玖「大悪魔カイナ、ココニ顕現ス」

❖夢の中❖



 長いこと、皆無かいなは己が生きている意味が分からずにいた。


 壱文字いちもんじ

 弐又ふたまた

 参ツ目みつめ

 肆季しきじん

 伍里ごり

 陸玖陸むくろ

 漆宝しっぽう

 捌岐やつくび

 阿ノ玖多羅あのくたら

 拾月じゅうげつ

 護国ごこく拾家じっけの一等一位。


『日本一の退魔師』、『日本の守り神』たる阿ノ玖多羅正覚しょうがく陸軍第零師団少将の子として生まれ、蝶よ花よと育てられ、将来を嘱望されていた皆無は、『阿ノ玖多羅』の名前が誇らしくて仕方がなかった。

 ――九歳の秋、あの日が来るまでは。





   ❖   ❖   ❖   ❖





 皆無は母親を知らない。

 母親のことを聞くと父は決まってはぐらかそうとするので、何となく、もう亡くなってしまっているのだろうと思っている。

 折しも皆無が生まれたのは神戸で虎列痢コレラが大流行した年であり、あの大魔王毘比白ベヒヰモスが神戸を襲った年でもある。

 むしろ、自分がこうして生きていることの方が奇跡だったのではないか、と皆無は思っている。


 母がいないとはいえ、寂しくはなかった。

 父がいたし乳母もいた。


 皆無は士官学校で寮に入っていた時期を除けば、生まれてこの方ずっとMEP屋敷に住んでいる。

 MEP屋敷には老若男女様々な隊員たちが出入りするし常駐している。

 隊員たちからは、それはもう可愛がられたものであった。

 近所の同年代からの反応も同じようなもので、様々な術が使える皆無は、ちょっとした英雄的扱いを受けていた。


 世界は皆無を中心に回っていた。


 どうやら様子がおかしいぞ――そう気付いたのは、六歳。

 皆無が尋常じんじょう小学校に入学してしばらく経ったころである。

 教師などを始めとする周囲の大人たちが、妙にのである。

 大人の親切な態度は皆無にとっては普通のことだったが、しかし皆無は、学校という少年たちの集団の中で、ただ一人自分だけが特別丁寧に扱われていることに気付いた。


 ――皆無は『阿ノ玖多羅』の名の意味を、『護国の英雄』たる父の息子という立場が持つ意味を、若干六歳にして思い知らされた。


 子供という生物は、そういう依怙えこ贔屓ひいきの臭いを敏感に嗅ぎ取る。

 皆無を嫌い、仲間外れにする向きは相当数いたが、皆無はその持ち前の術の力と武力でもって歓心を集めて一派閥の長でいることができたし、事実皆無に腕っぷしで敵う者など、同学年、上級生はおろか教師においてすらいなかった。


 皆無は大人たちを嫌った。

 大人たちが皆無を贔屓すればするほど、子供たちからの反発が増えるからだ。


 だから皆無は大人たちから距離を取り、率先して子供たちにすり寄る様になった。

 子供たちは、皆無が魅せる魔法――壁を走って見せたり、小石を握って粉砕して見せたり、火の玉を出して見せたり、鋭い風で空飛ぶ鳥を落として見せたりという曲芸の数々――に夢中になり、皆無を崇拝し、大将たらしめた。





