捌「生きる意味と、死ぬ覚悟」
「私は、貴方の、
ついに、告げた。
「…………え?」
「
と、正負さまざまな感情がないまぜになった、
皆無が、左手を
「そう、か。
「皆無くん、私と一緒になっては
千代子は、努めて優しく、皆無の頭を抱き締める。
皆無がびくりと体を震わせたが、やがてされるがままになる。
「あんな悪魔のことは忘れて、私を見てはもらえませんか?」
千代子は皆無の頭をぎゅっと乳房に押し付ける。
これではどちらが悪魔か分からないな、と思いながらも、攻勢の手を緩めない。
「チョコ子少尉――――……いや、千代子」
果たして皆無が、初めて名前を呼んで呉れた。
だが――、
「悪い、千代子。僕はお前を選べへん」
続く言葉は残酷だった。
「貴方は人間です! 人間なら、人間として生きるべきでしょう!?」
「
「何が違うの!?」
「僕は」
皆無が、
たっぷり十秒ほども迷ってから、皆無が衝撃の言葉を口にする。
「僕は――――……
――僕はもう、死んどるんよ」
「…………え?」
「いや、言葉が足りてへんかったな。僕は一週間前の夜に、一度死んだんよ。
神戸には、
「けど
膨大なヱ―テル――その量、実に二千五百万単位。
常人の二千五百万人分。
『ヱ―テルお化け』と評判だった千代子の、約八千三百人分。
第七旅団の最高戦力たる『十二聖人』の二五人分。
皆無はそのヱ―テル量を『
二千五百万単位ものヱ―テルを持つ存在など、
そんな量を誰かに貸与できる存在など、この世に二人といて
『こやつは
皆無を見やりながらそう口にした
『そなたと違ってな』とも。
なるほど、そうであろう。
泰然とした
そんな彼女が皆無に下賜した、二千五百万単位ものヱ―テル。
けして少なくはない――どころか、
「僕は
皆無が千代子の胸から顔を離す。
その頬が少しばかり朱に染まってはいたものの、皆無は無表情だ。
「なるほど僕は、
皆無が、千代子の手から南部式自動拳銃を奪い返す。
「言うたやろ? 僕の心臓は、
皆無が再び、南部式の銃口を額に当てる。
今度はもう、震えていない。
「もう、行かな。
「駄目――ッ!!」
そのときだった。
保護した犬たちが、一斉に遠吠えを始めた。
「「え――?」」
遠吠えは、この建屋だけでなく、他の家々からも聴こえてくる。
神戸中の犬が
「コレ、もしかして!?」
皆無が部屋を飛び出す。
千代子は必死についていく。
犬誘拐犯の家屋から出た皆無が、半透明の
「皆無くん――ッ!!」
そのまま行ってしまうのではないかと思い、気が気でなかった千代子であるが、果たして皆無は千代子の元に舞い戻ってきて呉れた。
周囲では、依然として無数の犬の遠吠えが聴こえる。
「異人館通りや!」
「え?」
「昨日、お前が死にかけたあの屋敷の上空に、異界門が開きつつあるのが見えた! きっとケルベロス閣下の魔術や!」
「それってつまり――」
「ああ! 恐らくあの門の中は、半現世化してる。つまり死ななくても、
皆無の晴れやかな、それでいて覚悟の決まった笑み。
「千代子――壱文字少尉、貴官は戦える奴をありったけ集めて、異界門周辺を封鎖せよ。
「待って、行かないで!!」
千代子は皆無にすがりつく。
確かに皆無が自死する必要はなくなった。
が、異界に行って帰ってこれる保証など
神隠しに
たとえ帰ってこれたとしても、五体満足とは言えない状態であったり、記憶を失っていたり、人格が変わってしまっている例がほとんど。
ましてや、異界門の向こうでは
「許嫁を残して、行ってしまうんですか……!?」
「壱文字少尉」
皆無が、千代子のことを呼ぶ。
名前ではなく、姓と階級で。
「僕からの最後の命令や。――
「――――ッ!!」
その言い方は、ずるいと思った。
千代子は涙を呑み込んで直立し、皆無へ屋外敬礼を送る。
皆無が背伸びをして、こちらの頭を撫ぜてくる。
