終章 波
12話 「相変わらずお美しい」
……ただ、無心で剣を振るっていた。
こうしている間だけは、私の呪いが静かに凪いでくれる気がして――
「はっ……」
――そうやって、私は今日も剣を振っている。
「ふうっ……」
それは、飽き果てるほどに。
いつも通りに……いつも同じように繰り返してきた動きを、もう一度、もう一度、もう一度――ただ愚直に繰り返す。
最初は型……類型的で効率的な身のこなしを追求した……剣術の基本となる動き。
次は、より実戦に近い……様々な体格と流派を想定した、それに対応する剣さばきと体さばき。
そして最後は、目を閉じて……世界から色と音が消えるような。今自分が触れている足元の砂から……脱力している上半身、そして運動して熱を持った内臓まで……そのすべてが体の中ではなく大気と溶け合っていくほどにまで……無を覚えるように、心を統一する。
目に見えない魔礎を……心を伏せて、感じ取る。
私に呪言遣いとしての才能はない。ただ、剣の扱いは……幼い頃、少しだけ師に褒められたことがある……その師も、戦争に駆り出されていなくなってしまったが。
「…………」
そうして瞼をゆっくりと開ける。まだ日は高いはずだが……分厚い雲が空を覆いつくしつつある。海も……時が経つほどにそのざわめきを強めつつあるようだった。
「…………」
汗はかかない程度に体は温まった。
あとは――私のもう一つの武器……それをどの程度戦いに活かせるか……
「―――」
改めて。
私は丘の上の家を見た。ここに来てからの時間は一か月も経っていないだろう。私が……逃げ続けてきた私が、逃走の果てにたどり着いた場所。
最初は雨と風をしのぐ……それだけのつもりの場所だった。しかし、しばらく居つく内に……あの子がここにやってきて。
それはきっと本当に短い時間だった。両手の指で数えられるくらい、たったそれだけの日々……でも、あの子と過ごすうちにたくさんの思い出ができて。
あんな粗末な黒板でした授業も、故郷で私がした授業と同じくらい、かけがえのないもので。
こんな、何もない……忌まわしい帝国に近いこの場所が、私にとって少しずつ大切な場所になった。今なら……ここで死ぬのも悪くない、そう思えるくらいには。
そうして――次に目をやるのは、先日の洞窟のある方向。微生物の出す光を……あの子は星みたいだと表現した。私は……私は本当はあの時、あの様々な光が、人が作り出す町明かりと……それと、あの日の炎の色に見えていたんだ。
それは、遠くから見れば美しいものに映るかもしれない。でも近づけば近づくほど、凄惨で……哀しくて、どうしようもなくて。
でも、そんな過去すらも、あの子と一緒にいて私は……ほんの数刻でも、忘れることができていた。
すぐ近くの森での時間も……そして何より長く過ごした、この砂浜での時間も。
あの子に剣を教えていた時は……まるで、私が初めて剣を握った時のような……おぼつかなさを想起して……なんだか、懐かしくてそれがくすぐったくて。
ただ、暖かかった。
うん……最高の時間だった。長い長い……私にとって、あまりにも贅沢な走馬灯のようだった。
そんな……あの子との日々を……瞼の裏に思い描いて。
あとは……たった一つやり残したことを、私はこれから終わらせなくてはならない。
私の……この国に至るまでの旅路の終わり。
この――復讐の旅の……答えを出す時が、ようやく……あるいは、もう、訪れてしまったのだから。
「…………」
こんにちは、と。
私の背後から声がかかった。
私の真後ろ……十歩ほど後ろには、独りの男が立っている。
わざわざ振り向かなくとも……男の容貌は知っている。その表情も……きっと今、薄気味悪い、温度を感じさせない、無害に見えるそんな微笑みを浮かべているだろうことも、もう、私には嫌というほどわかっていた。
「……やあ」