 そんな日々も、九歳のある日、一変した。





 何か重大な事件や、悲惨な災害が発生したというような話ではない。

 確かに事は新聞に載った。

 が、神戸の地方新聞の隅っこに、小さく載ったに過ぎない。


 誰かと死別したとか、そういう種類の悲劇でもない。

 入隊してからは悲惨な死の現場に多数立ち会ってきた皆無であるが、そんな皆無をして、それでもあの日のことは忘れられないほど大きな部分を占めている。


 その日から、皆無は学校へ行きたがらなくなった。

 皆無の父はそれをれ、代わりに皆無を士官学校退魔兵科西洋分科に入学させた。


 ……皆無にとって、士官学校時代について語れることは少ない。

 ただ、父と家の名に恥じないようにと励み、飛び級に飛び級を重ねた。

 そんなふうにして、通常四年かかる退魔兵科をたったの二年で卒業した十二の春、皆無は大日本帝国陸軍・第零師団・第七旅団神戸連隊に入隊した。


 入隊早々、異例の『中尉』を任ぜられ、半年のうちに『大尉』に昇進。

 さらに半年後、類稀たぐいまれなるヱ―テル総量と武功を認められ、帝国陸軍史上最年少『少佐』となった。


 だが、昇進すればするほど、皆無は虚しくなっていった。

 皆無は術、勉学、運動、戦果等々において人よりも圧倒的にできる自分を誇り、誇りながらも常に、圧倒的存在たる父と比べられ、落ち込んだ。





 父には敵わない、絶対に。





 それが皆無の限界であり絶望だった。

 どれだけ訓練を積み、武功を積み、階級を積み上げても、父を超えることはできない。

 最初から絶対に超えられない壁が存在していることが、皆無の世界をつまらなくしていた。


 自分は、父の予備――それも圧倒的に劣った――に過ぎない。

 しかも、『悟り』の境地に至り、『即身成仏』を成すことでヱ―テル体――腐らぬ体、永遠の命――を手に入れた父と違い、自分は年を取る。

 いずれ、父よりも先に死んでしまうことだろう。

 となれば己には、父の予備たる資格すらない。

 ……自分に、自分自身というこの存在に、生きている意味はない。


 だから皆無は、己が生きている意味が分からずにいた。


 それでも、生きている限りは生きていかねばならぬ。

 朝起きてメシを喰い、同僚や部下からのおべっかに曖昧に微笑み、夜には悪魔悪霊と戦い、またメシを喰い、眠る。

 毎日々々、その繰り返し。

 父と違い、『即身成仏』に至れぬ自分はきっと、死ぬまでこんな毎日を繰り返すのだろう。

 そういう世界の中で、自分をだましながら生きていくしかないのだと――そう思いつめていた、まさにそのときに。





 皆無は、出逢であった。

 ――璃々栖リリスに。


 皆無は、己の生きる意味を知った。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖同刻 / アストラル界 神戸 北野異人館街❖



 生首となった己に、璃々栖リリスが口付けしてくる。

 彼女の無限のヱ―テルが、魔王サタン級にも等しいその力が、己の中に流れ込んでくる。


 皆無の視界の端では、首を失った己の体がドロリと溶け、液体となって地を這い、生首と一つになってゆく。


 胸ができ、

  肺ができ、

   五臓六腑ごぞうろっぷが再生し、

    手足が生えてくる。


「オゴォォォオォォオァオオアアアァアァアァアァアアアアアァアァアァアァアアアアアァアァアァアァアアアアアァアァアァアァアアアアアァアァアァアァアアアアアァアァアァアァアアアアアァアァアァアァアアアアッ!!」


 耳をつんざくような叫びを上げているのは、自分だ。


 痛い痛い痛い。

 全身が痛い。

 当然であろう。

 己は今、臓器と言う臓器を、指の一本一本に至るまでの全身を、人の身ならぬナニカに作り替えられているのだから。


 果たして己が身は、

 山羊ヤギの角と、

 隆々たる胸筋と、

 蝙蝠コウモリのような翼と、

 鋭いサソリのような尾と、

 真っ黒で毛深い手足と、

 禍々しい両手の長い爪を持った悪魔デビラヰズドの姿・フォームへの変身を遂げる。


 魔王サタン級の璃々栖のヱ―テル、

 類稀たぐいまれなる皆無の才能、

 未だ何色にも染まっていなかった皆無の若さ、

 死に直面した皆無の絶望、

 臨死体験を経て増大した皆無の霊能力。

 ――それら全てが奇跡のように噛み合って生まれた、一匹の怪物。


 大悪魔グランドデビルアノクタラカイナ、ココニ顕現ス。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖同刻 / アストラル界 神戸 北野異人館街❖