「さようなら、千代子。こんな許嫁で悪かった」
皆無が羽ばたき、北の空へと飛んでいった。
行ってしまった。
❖ ❖ ❖ ❖
言われた通り神威中将を頼り、犬捜索部隊に数倍する四個大隊を緊急呼集してもらった。
『皆無』と『
ヴゥゥウウゥゥゥゥウウウウウゥゥゥゥウウゥゥゥ……
手回しサヰレンの音で満たされた外国人居留地の通りを大急ぎで北上し、東西に走る国鉄の線路を【韋駄天の下駄】で飛び越え、北野坂を駆け上ってみれば、禍々しい瘴気に包まれた異人館街があった。
「あれは――」
夜空が、赤い。
血のように赤い空の一点に、真っ黒な穴が空いている。
その穴から、
無数の丙・丁種
「総員、付け剣!!」
鈴木中佐の号令で、選りすぐりの
「突撃ッ!! ――民間人を一人も殺させるなッ!!」
❖ ❖ ❖ ❖
「助けて……助けてッ!!」
足を怪我しているらしい異人女性に、千代子は駆け寄る。
「もう大丈夫です! 大丈夫ですから」
女性を保護しながら、千代子は異人館通りを見回す。
通りは無数の
どれも頭部を撃ち抜かれている――皆無がやったのだろう。
だが、
❖ ❖ ❖ ❖
状況はすぐに回復した。
歴戦の佐官たちが危なげなく
千代子たち多数の尉官は大結界で
そうして包囲網が出来上がったころには、四方八方から
その数、実に千名近く。
第七旅団で即応可能な将官のほぼ全員であった。
駆けつけたのは
第
負傷した民間人は多数に上ったが、幸いにして死者数は
異人館街の住民――異人に死者など出ようものなら国際問題になるため、第零師団長が最優先で人を回して
千代子は第零師団に属している自分が、第七旅団の
――そうして、今。
千代子は他の旅団員たちとともに、焼け野原となった屋敷跡の上空に開いた異空間へ続く穴――異界門を見張っている。
穴は陽炎のように不定だが、注視していると何やら建造物のようなものを見ることができる。
「壱文字少尉、あまり注視するな」
異界門をじっと見ていると、隣に立つ鈴木中佐に注意された。
「心を持っていかれるぞ」
「で、ですが中佐殿」
「
見れば、異界門から
「総員、構えッ!!」
❖ ❖ ❖ ❖
(皆無くん……
あれから数十分が経つも、皆無たちは異界門から出てこなかった。
もしや本当に
さしもの皆無でも、敵わなかったのではないか。
皆無は今まさに、危機に陥っているのではないか――。
不安に押しつぶされそうになった千代子は、
「【偉大なる軍神スカンダの剣・ニュートンの林檎・オン・イダテイ・タモコテイタ・ソワカ――韋駄天の下駄】」
両脚に重力低減の密教術を纏い、村田銃を構え直す。
ぐっと身を沈め、数十メートル上空に浮かぶ異界門目がけて――
「待て待て待てッ!!」
大跳躍をするその前に、鈴木中佐に肩をつかまれた。
「常人があの中に入ったら、あっという間に肉体が腐り落ちて死ぬんだぞ!?」
「だ、大丈夫です! この中は半現世化しているはずで――」
「何を言っている? そんな現象聞いたことも――」
「姫がそう仰っておられたのです!」
「あぁ、
束の間、納得しかかる鈴木中佐であったが、
「いやいやいやいや、中は
「ですがッ!!」
気が付けば、千代子は泣いていた。
まるで分別のない童女のように。
「助けに行かなきゃ! 皆無くんが――私の大切な許嫁が、死んでしまう!!」
思えば己にとり、
確かに、一方的に写真を眺めるという関係性で言えば、一年以上の付き合いにはなる。
が、
自分は先ほど皆無に対して、『出逢って数日に過ぎない異性のために、命を捨てられるものか?』という疑問を抱いた。
ひるがえって、今の己はどうであろう?
己にとって、皆無は命を捨てるに足る相手か?
(――分からない)
出逢って二十四時間に満たない相手のために、命を懸ける――否、命を捨てる価値が、果たしてあるのか?
(分からない!!)
