11話 「ここは……」
「…………」
「…………」
ざくり、ざくりと。ライカの後をついて歩いていく。
今はもう……振り返っても、砂浜にあたしの足跡はついていない。砂を踏みしめる足音すらもしない。この場にあるのは前を歩くライカの足跡と足音。それだけだった。
「…………」
あれから――ライカは……付いてきてほしい、とだけ言って、剣と木刀を持って立ち上がった。
あたしは……あたしは……もう行く場所なんてどこにもない。ただ、うなずいて、ライカに付いていくしか出来ない……それだけしか、もう、あたしには……
「……」
あたしがふと、海の方へと目をやると……遠くから雨雲が徐々に、徐々に……大きく膨らんでくるのが見えた。あの大嵐の日と同じくらい……いや、もっとひどい天気になりそうだな、と思う。
でも、そんなものはあたしには関係ない。
ただ、徐々に徐々に、そのざわめきを強めていく波間を――波間の間に、あいつらの姿を見つけようと目を細めるけど、あるのはただ無機質で殺風景な灰色の……黒じみた青だけで。
それが、まるで知らない絵画か何かみたいに、遠い景色に見えて、あたしは目を逸らした。
*
「ここは……」
「…………」
そして、ライカに案内された場所。
そこは、それほどライカの家から離れていなかったけど……でも、あたしがこれまで来たことのない場所だった。
潮風で枯れた木ばかりが突っ立っている、そんな草原の死角にある場所。その一角に――
「…………」
雑草はしっかりと刈り取られ、周囲と比べて整備された空間がぽっかりと空いている。
何より目を引くのは、その空間には生きた花がいくつも、いくつも地面に供えられ彩られていて……まるで、色のない世界に、ここだけは温度があるみたいなところだった。
ここは……
「お墓……」
「……そうだ。その通り……」
そう言うライカはこちらに背中を向けたまま、表情が見えない。ただ、しゃがみ込んで――剣と木刀を地面において、ライカはぽつり、ぽつりと……雨が降るみたいに語りだす。
語りだしてくれた……本当のことを。
あの日、彼女があたしと出会う前、何があって……そしてあたしと出会って、何があったのか。
それは――
あたしがずっと、気づかないふりをしていた……あたしが一番認めたくなかったこと。最低で最悪の……頭の悪い子供の与太話に付き合った、優しい女剣士の……独白だった。
「君が……ここに来る前に。私は……浜辺で何人もの子供たちが打ち上げられたのを見かけた……一人や二人じゃない……十五人だ。君と同じ年頃の子が……服も体もボロボロで、長い時間海を漂ってきたのだろうとわかる様子で……、打ち上げられていた」
「…………」
「遠目から。あたしはそれが……人だとわかった時から……走り出して。近くに来るまで何度も何度も願った……心の底から願ったさ。どうか、どうか助かっていてくれと……私は……私は……でも……」
「……」
「駄目だったんだ。みんな、既に事切れていたんだ。ある子はヘドロが喉を塞ぎ……ある子は岩礁に体を強くぶつけてしまったのだろう。体の骨が折れて……それが肺に突き刺さって……医学の知識もそれほどない。回復魔法も遣えない。無力な私には……君たちを助けることができなかった」
「…………」
ライカは……まるで振り絞るように言葉を続ける。ライカが見つけていた時はすでに命はそこに残っていなくて。
この世に死者を蘇らせる呪言なんてものはありはしないのに。
まるで、全てが彼女の責任であるかのように、ライカは言葉を続ける。それは自分の罪を赦してもらうためではない、自分の無力を強調するような……より際立たせようとするような、そんな言い方。
あたしは……あたしは、ライカの言葉に口をはさめない。ただ、自分がみじめで……ライカに……みんなに申し訳なくて。あたしは……
「そんな、子供たちの亡骸の一人に……君がいた。スイナ……君は、あの日……大断崖攻略から逃げ出して。その日に、亡くなっていたんだ。今の君と……それほど変わらない姿なのに……あの君は、確かに亡くなっていて……あの浜辺で……っ」
ライカの肩が震える。こっちからライカの顔は分からないけど……もしもライカが、泣いてくれているんだとしたら……それは嫌だな、と思う。
あたしにそんな涙の価値なんてないのに。