「オゴォォォオォォオァオオアアァアアアッ!!」


 悪魔デビル

 悪魔デビルであった。

 まごうことなき一柱の大悪魔グランドデビルが、天に向かって咆哮ほうこうした。


「か、皆無くん……? ――ヒッ!」


 千代子は悲鳴を呑み込む。

 こちらに襲いかかってくるのではないか――そう錯覚するほどに、皆無の勢いは、鬼気迫る表情は、悪魔的であった。

 その皆無が両手両足を使い、まるでケモノのように地を駆けてニセ田中大尉――大悪魔グランドデビルに殺到する。


 皆無が、大悪魔グランドデビルの頭部を殴った。

 ただそれだけのことで、大悪魔グランドデビルの体が冗談のように跳ね飛ばされる。

 千代子の命を賭した【神使火撃ミカヱル・ショット】をして傷ひとつ与えることのできなかった敵が、ただの、拳の一振りで。


 宙を舞う大悪魔グランドデビルへ追撃せんとして、皆無が再び四足獣のように走り始める。


 ガキンッ


 千代子は大悪魔グランドデビルの方から聞き覚えのある音を聞いた。

 いつの間にか、大悪魔グランドデビルの手にはマスケット銃がある。


「駄目、皆無くん――」


 ぐりん、と空中で身を起こした大悪魔グランドデビルが、マスケットの銃口を疾走中の皆無に向ける。


 ――タァーンッ!!


「ウガァアアアッ!!」


 果たして弾丸は、皆無の咆哮――質量を持つほどに濃密なヱ―テルをまとった悪魔の咆哮デビルズ・シャウトによって粉々になる。


 大悪魔グランドデビルが着地する。

 が、姿勢を崩したかに見えた。


 その隙を逃す皆無ではない。

 皆無が大悪魔グランドデビルに飛び掛かり、いつの間にか剣のように鋭く長く伸びている爪でもって、その首を掻き切ろうとする――


 が。


「――莫迦ばかめ」


 皆無の爪は、届かなかった。

 突如として巨大化したワニの頭によって、皆無が上半身ごと喰われてしまったからである。


「皆無くんッ!?」


 皆無の下半身は、動かない。


嗚呼ああ、あぁぁ……そんな」


「ははっ、所詮は見かけ倒しだな!」


 ワニの口の中から光が漏れ出てきた。

 血のように赤い、光。

 光は幾何学模様を描き、丸い円がそれらを取り囲む。





 魔法陣である。





 ――ゴッパァァアアアアアアッ!!


 腹に響く破裂音とともに、大悪魔グランドデビルの右腕――巨大なワニの頭部が弾け飛ぶ!


「ギャァァアアァアアァアアアアアッ!!」


 右腕を失い、全身に火傷を負った大悪魔グランドデビルがのたうち回る。

 一方、ワニの頭の中から出てきた皆無は無傷だ。


(どういうこと――?)


 見れば皆無の体が薄っすらと、光の膜で覆われている。


(【物理防護結界アンチマテリアルバリア】? いえ、もっと高位の――)


 初級・中級・上級魔術のさらに上。

『地獄級』の名を冠する究極火炎魔術【第七地獄火炎プレゲトン】を防ぎ切ったのである。

 恐らく、あれもまた地獄級に分類される究極魔術の一つなのであろう。


「あはァッ!」


 そのとき、皆無が笑った。

 否、わらった。

 まるで、彼が崇拝する主・璃々栖リリス姫にそっくりな嗤い方を。


「あはははははははははははははははははははははははハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ

      ハハハハハハハハハ

  ハハハハハハハ

        ハハハハハハハハハ          

   ハハハハハハハハハ

             ハハハハハハ

     ハ

             ハ

         ハ

   ハ

ハッ!!」


めるなァァアアァアアアアアアッ!!」


 火傷した肌を回復させ始めた大悪魔グランドデビルが、吠える。

 弾け飛んだその右腕の辺りに光り輝く悪魔印章シジル・オブ・デビルが浮かび上がり、みるみるうちに肉が盛り上がっていく。

 腕は巨大な喇叭ラッパを形作った。


所羅門七十二柱ソロモンズデビルが八位・馬羅鳩栖バルバトス――)


 もはや立ち上がることもできない千代子は、悪魔デビル同士の壮絶な戦いを茫然ぼうぜんと見つめる。

 見つめながら、士官学校の教科書――悪魔学の大家コラン・ド・プランシーが著した『地獄の辞典』の一ページを思い出す。


馬羅鳩栖バルバトスには、高貴なる四人の小王がはべっている。四人の小王は、喇叭トランペットの音色でもって主・馬羅鳩栖バルバトスの栄光を讃える――)


 プァ~~~~パラリラパラリラ~~~~~~~~ッ!!


