの、あたしが保証するまでもなく、分かり切ってんだぜ」
「……君、は……」
少女がまた私に笑いかけてくる。
その笑顔は、あの男とはまったく違う、優しくて、温かくて――まるで教室に漏れいってくる、そよ風のように――
「ライカ……」
「…………」
「……信じてる!」
「…………っ」
そう言って――本当に優しく。羽根が体に触れるようにふわりと少女は私を抱きしめて――
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