それでも私は――ゆっくりと、背後を振り向く。既に腰に収めた剣にはゆるりと手を携えて。
「随分とお久しぶりですね……十年? いや、もっとかな……」
「…………」
「相変わらずお美しい」
――そう、かすかに口角をまげて。透明な目線で……こちらを見る男は剣に手をかけていない。しかし私は知っている。この男の剣速が……抜刀が、居合が、私のそれよりも遥か遥か上回る、剣の境に至っていることを、誰よりもよく知っている。
「あれから……ずっと僕に出会うために遥々と……」
何も答えない私を気にする風でもなく、言葉を続ける男。私に興味がないのではない。ただ、それ以上に自分に興味があるのがこの男だ。
「ありがとうございます」
――そう言って、白く……癖のある髪の毛をゆっくりとかきあげる男は……一目見て、まだ幼さを残した、青年のような年齢にしか見えない。
しかし私とひとまわりと年は離れていないはずだ……
男の特徴……白髪と、右目に特徴のない眼帯をしている。
ふと見れば線が細くさえ見える体型は、しかし実のところ鋼のように鍛え上げられた肉で覆われていて。
しかし、この男に果たして肉体の強度というものはさほど必要なものか。卓越した剣技と両立した体技の才。
とにかく……この男を構成する全てがひたすらにほの暗く、不気味で――
「遠い旅路……お疲れでしょう。本当ならもう少しゆっくりとお時間をとって――あなたとあの日のことでも話しながらお茶でもしたいところですが……」
「…………」
「そういうものを望んで来たわけではないですよね?
「…………ああ」
ゆっくりと深呼吸して。鼻を鳴らすように答える私に、男はしかし気を損ねるでもなく、目を細めて嬉しそうに言葉を続ける。
「あなたは……僕を殺すためだけにここまで来てくれた。僕は嬉しいんです。誰であれ……それがどんなに取るに足らない相手だろうと、僕を想ってくれる人がいれば、僕はそれだけで頑張れる気がする。だからあの日も……わざわざあなたに僕の顔をお見せした上で……逃がしました」
「…………」
「今ここで……あなたがただの一太刀で崩れ落ちるのだとしても、僕が時間をとってここまで来るだけの価値がそこにはある。僕は、人の命を軽んじませんから」
「……よく言う」
命を軽んじない……? 違う、誰よりも命を軽んじるからこそ、この男はあんなことが出来る……大断崖攻略は、帝国の事業なんかではない、この男が……その名をもとに個人的にやっていることだ。
それに……大断崖だけではない、この男はこうやって、今も敵を……自身を滅ぼそうとするものを作り続けているのだろう。
まるで、忘れられなければ、自分は死なないとでもいうかのように。
そんな男に……私の故郷は……家族は……あの子たちは殺された。その事実を、冷たく冷たく、今一度脳髄に染み込ませるように反芻して――あたしは一歩男と距離を詰めた。
「…………愛と憎しみって表裏……すぐ近くにある、とよく言いますよね」
「……なんだって?」
「つまり、あなたも僕のことを好きなんだと思います。ありがとうございます。僕を好きでいてくれて……僕は僕を好きでいてくれる人に相応に尽くしたいと考えています……ですから、僕の兵があなたのことを教えてくれた時、僕は本当に嬉しくて……待ちわびた、という気持ちだったんです」
「…………」
あの日……三人の帝国兵が襲撃してきた晩。私は言伝を与えておいた。この男に私の名前を出して見ろ、と。
長い旅路で集めたこの男に関する情報……人格、性質。にわかには信じられないようなその人間性が、もしも真ならば。さほど時間を置かずしてここにやってくるだろうと、私は思っていた。
それが十年以上の時間を経ようとも。
たった一人の、名もない……復讐を決意した女の前に、この男は一人で現れるだろうと思っていた。そして、それは真実だった。
この男は――目の前の、矮小に見えているだろう私を、その剣で切り伏せるためだけに、こうしてこの浜にやってきたのだ。