 綺麗な音階ドレミとともに、喇叭ラッパの中から無数の動物霊が飛び出してくる!

 動物霊たちはあっという間に皆無を呑み込み、それでもなおどんどん湧き出してくる。


「嗚呼……あぁぁ……」


 千代子が己の一生涯を使って駆逐したはずの動物霊が、あっという間に庭を、屋敷を、異界を埋め尽くす。


 千代子は絶望する。


 無駄だったのだ。

 自分の人生は、この命は、やはり何の意味も持っていなかったのだ。

 若さの全てを消費して救ったはずの皆無はもはや、動物霊たちの渦に呑み込まれて消えてしまった。


 千代子の周囲を、獰猛なオオカミ、ラヰオン、トラなどの霊が取り囲んでいる。

 それらが一斉に、千代子に飛び掛かる――






































「――【第七地獄火炎プレゲトン】ッ!!」





 鈴の鳴るような声だった。

 声変わり前の、少年の声。


 途端とたん、千代子の視界が赤色で染まった。

 地獄の炎が、罪人を燃やし尽くす業火が世界を包んだ。


 動物霊たちがみるみるうちに燃え上がり、炭となり、灰となっていく。

 当然、千代子も炎に包まれる。

 が、一体全体どういう原理であろうか?

 千代子は、燃えない。

 気が付けば、あれだけたけり狂っていたはずの炎が、綺麗さっぱり消え果てている。


「ガフッ、莫迦ばか…な……」


 全身を炭化させた大悪魔グランドデビルが、真っ黒な世界の中で唯一の色彩を帯びた鮮血を吹き出しながら、憎々し気に呟いた。


「閣下から下賜された印章シジルの力が、こんな――」


 大悪魔グランドデビルの言葉は、続かなかった。

 背後から、胸を貫かれたからである。

 貫いたのは、筋骨隆々とした肉と、真っ黒い毛皮に覆われた皆無の腕だ。


「あぁ……くそ、せめて閣下をお呼びしなければ……生贄……生贄になるものは」


 見えているのかいないのか、大悪魔グランドデビルが炭化した目で周囲を見回す。









 ガキンッ


 大悪魔グランドデビルが、マスケット銃で以て自身の左胸を狙う。


 銃口から射出されたヱ―テル弾が、黒焦げの世界に鮮血の花を咲かせる。


「閣下、御身の元に」


 大悪魔グランドデビルが右腕の喇叭ラッパを天に向けた。

 喇叭ラッパいななく。

 血を帯びた無数の動物霊たちが飛び出してきて、天へと昇っていく。


 皆無が、腕を引き抜く。

 大悪魔グランドデビルが倒れ伏す。


「倒したの……? 皆無くんが、大悪魔グランドデビルを」


 だが、喇叭ラッパだけは天を向いたまま、血塗られた動物霊を吐き出し続ける。


 ……気が付けば、天上に巨大な渦が形成されていた。

 無数の動物霊たちが空を覆い、円を描くようにして運動しているのだ。

 深紅の渦がやがて質量を帯びていき、束になり、視界を覆い尽くすほどの巨大な物体になった。


 その物体が、深紅のヱ―テル光を帯びたソレが、皆無目掛けて勢いよく降ってきた!

 ソレが何なのか、千代子は最初、分からなかった。

 ソレがあまりにも巨大すぎて、己の知識と目の前の光景が結び付かなかったのだ。


(あれは――――……こぶし!?)


 今や神戸のアストラル界に顕現けんげんしつつある魔王――百獣公爵馬羅鳩栖バルバトスの拳が、庭に叩きつけられる!


 地面がめくれ上がった。

 大質量の高速移動に伴う突風で、千代子は空に投げ出された。

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