漆「真相」

「――シィッ!!」


 璃々栖リリスはヱ―テルを込めた右の爪先で、田中大尉の姿をした敵悪魔デビルが持つマスケットのを銃身を蹴り飛ばす。


 ヱ―テル弾が、明後日の方向へ飛んでいく。


 返す刀で回し蹴りを浴びせ掛ける璃々栖リリスだが、敵悪魔デビルの右腕で防御されてしまう。

 敵悪魔デビルの右腕は何やら硬いウロコで覆われており、敵悪魔デビルは平気な顔だ。


 今度は璃々栖リリスが、敵悪魔デビルの硬い右腕に押し返されて体勢を崩す。

 璃々栖リリスが再び飛び掛かろうとするころには、敵悪魔デビルがマスケットのフリズンと撃鉄を起こし、狙いを璃々栖リリスに付けている。


 ガキンッ


 そしてまた、引き金の音――火打石フリント火蓋ひぶたを叩いた音。

 フリントロック式のマスケット銃は、引き金が引かれてから実際に弾丸が射出されるまでに約一秒のタイムラグがある。





 一秒。

 一秒である。





 その一秒でもっ璃々栖リリスは山猫のように鋭く地を駆け、敵に肉薄する!

 果たして、


 ――タァーンッ!!


 ヱ―テル弾が発射されるその前に、璃々栖リリスは銃身を蹴り上げることに成功する。

 ヱ―テル弾が明後日の方向へ飛んで行く。

 馬羅鳩バルバトス悪魔遺物アーティファクトたるマスケット銃を破壊するつもりで込めた膨大なヱ―テルが弾け、真っ白なヱ―テル光となって庭を照らし上げる。


 璃々栖リリスは次なる一撃を見舞うが、やはり敵の右腕で防がれてしまう。

 再び、膨大なヱ―テル光が空に舞い上がる。


 互角だ。

 だが、互角では意味がない。

 何とかこの相手に決定的な一撃を浴びせ掛け、あわよくば無力化させ、それが無理でもこの場から離脱しなければ。

 そうしてケルベロスと合流し、皆無かいなを召喚するのだ。

 悪魔化デビラヰズした皆無さえいれば、この程度の相手、圧倒するのはたやすい。


「まるで豆鉄砲じゃな!」


 相手の集中を乱せないものか、と考え、璃々栖リリスは敵悪魔デビルを挑発する。


「昨晩、の眷属にはらわれた哀れな悪魔デビルの方が、よほど強力な弾を撃っておったぞ?」


 ガキンッ

   タァーンッ!!


「ヤツは――弐ノ王ツヴァヰは閣下からマスケットに特化した加護を下賜されていたからな」


 果たして、田中大尉の姿を取る敵悪魔デビルが、問いに答えた。


弐番目ツヴァヰ――なるほど、そなたらが、百獣公爵馬羅鳩栖バルバトスに仕える四人の小王というわけか! ならば貴様は誰だ? 壱番目アヰンスか? 参番目ドラヰか? 肆番目フィーアか?」


 ガキンッ

   タァーンッ!!


「良く喋る姫君だな。貴様こそ、七大魔王セブンスサタンの娘のくせに魔術の一つも使えず、斯様かように野蛮な攻撃しかできんとは」


 ガキンッ

   タァーンッ!!


「無様だな。自分のシジルも守れない、哀れな姫君よ!」


 敵悪魔デビルの右腕に刻まれた悪魔印章シジル・オブ・デビルが白く輝く。

 鋭く振るわれた腕の重さが、璃々栖リリスの体を跳ね飛ばす!


「どうした、後がないぞ?」


 気が付けば、璃々栖リリスは広い庭の端にまで追い詰められていた。

 一メートル後方には煉瓦レンガ造りの高い塀。

 追い込んでいるつもりが、追い込まれていたのは己の方であるらしい。


 ――


「何を――」


 戸惑う敵を無視して、壁に向かって駆ける。


 一歩、

  二歩、

   三歩と壁を駆け上がり、


「はッ」


 跳んだ――へ、敵悪魔デビルの背後へ!

 敵の背後で着地した璃々栖リリスは、渾身の力を込めて敵の足を払う。

 果たして、敵悪魔デビルが転倒した。

 璃々栖リリスは大きく脚を振り上げ、ヱ―テルの限りを込めた踵を敵悪魔デビルの頭部に振り下ろす!