しかも、皆無はもう、
(忘れたわよ、そんなこと!! でも――)
『さようなら、千代子。こんな許嫁で悪かった』
皆無が別れ際に見せて呉れた、泣き笑い。
あれが今生の別れというのは、千代子は納得がいかなかった。
どれだけつらく悲しい別れであっても、最後に見るのは笑顔がいい、と千代子は思った。
そう、笑っていて欲しいのだ。
あんなにも幼く可愛らしい許嫁が、つらく悲しい表情をしているのは耐えられない。
皆無には、曇りのない晴れやかな笑顔でいて欲しい。
それが、それだけが、今の自身を支配する
長いこと、千代子は己が生きている意味が分からずにいた。
弘法大師・空海の流れをくむ密教系退魔師の大家。
そんな由緒正しき家に男ではなく『女』として生まれ、それでも将来を嘱望されて蝶よ花よと育てられ、そうでありながら男児の誕生によって手の平を返され、全てを失った
そんな自分が
飛び級の末に第七旅団へ入隊し、初任務で死にかけた。
そうして千代子は、皆無に出逢った。
立て続けに四回、命を救われた。
(見つけた)
千代子は鈴木中佐の腕を振り切り、夜空へと飛び出す。
(私の生きる意味を! 皆無くん――ッ!!)
「壱文字少尉!」
振り返らなかった。
千代子は夜空に浮かぶ異界門へと飛び込んだ。
……ぐにゃり、と脳が裏返るような奇妙な感覚。
「――はッ!?」
感覚だけではなかった。
実際に、世界が一八〇度裏返った。
「えっ!?」
目の前に、洋館の屋根がある。
(私、落ちてる――ッ!?)
千代子は
逆立ちの体勢から、ゆっくりと自身を屋根の上へと降り立たせる。
異界門の向こうに見えていたのは、この洋館だったのだ。
そして――
「――――ヒッ!?」
屋根の上には、異界門へ長大なはしごを掛け、我先にと異界門へ至ろうとしている
同族を押し退けて登ろうとするその姿は、押し退けられた者がぽろぽろと零れ落ちていくその
その集団の幾人かと、目が合った。
「は、【
日中に見た皆無の魔術を見よう見まねで唱える千代子。
ぱっと白い霧が生じたので、千代子は霧の中に潜り込み、屋敷の裏手へと飛び降りる。
果たして
「【オン・アラハシャノウ――
飛び降り際に、屋敷の庭に大量の妖魔の姿を見た。
ヱ―テルを
甲種
内二つは見知った反応――皆無と
千代子は
右手の二本指を剣のように鋭く伸ばす。
「【
剣印を額へ、
「【
「【力と】」
左肩へ、
「【栄えあり】」
右肩へ当てる。
「【永遠に尽きることなく――
今や
「――行こう」
覚悟を決め、庭に飛び出す。
果たして――――……
「とんだ拍子抜けだ」
……――――そこには、絶望の光景があった。
「
庭の中心に、田中大尉が佇んでいる。
――
断じて田中大尉などではない。
大尉の右腕はワニの顔の形などしていなかったし、大尉の額に悪魔めいた
ワニのウロコには、何やら見覚えのある紋様が刻まれている。
(大尉の右腕の刺青……? いや、あれは
何ということだ。
神戸港の切り札たる
さらには――
ヒソヒソ
ヒソヒソ
ヒソヒソ
ヒソヒソ
庭の至る所に、半透明の獣――動物霊たちが佇んでいて、何事かを囁いている。
そして庭の中心に、たくさんの動物霊たちがかがみ込み、
ブチブチ
ガリガリ
ムシャムシャ
クチャクチャ
と、何かを
「か、皆無くん……?」
皆無の姿は、ない。
いや――
「ぁ……ぅあ……」
動物霊たちの中から、皆無の声が。
動物霊たちがかがみ込んでいる、その中心に。
牙や歯を実体化させた動物霊のよって手足やハラワタを喰い散らかされている、皆無の姿があった。
「皆無くん――ッ!!」
「おやおや、壱文字少尉。わざわざ生贄になりに来て
田中大尉のニセモノが冷笑する。
が、千代子は無視。
代わりに、千代子は村田銃を構えた――皆無に群がる動物霊たちに向かって。
「【AMEN】ッ!!」
彼我の距離は十数メートル。
磨き抜かれた射撃の腕が放った
(っし! 次ッ――)
村田は世にも珍しい
千代子は自動小銃の利点を生かし、即座にオオカミの隣の動物へと狙いを定め――
「――えっ!?」
千代子は目を剥いた。
弾着による光の爆発の中から、無傷のオオカミが飛び出してきたからである。
「くっ――【AMEN】ッ!!」
再度、射撃。
千代子の卓越した射撃術は、高速移動する目標の頭部に再度命中させる。
が、
(やはり無傷!! 祈りを込めた
並の丁種
つまり相手は――ここにいる無数の動物霊たちは、一体々々が佐官が相手取るべき丙種
(今の私に、これ以上の威力を持った攻撃手段なんて――)
――――ある。
自分の寿命と引き換えに、神罰の一撃を相手に叩き込める秘中の秘術。
第七旅団全体の中でも使い手が数えられるほどしかいない究極の術式――【
覚悟を、決めた。
千代子は、自分の命を諦めた。
(【二面二臂のアグニ・十二天の一・炎の化身たる
オオカミとの距離はもはや数メートル。
脳内高速詠唱により、千代子の目の前に火天の
ここまではいつも上手くいくのだ。
が、ここから先――曼陀羅を維持しながら、
しかもそれを、脳内詠唱で済まさなければならない。
(【神に似たる者・大天使聖ミカヱルよ・清き炎で悪しき魔を祓い給え】ッ!!)