「……そうして……君たちをここに埋葬して……私は、もう一度海辺に戻ろうとしたんだ……まだ、誰かが……流されてくるかもしれないから……でも、他にはもう誰もいなかった。そう思った……そしたら……」
「…………」
「君がいた。確かにさっき、私が運んで……穴を掘って、ここに埋めたのに……君が、さっきと変わらない姿で……でも今度は起き上がって、驚いた顔でこちらを見てくるんだ。私は……私は、すぐにわかってしまった。これは……君の心なんだって。君の心を私が見ているんだって」
「…………」
「あるいは……大断崖は……生と死の境目ともいう。そこに、私の呪い……心の呪い、魂を覗き見る力が何らかの作用を持って……こんな、奇跡を起こしたのかもしれない」
「…………」
「とにかく私は……自分で見たものが信じられなかった。ただ、嬉しかった。たとえ、実体がなくても……君は確かにここにいるから……確かに君はいなくなっていない、亡くなっていない、ここに、心があるからって……」
「…………」
「初めて……自分の呪いを……嬉しい、と思ってしまったんだ。ごめん……本当にごめん……私は最低だ……君で……君がここにいることで、君たちを助けられなかった、罪滅ぼしが出来ると……そんなことを一瞬でも考えてしまった。愚か者だ、私は……ひ、ぐ……」
「ライ、カ……」
ライカの言葉に。嗚咽が混じった。
「君との生活は……本当に楽しかったんだ。私は……自分が何をしにこの国にまで来たのか。こんなところに住んで……情けなく足掻いて、毎日毎日我を忘れて剣を振っていたのか、そんなものも忘れてしまうくらいに――君と一緒にいれて……く……、つっ……楽しかった。本当にそれだけしか言えないんだ!」
「…………」
「ああ……私は……語彙が全然出てこない……こんなんじゃ……先生、名乗れないなあ………」
「…………」
ライカは……
なんで? なんでライカは……こんな、こんなに弱くて馬鹿なあたしのために……泣いてくれるんだろう。
もうこの世にいなくなってしまったあたし達のために……涙をこぼしてくれるんだろう。
あたしは……ライカのために、何も出来てないのに……そんなあたしを、今、こうやって……抱きしめようとしてくれるんだろう。
「スイナ……スイナ。本当にごめん。君を……守ってやれなくてごめん。帝国から、君を……君たちを助けられなかった。私は弱い……今も昔も、自分のことだけ……自分のことだけを考えて生きてきた! そんな私が人を教え導く人間になんて、なれるわけがなかった……人の親になんて、なっちゃいけなかったんだ……」
「ライカ……」
あたしは。あたしを抱きしめようとして、でも、すり抜けちゃって、地面に両手をつくライカの傍にしゃがみこんで……彼女の傷だらけの手に自分の手を重ねるように置く。
……もう、何も感じ取れない。
魔法は解けてしまった。
あたしがあたしという存在を……疑ってしまった瞬間から、もう何者にも触れることは出来なくなっていた。ただ、もう今ここにあるのは……あたしの実体じゃない。心すらも、ただ曖昧に溶けていくような、そんな感覚が、だんだんとあたしに近づいてくるのが分かる。
「…………」
でも。今この瞬間、ライカの手に重ねているあたしの手に、温もりが感じられる。それはきっと、気のせいじゃない、本当のことだと……あたしは、そう思いたい。
「ライカはすげえよ」
「え……」
ライカが……本当に彼女には似合わない。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔でこっちを向いた。あたしは……あたしは、あたしに出来ることは、彼女に、あたしが思ってることをちゃんと伝えることだけだ。
そんなことすらも出来ないなら……あたしは親友を見捨てたクズってだけじゃない、もう……生まれてきた意味すらもないくらい、つまらない人間に……つまらない人生だったと、あたしが心の底から思ってしまうから。それだけは嫌だった。
「ライカは……誰よりも、あたしの知る誰よりもかっこいいお姉さんでさ……もう一人のお母さんみたいだった」
「…………」
「あたし、ライカにたくさんのことを教えられた……知らないことをたくさん知って、もう二度と出来ないと思ってた故郷の『ロウギ』なんかも出来ちゃって……」
「…………」