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖同刻 / 南京町❖



「うっ――!!」


 急に、皆無かいなが胸を抑えて倒れた。


「え? ――皆無くん!?」


 攫われてきた犬たちの面倒を見ていた千代子は、大慌てで皆無の元に駆け寄り、その小さな体を抱き起す。


「はぁッ、はッ、はッ……」


 皆無は額にびっしりと汗をかいている。

 尋常ではない。


「り……璃々栖リリスが戦っとる」


「えッ!?」


「僕の心臓を満足に動かせへんほどに動揺しとる。まずいかもしれん」


「心臓? いえ、それなら助けに行かなくちゃッ!!」


「どうやって」


「え、そりゃあ……」


 言いよどむ千代子。


璃々栖リリスはもとより霊的存在やから、本人の意思で異界――アストラル界に渡れる。けど」


 そうなのだ。

 自分も皆無も、物理アッシャーの肉体を持つ身。


 異界とはつまり、あの世のことである。

 人は死なねばあの世には行けない。


 人間にせよ動植物にせよ、この世に生きるモノは全て、物理アッシャー体とアストラル体の両方の体を持つ。

 二つの体はぴったりと重なり合っている。

 手足を失った者が『幻痛』を感じるのは、アストラル体が痛むからである。


 逆に、璃々栖リリスやケルベロスのような妖魔は物理アッシャー体を持たない、純粋なアストラル生物である。

 アストラル生物は普通、人間には見ることも触ることもできない。

 璃々栖リリスが一般人からも姿を認められ、物理アッシャー界の物に触れたり物を喰ったりできるのは、璃々栖リリスが高濃度のヱ―テルによって受肉マテリアラヰズしているからである。


「でも、さっきは行けたじゃないですか!」


「あれは、ケルベロス閣下の魔術で列車の中が半分異界化してたからや。確かに閣下なら、璃々栖リリスがおる場所を半異界化させて、ここと繋ぐことも可能かもしれへん」


「だったら!」


「でも、肝心の閣下が今、物理界こっちにおらへん」


「そ、そんな……」


「あぐッ」


 胸を掻きむしりながら、悶え苦しむ皆無。


「――――……ッ!」


 そのまま、皆無は動かなくなった。


「皆無くん!?」


 息は、ある。

 が、意識はない。


嗚呼ああ、あぁぁ……皆無くん、何か、何か私にできることは――」


 ない。

 何もない。

 無力な人間に過ぎない己には。


 涙が出てきた。


 無力だ。

 大切な許嫁が、愛する男性が苦しんでいても、自分は泣くことしかできない――。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖同刻 / アストラル界 神戸異人館街❖



「ぎゃぁあああッ!!」


 悲鳴を上げたのは、璃々栖リリスの方だった。

 足首が、焼けるように熱い。


「まったく、とんだお転婆姫様だ」


 仰向けになった敵悪魔デビルの、右腕が奇妙な形に変形している。

 硬そうなウロコ、ギョロリとした丸い目、平坦かつ大きな口、居並ぶ鋭いキバ――


(――ワニ!?)


 ワニの顔に変じた右腕が、璃々栖リリスの右足首に喰らいついているのだ。


「我が主・馬羅鳩栖バルバトス公爵閣下の別名は『百獣公爵』。あらゆる獣の言葉を解し、獣の力を自在に操ることがお出来になる。私は――閣下を守護する三番目の王、参ノ王ドラヰフォン馬羅鳩栖バルバトスは、閣下からそのお力の一端を下賜されているのだ」


 いつの間にか、ワニだったはずの敵悪魔デビルの右腕が人の手に戻っている。

 敵悪魔デビル――参ノ王ドラヰフォン馬羅鳩栖バルバトスが立ち上がる。

 璃々栖リリスは、穴だらけになった足首をつかまれ、吊り下げられる形となる。


「素晴らしい――やはりワニは、攻守両方に優れたケモノだな。以前、『爬虫類はケモノではない』などとつまらぬことを言うやからがいたのだが、返事の代わりにそいつの頭を噛み砕いてやったよ」


 痛みと熱を発している足首とは裏腹に、璃々栖は首筋にひやりとしたモノを感じる。

 同時に、鼻を覆いたくなるほどの強烈な獣臭。


 気が付けば、庭の至る所に様々な獣が佇んでいた。

 半透明の動物霊たちが、じっと璃々栖リリスを見つめている。





 イヌ、


   ネコ、


     イノシシ、


       シカ、


     タヌキ、


   キツネ、


     ネズミ、


       ウマ、


         オオカミ、


       ウシ、


     クマ、


       カエル、


         サル、


           ヒツジ、


             ヘビ、


               リス――





 数多あまたの動物霊たちが空間を圧迫し、





 ヒソヒソ

   ヒソヒソ


  ヒソヒソ

    ヒソヒソ





 と何事か囁いている。


嗚呼ああ……なるほど)