奇しくも。
私にとって、この男を殺そうとする者にとって、最善の場所にこの男はただ、己の欲のために足を踏み入れた。
それはすなわち、この男の強さの裏付けである。
「たしか……あなたは教師をしていましたよね。あなたの故郷の町でも……たくさんの生徒がいらっしゃったかと記憶しています」
「…………」
「でも、もういない……僕があなたに見えるように死なせてしまいました」
「……」
「だから、僕が代わりにあなたの生徒になってみるとかはどうでしょう? なにか、教えてくれませんか」
「…………」
さらに一歩、私はこの男に向かって歩を進める。男までの距離は……あと八歩。
「僕はちゃんとした学校に通ったことは、実は短い期間しかないんですよ。すぐに、帝国の王宮に拾われてしまいましたから……自分なりに勉強もしているんですがね。他人から教えられる機会があんまりなくて……ねえ、ライカさん……ライカ先生……」
「…………」
「なにか、教えてくれませんか?」
さらに一歩。
その名で呼ぶな……とか。
先生と呼ばれる筋合いはない……とか。そんな陳腐な言葉でかえしてもよかった。私の脳は今もこいつの言葉を全て逃さず聞き取って、しかし怒りに沸騰することはない、ただ凍てつくような感情が己を支配しそうになるのを、ただ律する。その凍てつきは、私の動きをも鈍らせかねないから。
だから。
「……私はユーモアのある楽しい先生で通っているからね。いいじゃないか、君の先生になってあげよう」
「わ、ありがとうございます。嬉しいです!」
ふ、と口元を隠すように男が笑う。何が楽しいのか分からないように、ただ笑う事が義務だから笑ったかのような、癇に障る笑い方。
「出来の悪い生徒には……居残り授業をしなくてはならない。先生と君の一対一の授業だ」
「手厳しい言い方だなあ……」
あはは、と気恥ずかしげに男が笑う。
さらに一歩。男との距離は、あと六歩――
「じゃあまず手始めに。言葉の正しい使い方を君に教えてあげよう」
「…………?」
「さっきの台詞さ。君は愛と憎悪は表裏にある……と言ったが、それはね、実は全然違う。愛の反対はね……憎悪……憎たらしい、なんて感情じゃないのさ」
「へえ……?」
続きを促す男に、私は半歩だけ、もう半歩だけ距離を詰めて。
「もしかして……憎悪ではなく無関心、とかですか? でもそれじゃあまりに捻りがないなあ……」
「残念、それも間違っている」
「?」
分からない、という顔をする男に、私はもうこれ以上近づかない。そうだ、この距離……この距離でもう十分だ。
「―――」
そして、ただ一言。
紡ぐ言葉は言う必要のなかった言葉。ともすれば無駄に思える、茶番に思える、そんな価値のない言い回しだったが。
私は、ただ一言――最初の攻撃を行う前に、背水にして一歩も引かない不退転の意を込めて、その台詞を言う事にした。
縁起を担いでいるわけでも、恐怖を紛らわすため己を鼓舞しているわけでもない。
ただこれは……私の復讐の旅、その終着点への嫌悪と、同時にすべての始まりであるこの男への純度のあまりに高い混じりけない敵意を込めて。
あるいは、あの子たちに対しての、もしくは私自身に対しての、それは決意であり誓いであり、願いの表れゆえに、発してしまった、そんな台詞なのか。
どんな感情が渦巻いて、そうなったのかは見当も付かない――ただ、これだけは言いたくなった、言わなければいけない、と、そう心の底から思ってしまった。
それは、この戦いの火蓋を切って落とす、そんな明快な、とてもわかりやすい、飾り気ないたった一言――
「愛の反対はね、憎悪でもましてや無関心なんかでもない――愛の反対は……」
「…………」
「殺す、さ」
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