果たして
『
オオカミは今や、目前。
千代子の瞳に、オオカミの巨大な顎が、牙のぬめりがはっきりと映る。
そのキバが、千代子の首に喰らいつこうとする――
(お願い、守って!!)
だから千代子は、神に祈った。
(
引き金を引く。
夜の異界に、昼が訪れた。
太陽、と見まごうばかりの巨大な火の玉が村田の銃口から吐き出され、オオカミを霧散させ、その先にいる、皆無に群がる動物霊たちの四肢を吹き飛ばす。
「……で、できた」
今や千代子が構える村田の銃口の先では、【
「ゴァアァアアァアアアアアッ!!」
「ヒィィイイイイィィイイィィインッ!!」
「ガルルルゥゥウアッ!!」
周囲で様子を伺っていた動物霊たちが、一斉に千代子に襲い掛かる!
「【AMEN】ッ! 【AMEN】ッ!! 【AMEN】ッ!!!」
引き金を引く度に、動物霊たちがダース単位で消し飛んでいく。
中には皆無に喰らいつこうとする個体もいて、千代子はそういう敵を最優先に排除する。
あっという間に、弾が尽きた。
皆無の元へ走り、皆無の手元に落ちていた村田を拾い上げ、射撃を継続させる。
驚くべきことに、意識せずとも
曲芸のような真似。
昨晩に皆無がやってみせた
が、これが驚くほど上手くいった。
(できる――私ならできる!)
二丁の村田に
(今の私なら何だってできる! 皆無くんを救える!!)
一発で五年、と言われている。
撃つ度に体が軽く、虚しくなっていくのを感じながら、それでも千代子は射撃戦をやめない。
――数分ほども舞い踊り、千代子はついに全ての動物霊を祓いきった。
「残すはお前だけだ!!」
千代子は田中大尉に化けた
「――【
撃った。
(吹き飛べ、悪魔ッ!!)
そして――
巨大な火の玉は、千代子の命を懸けた【
「…………え? く、
千代子は再度引き金を引こうとする。
が、
「何てことをして
引き金が、引けない。指が重い。体が重い。あれ? どうして視界が低くなっている? あぁ、いつの間にか座り込んでしまっていたのだ。立て、早く立つんだ千代子。
…………あれ?
何だ、この手は。
この、皺の刻まれた手は誰の手だ?
「若さもヱ―テルも失った今のお前に、生贄としての価値はない」
「貴様のような
千代子は抵抗もできない。
「残念だよ、少尉。貴様の抜け殻を食すのを、ずっと楽しみにしていたのに」
振り下ろした。
「――千代子ッ!!」
そのとき、身動きも取れないでいた己の体を、
「え……?」
そして。
己の代わりに
皆無の首が、
尻餅をついた千代子の視線のその先で、
皆無の首は、
麗しき主、
足を痛めているのか、
地面に這いつくばる
…………………………………………転がる。
「あっはっはっ! 弱い、弱過ぎる! よもや私を謀っているのではあるまいな、姫君?」
大尉の姿をしたナニカが、たった今皆無を殺害した
「
そして事実、そうなってしまったのだ。
「嗚呼……可愛い皆無、こんな姿になってしまって」
未だ意識があるのだろうか――皆無の瞳が動き、二人が見つめ合う。
そうして、二人が口付けした。
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