じいじ 1





「先生が倒れたぞ。」


と藤井が聞いたのは出張先だった。

慌てて帰京し病院に向かうと彼は集中治療室にいた。


「脳梗塞だ。皆の前で倒れたんだが、倒れた場所が悪かった。」


階段の上から落ちたらしい。

頭を打っていた。


意識を戻したのは5日後だ。

喜ばしい事ではあったが右半身にまひが残った。

言葉も少々不明瞭だった。


丁度その頃は大任を終え、一般の議員として活動を続ける予定だった。

だがそのような事になり辞職することに彼は決めた。

その決断は早かった。


「あら、そうなの、分かったわ。」


あの人、林太郎は妻に離婚届を渡した。

彼女はあっさりとそれにサインをし届けを出した。

結婚の最初から二人は仮面夫婦だった。子供は作ったがそれだけだった。

ビジネス関係のようなドライな間柄だ。

離婚届は彼にとっては彼女への一種の感謝状のようなものだ。

自分に縛り付ける気はなかった。


とりあえず経済的には全く問題は無い。

広い家に一人になったがヘルパーもいる。

当然藤井もここにいる。

彼も結婚もせず林太郎にずっと仕えて来た。

議員を辞める時にどうするかと聞いたら、


「先生は必要が無くなったら私を捨てる気ですか。」


と言った。

まるで捨てられる女みたいだなと言うと彼は笑った。

そしてしばらくすると家を引き払い林太郎の家に来たのだ。


「まるで老人ホームだなあ。」


リハビリを繰り返し、どうにか言葉は戻って来た。

手と足はまだ不自由だが杖をつけば歩けるようになった。


林太郎が倒れてから一年ほど経っただろうか。

元妻は一度も家には来ない。

息子夫婦と住んでいるらしい。

一人ではない事は分かっていたのでそれはそれで良いと

彼は思っていた。


だが、さすがに家を訪ねて来る人も少なくなった。

最初のうちはSPもいたが早々にそれも断った。


静かな生活だ。

広い家で藤井と家政婦と、毎日は判で押したような日々だった。


ある時だ、

一台の車が来た。


こだわりがあるのか少しばかり古い変わった車だった。

それが自宅の駐車場に停まる。


そこから降りて来たのは桂と美月だった。

そして小さな女の子。


「愛ちゃんですね。もうすぐ2歳でしょうか。」


藤井がモニターを見て言う。


「なんだお前、あいつが来るのを知っていたのか。」

「はい、私が美月さんと相談してお呼びしました。」


しらっとした顔で藤井が言う。

家政婦が彼らをリビングに通す。

ドアが開くと愛がパタパタと走りながらやって来た。

その後ろに美月と桂がいる。


桂と目が合う。

一瞬林太郎は戸惑った。


「お父さん!」


その時、美月が大きな声で林太郎に向かって言った。


「お父さん、初めまして、美月です。

名前を付けて頂いた美月です。」


そしてにっこりと笑った。


「この子は愛です。そして」


美月が桂の手を引っ張った。


「桂です。」


桂が複雑な顔をする。

そして軽く会釈をした。


「あ、ああ、久し振りだな。」


と何を喋って良いのか分からず林太郎は言った。

久し振りと言っても林太郎が桂と会ったのは赤ん坊の時だ。

当然桂には覚えはない。

すると美月が聞いた。


「久し振りと言ってもいつ会ったんですか。」

「いやあ、その、桂が赤ん坊の時だ。」

「じゃあ超久し振りだ。」


と美月が笑った。

そしてつられた様に愛も笑う。

可愛らしい声だ。


「あの……。」


桂がぼそりと言う。


「体は大丈夫なのか?」

「あ、ああ……。」


美月がそれを見て部屋を出た。

愛は桂の膝の上で林太郎を見た。


「まだ麻痺は残っているが言葉は出るようになった。

杖があれば歩ける。」

「そうか、良かった。」


桂の様子は藤井から聞いていた。


田舎に行って役場に勤めている。

ずいぶんと重宝されているらしい。

廃墟で物を拾っていた頃とはすっかり変わっていた。


「今日は、その、なんだ、どうしたんだ。」


少しばかり林太郎は口ごもる。

何を言って良いのか分からなかった。


「美月がおじいちゃんに愛を見せるって。」

「おじいちゃん?俺か。」

「……多分、と言うかそう。」


桂が少し俯く。

笑いをかみ殺しているようだ。

愛が桂を見上げて林太郎を見た。


「じいじ。」


真っすぐに愛は林太郎を見て言った。








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