「毎日、毎日ライカの練習の邪魔になるくらい引っ付いて木刀を振ってさ……それは全部あたしの心がそう思い込ませた、実際は木刀なんて振ってなかったけど……でも、楽しかったんだ。その気持ちは……絶対に、嘘じゃないんだ」
「スイナ……くん……」
「だから、自分で自分を……ライカにだけは、否定しないでほしいよ。あたしは……ライカが大好きで……自分が大嫌いで……でも、ほんの少しだけ……ライカと一緒にいる間だけは、嫌いな自分がマシに思えたんだ。だから……」
「スイナ……くんこそ……自分を嫌うんじゃない。私は知っている……信じているよ、君が……君が凄い奴だってことを……」
「……?」
ふわり、と。ライカの頬に手を当てるあたしの手を優しくとって、ライカがあたしの目を見つめてくる。ライカの瞳の中には……もうあたしの姿は映っていない。どうやら、あたしの姿すら、ライカにはもう見えていないみたいだけど……まだ、ライカはあたしを心の目で見てくれているようだった。
「君の心の奥底を……たった今見た。それは君の本当の記憶だ……スイナくん……」
「……え……?」
「どうか、どうか思い出してくれ。君はあの日――」
「…………っ」
――刹那の時だった。
あたしの記憶が……また、一瞬世界が暗転する。ライカの呪いが……あたしの魂みたいなものに触れて、あたしは……またあの時のあの瞬間、あの景色の中にいる。
「……っ!」
*
「おい……!」
「な、ないすきゃっちです……」
親友が。今のでバランスを崩した親友が船から生身のまま海に落ちかけた。ボートのままでもやばいのに生身なんて即死だ。あたしはなんとか親友の手首を掴んで危機一髪、引き上げようとする
「やっぱりワタシたち、いいコンビ――」
「は、はやく……あ、が……!」
そういった時だった。ぶちん、と音がする。ボートを支えていたロープが二本切れた。そしてあと二本も徐々に千切れかかっている。
もう時間がない。早く乗らないとボートが落ちる。そうなったら逃げ切れなくなる。
「……」
「て、手が滑って……上がらない……持ち上げられない!」
「っ……」
焦る私の想いに反して。親友の体を持ち上げようにも、力が入らない。こうしてる間にも帝国はどんどん近づいてくるタイムリミットは迫ってくる――
そして――
「あ……」
親友の手とあたしの手が離れるのと刹那の間。さらに大きな衝撃が船を襲って――
*
「これ……は……」
「君の……本当の記憶だ。君はあの日――自分で親友の……眼鏡の彼女の手を離したと言ったけれど」
「…………」
……どこからかライカの声が聞こえてくる、ライカがゆっくりと、でもはっきりと、あたしの心に寄り添うように、言葉を続ける。
「―――」
なんで……
なんで、こんな……
「……これが真相さ。君は……君が彼女の手を離したんじゃない。あの日……スイナくんの親友は、自分から手を離したんだ。君が……一緒に海に落ちてしまわないように、それは本当に瞬刻のことで、直後また帝国の呪言による衝撃があったから……君は自分の記憶が曖昧になっていた。でもここは本当の心の奥底……映像記憶の中だ。偽れない心の領域……ここにおいては、君の本当に観たものだけが、現実として確かに表れる」
「…………ッ」
「君は……あの日、眼鏡の彼女の手を取って離さなかった。必死に彼女を助けようとした……最後の瞬間まで、船に引き上げて一緒に逃げようとしていたんだ。でも……」
「……なんで、だよ……」
「彼女は――君を助けるために、わざと自分から落ちたんだ。ほら、落ちる時……彼女は君を見て恨んでなんかない……」
「…………っ」
「笑ってるじゃないか」
……それは。
今、まさに。海へと巻き込まれる瞬間の……親友の顔は……確かに笑っていた。それも穏やかに……この場にはあまりにも不釣り合いなくらいに優しく。それは。ただ、ただあたしの身を案じての行動……
「……あたし、あたし、は……」
「ライカ……君は……凄い。最後の最後まで友達を助けようとした。そして眼鏡の彼女もそれは一緒だったんだ」
「う……」
「本当に、親友同士じゃないか」
「ううう…………」
――そうして。映像は解けていく。あたしはまた、墓場の前で……またライカに抱きしめられていた。実体はもうないのに、やっぱり温かい……心と心でライカとお話ししているような、そんな感覚。
「あ、あたし……!」
「うん……」