 先ほどからずっと感じていた視線の主は、こいつらだったのだ。

 こいつらがこちらの動向を監視し、参ノ王ドラヰに報告していたのだろう。


(さて、どうする――)


 痛む右足首を意識の外に追いやり、璃々栖リリスは思考する。


 己の最大の武器・皆無かいなはいない。

 皆無かいながここに来る可能性は極めて少ないだろうし、そもそも来るための手段がない。


 右脚はつぶされた。

 シジルのないこの身では、使える治癒術は多少の痛みを和らげる初級魔術の【治癒ヒール】のみ。

 皆無がいれば上級魔術【大治癒ヱクストラ・ヒール】によって再び走れるようにもなるだろうが、いないのだから仕方がない。


 他に自分が使える魔術といえば、いずれも攻撃手段にならない補助系の術式ばかり。





 つまり、絶体絶命。





(つまり――いつも通りじゃな)


 璃々栖リリスの頭が冴えていく――冷めていく。


 一週間前、自分は、

 父を失い、

 母を失い、

 兄弟を失い、

 家臣を失い、

 国を失い、

 そして腕を失った。


 命からがら敵の手から抜け出し、侍従の大印章グランドシジル魔術【超長距離グランド・瞬間移動テレポート】によって神戸に逃れてからも、恐怖の連続だった。


 周り全てが自分の敵ヱクソシスト

 そんな地獄のような環境の中で、皆無かいなという可愛らしくも強力な武器を手に入れ、神戸を襲う悪魔悪霊たちを相手に率先して戦い、悪魔祓師ヱクソシストたちからの信用を勝ち得て、今の地位を築いた。


 毎日々々、死にそうな目に遭ってきた。

 だから今、この危機も、『いつも通り』のことに過ぎない。


(何ができる? 腕がなく、片足もつぶされた、今のに)


 璃々栖リリスは絶望しない。

 したところで何の解決にもならないからだ。


 璃々栖リリスは祈ったりしない。

 悪魔には祈るべき神などいないからだ。


 だから璃々栖リリスは――


「違和感は、あったのじゃ」


 だから璃々栖リリスは、参ノ王ドラヰに語り掛けた。


「……ん?」


「そなた、最初からチョコ子少尉のことが目的だったのじゃろう?」


 今の自分にできる、唯一の仕事。


「何の話だ」


 ――時間稼ぎである。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖同刻 / 南京町❖



「【釈迦しゃか牟尼むに如来にょらい脇侍わきじ星宿光せいしゅくこう長者の薬壷・オン・ビセイシャラ・ジャヤ・ソワカ――治癒】! あぁ、神様お願い――」


 ゴロツキたちの居住区らしき畳敷きの部屋に皆無を横たわらせて、千代子は必死に魔術治療を施す。

 部屋には、二人の他に誰もいない。


「う……ぁ……」


 果たして、皆無が目を開いた。


「皆無くん! 皆無少佐殿――気が付きましたか!?」


「少尉……状況は?」


「変わっていません。少佐殿が気を失っておられたのも、十分程度のことです」


「行かな……璃々栖リリスの元へ」


 皆無が起き上がり、左手をぜる。

 これは、皆無が心底弱ったときに見せる癖なのだと、璃々栖リリスから聞かされている。


「まだ横になっていてください! それに、行くってどうやって!?」


「方法なら、ある」


 皆無が、虚空から南部式自動拳銃を取り出す。


「死ねば、いい」


「な――ッ!?」


 千代子は咄嗟とっさに、その拳銃を取り上げようとする。

 が、皆無の握力があまりにも強く、奪い取れない。

 千代子は南部式の遊底を抑えつつ、皆無の手を包み込む。

 皆無の手が、震えている。

 その手は、哀れなほどに震えている。


「何てことを言うんですかッ!!」


 アストラル界とはつまり、あの世のことである。

 人は死なねばあの世には行けない。


 そう、つまり――。

 死ねば、アストラル界に渡れるのである。


「離せ、チョコ子少尉……どの道、僕はもうアイツの眷属や。いずれは肉体を捨て、ヱ―テル体にならなあかん身。でないと、アイツと一緒に魔界へ行くことはできへんのやから」


「な、何を言って――」


「僕の命はもう、アイツのモノ。璃々栖リリスのためなら、僕は――」


 皆無が千代子の腕を振り払い、南部式の銃口を自身のこめかみに当てる。


「待って、お願い、待って! 早まらないで!!」


 千代子は皆無の細い腕にすがりつく。


「どうしてそんな、そこまで――。あの悪魔デビルに、命を捨てるほどの価値があるとでも言うのですか!?」


璃々栖リリスは僕の全てや。アイツは僕に、命をれた。生きる意味を呉れた」


「命? 生きる意味? 少佐殿、一体何を――」


 皆無の手は依然、震えている。

 怖いのだ。

 怖くてたまらないのだ。

 だが、その瞳には覚悟の色がある。


 確かにあの姫君は、美しい。

 容姿のことだけではない。

 その生き様が、美しいのだ。

 国を失い、両腕を失い、悪魔祓師ヱクソシストのただ中に放り出されてもなお絶望せず、足掻あがき、一定の成果を上げてきた姫君。


 圧倒的意志力。


 あの、無限の胆力を秘めた赤い瞳に、若干十三歳の皆無が心酔するのは、分からなくもない。


 ……だが、それだけだろうか?


 何しろ皆無は、あの姫君と出会ってからまだ数日しか経っていないのだ。

 そんな相手のために、命を捨てようなどと思えるか?

 自分だったらどうであろう?


 ……他に、理由があるのではないか?

 弱みを握られているとか、あるいは――そう。





(相手の心を奪う魔術――精神汚染魔術の【魅了チャーム】、とか)





 誘惑こそ、悪魔デビルが最も得意とする技。


 確かに璃々栖リリス姫は美しい。

 が、その内外の美しさを使って皆無を篭絡ろうらくし、今まさに自死させようとしているのもまた、事実なのだ。

 こんな、こんなにも幼い子供に自死の道を選ばせようとするなど、まるで悪魔ではないか。


(悪魔――そうよ。あの女は、甲種悪魔デビル


 千代子は、愛する皆無にこんなにもつらく悲しい感情を抱かせる璃々栖リリスに対し、強烈な怒りを感じた。

 と同時に、何とかして皆無を璃々栖リリスの呪いから、くさびから解放してやらなねば、とも思った。


「少佐殿――いえ、皆無くん」


 千代子は南部式の遊底を抑え込みながら、努めてゆっくりと、優しい声色で言う。


「貴方はまだ若い――いえ、あまりにも幼い。生きる意味なら、これから先、たくさん、たくさん見つけられるはずです」


 ふと、皆無の手の力が緩んだ。

 千代子は素早く拳銃を奪い取り、皆無の頭を胸に抱く。





 トクントクントクン

   トクントクントクン





 内心の焦りが皆無に伝わらないようにと、必死に心音を落ち着かせる。


「確かに璃々栖リリス様はお美しい。けれど、あの方だけが異性の全てではありません。もっと素敵な出逢であいだって、この先いくらでもあるはずです。例えば、そう――」


 しくも、千代子が昨晩からずっと願い続けてきた『二人っきり』であった。

 この流れの中で言うのはいささか卑怯かと思ったし、女の方から想いを伝えるなど何とはしたない、とも思ったが、皆無に自死を止めさせるためなのだ、と自身に言い聞かせ、そのまま言葉を続ける。


「わ、わ、わ、私とか、どうですか!?」


「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………はぁ?」


 皆無に真顔で首を傾げられ、千代子は死にたくなった。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖同刻 / アストラル界 神戸異人館街❖



「違和感はあったのじゃ。そなた、最初からチョコ子少尉のことが目的だったのじゃろう?」


 今の自分にできる、唯一の仕事。


「何の話だ」


「行方不明の悪魔遺物マスケット、そなたが後生大事に握りしめておった長い筒。が神戸にやって来てから、立て続けに発生したという行方不明者。チョコ子もまた、危ないところじゃった。あやつのようにヱ―テルばかり大きなヒヨっ子など、生贄にピッタリというわけじゃな。そなた――」


 上下逆さまに吊り下げられながらも、璃々栖リリスは悠然と微笑んでみせる。


「本物の田中大尉と、二人のヒヨっ子を何処どこへやった?」


「――――……。今さらそれを知ったところで、どうなるというんだ?」


 大悪魔グランドデビル参ノ王ドラヰ――『田中大尉』という存在に化け、精神汚染の魔術によって千代子や他の悪魔祓師ヱクソシストたちに違和感を覚えさせないようにしていた乙種|悪魔デビルが、冷笑する。


「どうもせぬ。ただ、疑問を残したまま死にたくないだけじゃ。この国には『冥途めいどの土産』という言葉があるそうじゃな。そのくらいの選別はれても、そなたの主も怒らぬであろう?」


「ははっ。ようやく諦めたというわけか。冥途の土産、か。いいだろう……如何にも、私と弐ノ王ツヴァヰ壱文字いちもんじ千代子をこの屋敷に誘い込み、馬羅鳩栖バルバトス閣下を召喚するための生贄にするつもりであった」


「が、チョコ子――あの娘が思わぬ抵抗を見せた」


「そうだ。弐ノ王ツヴァヰは額に十字の傷を負い、あまつさえ智天使ケルビムス四方十字結界・シールが発動。私たちは結界から抜け出すことに専念した。結果として、弐ノ王ツヴァヰは貴様の眷属、憎きアノクタラカイナによって滅ぼされてしまったわけだが」


 参ノ王ドラヰの、璃々栖リリスの足首を握る手に力がこもる。


「――――ッ!!」


 穴だらけの足首が地獄のような痛みを生産するが、璃々栖リリスは目をかっ開き、壮絶な笑みを張りつかせたまま悲鳴ひとつ上げない。


「だがそなたはまんまと結界から抜け出し、再びチョコ子を篭絡しようと近づいた」


「貴様、あのときすでに気付いていたな?」


「確証はなかったし、そなたがそう・・だとは気付いておらなんだ。じゃがチョコ子を放っておけば、早晩馬羅鳩栖バルバトスの眷属に喰われるだろうという確信があった。あやつの中にはあやつの居場所を発する術式が埋め込まれておったからのぅ」


「それも、アノクタラカイナによって早々に祓われてしまったがな」


「だが、そなたはチョコ子をはるかに上回る、有能かつ御しやすい生贄を見つけてしまった――そう、ケルベロスの使い魔じゃ」


「はははっ! あのは極上の生贄だよ。もっとも私の手の中には今、それをも上回る最高峰の生贄があるわけだが」


 参ノ王ドラヰがマスケットの銃口を璃々栖リリスの左の乳房に押し付ける。


「あぁちなみに、本物の田中なにがしとその部下たちは屋敷の中で眠っているよ。貴様の命を捧げ、ケルベロスの使い魔の命を捧げ、それでも足りなかったときの予備燃料としてな。――さぁ、冥途の土産はもう十分だろう?」


 時間稼ぎも、もう限界のようであった。

 だから璃々栖リリスは、嗤った。


「そうじゃな、お陰ですっきりした。じゃが……あぁ、困ったのぅ!」


 璃々栖リリスは何も、無為無策に時間稼ぎをしていたのではなかった。


「冥途からの使者が、来てしもぅた!!」


 そのときであった。

 璃々栖リリスがヱ―テル反応を追い続け、ずっとずっと待ち焦がれていたが、戦場に飛び込んできた!





「ワオーーーー~~ンッ!!」





 が、高らかに遠吠えをした。

 途端、風がざわめき、空が渦巻く。

 異界と現世を繋ぐ門が、開き始める。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖同刻 / 南京町❖



「私では、駄目でしょうか」


 千代子は諦めない。

 震える声を振り絞り、皆無という名の城を攻め落とさんと、愛の言葉を投げ掛け続ける。


「いや、あのな。お前、こんなときに一体何を」


「私、炊事洗濯お掃除は全部できるんです! お料理の腕なんて、超一流なんですよ!?」


「ウソつけ。今日の昼、林檎剥かせたら芯しか残らんかったやろ」


「うぐっ……腕っぷしも強いです! どんなに強くて悪いヤツが襲ってきても、少佐殿のことを守って差し上げられます!」


「いや、それは男の仕事やろ」


「あああああとあと、こう見えて私、脱ぐと凄いんですよ!?」


「す、凄い……? ごくり」


 と、これには思春期男児の皆無が喰いついた。

 ここが勝機とばかりに、千代子は遮二無二しゃにむに叫ぶ。


「少佐殿、私の胸、揉みましたよね!?」


「あ、アレは! 事故やろ!?」


「一緒になってくださったら触り放題、揉み放題ですよ! どうですか!?」


「う、うーん……」


「私、絶対に少佐殿のことを幸せにします!」


 緊張のあまり、いつの間にやら『皆無くん』呼びから『少佐殿』呼びに戻っている千代子である。


「いや、それ、男のセリフ……」


 皆無が白目を剥いている。


(さぁ、言え、千代子! 戦え! 戦え!)


 千代子はぐっと拳を握りしめ、


「少佐殿――いえ、皆無くん。私、私は」


 ついに、告げた。 


「私は、貴方の、許嫁いいなずけなの」

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