「故郷の村で……帝国の奴らが来た時……」
「……うん……」
「一人、逃げ出した。遠くから火の手が上がってるのを見て……怒鳴り声や暴力の……悲鳴が怖くて、家族も友達も、みんなもいるのに一人で逃げ出そうとしたんだ」
「…………ああ」
「でも、すぐに捕まって……こうやって、大断崖まで送られて。自分で自分を……自業自得だと思った」
「…………」
「あたしは……誰かのためになんて動けない。自分だけが一番大事で……だから、あの時も……とうとう、親友を見殺しにした……いや、今度はあたしが殺しちゃったって……そう思って……」
「…………」
「でも……あたし、今度は助けようと……頑張って……でも、それでも、あたしの親友は……あいつは……」
「君は……本当にすごい。スイナくん……あんなに……苦しい状況で。怖くて、恐ろしくて、全てを投げ出したくなっても。かつて一度、逃げ出してしまっても。もう一度立ち上がったんだ。たった一人……彼女を助けるために、君は頑張って手を伸ばしたんだ。それは……誰にでも出来ることじゃない。君は、悪い人なんかじゃない……正義の人だ。正しくあろうと頑張ろうとする、最高の、私の生徒じゃないか……」
「ライカ……ライカ……うう、うううううう……」
――あたしの頬をとても熱いものが伝っていく……あたしにはもう体なんてないのに、なんで……なんで、あたしは……
「スイナ……私も、君に話せなかったことがある」
「…………?」
「私も……帝国に……家族を殺された。私も、君と同じように……一人でその時は逃げ出して……そして、心の呪いにかかった」
「…………!」
「でも、私は君とは違う……弱くて、弱くて……逃げて逃げてこの場所にいる」
「そんな……ライカは……弱くなんて……」
「……ありがとう。こんな私を……君はお母さんと、お姉さんと呼んでくれて……私は、本当に……本当は、もう何も思い残すことなんてないくらい、私は今、嬉しくて……」
「ライカ……?」
ライカが……またごくり、と嗚咽を飲み込んだ。それは言うか言わまいか、悩んでいるような……そんなライカらしくない仕草で。
「でも……私には、一つだけやり残したことがある。それは……逃げ続けてきた私の、最後の逃避だ。どうか……それを、応援してくれないかい?」
「…………」
ライカが……何を言いたいのか、その瞳の奥で何を考えているのか……心の呪いを持っていない私には分からない。
でも……あたしは……あたしが言えることは、やっぱり、一つだけ……そんな気がした。それは……なんてことはない、ライカの間違いを正してやることで。
「何いってんだよライカ」
「……?」
「ライカは……逃げてなんかないだろ。あたしと出会ってからもずっとさ……ずっとあたしに向き合ってくれたじゃないか。そんなライカが――逃げ続けていたなんてことはないし……これから何をするのか知らないけど……ライカがやることは逃避なんかじゃない」
「…………っ」
「それはきっと正しいことだ。真っすぐに進み続ける……ライカらしい選択だ。それをあたしは……ライカの生徒として、知ってるから……だから」
「…………」
応援するに決まってんじゃん!
そう言うあたしを――ライカがもう一度、強く強く抱きしめてくれている……そんな、気がした。
「まさか……生徒にこうも教えられる日がくるなんて……私はまだまだ未熟だな!」
「へへっ!」
そうしてまたお互い顔を見合わせて笑い合って――
「…………」
――そして。
だんだんと、あたしの体から力が抜けていくような……そんな感覚が、ゆっくりと、海の向こうからやってくる……
「ライカ……」
「なんだい、スイナ……」
「えーと、今更さ……なんか、あらためて言っちゃうのは恥ずかしいんだけど……
「なんでも、言ってくれ」
「うん……」
――これが、ライカとの最後の会話になるような気がした。だからあたしはゆっくりと息を吸い込んで、ただ一言――彼女が一番求めていること……いや、違う。あたしが一番言いたいことを、心を込めて言い放つ。
「ライカ先生……ありがとう。先生の授業、超楽しかったぜ」
「…………」
「がんばれ!」
――そうして。
あたしの意識はどこか、深く深く。白い闇に溶けていって――
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます