陸「それぞれの戦」

❖夕刻 / 神戸元町❖



「何や、結局元ブラデヱトしとるだけのような気がするんやけど」


 元町に戻り、女三人して大通りをブラブラしていると、絶世の美少女たる皆無かいなチャンが呟いた。


「で、デヱト!? ――ぎゃっ」


 甘美な響きに千代子が反応するが、璃々栖リリスに思いっきり尻を蹴り上げられる。


「じゃから、やらぬぞ?」


「ぐ、うぐぐぐぐぐ……」


 王の足蹴あしげは男女平等に降り掛かるらしい。

 千代子は言い返したい。

 が、言い返せるだけの勇気が持てない。


『我こそが皆無の許嫁なるぞ!』と宣言したとして、それを璃々栖リリス姫に一蹴されたら?

 ヱ―テル総量二千五百万の皆無をして『バケモノ』と言わせしめる甲種悪魔デビルに、人間世界の婚姻風習など通用するのだろうか。


 美少女皆無チャンがこちらを怪訝けげんそうな顔で見てくるのだが、よもや女二人で己を奪い合っているのだとは夢にも思うまい。


 それにしても、着物姿で紅を差した皆無チャンの可愛いこと!


 認識阻害魔術【隠者は森の中ハーミット・イン・ザ・フォグ】の効果はとうの昔に消えており、男どもの舐めるような視線が復活しているのであるが、その視線が、皆無チャンにも容赦なく降り注ぐのである。

 もしかしたら、己よりも皆無チャンの方が見られているかもしれない。


「ん? なんよ」


 たまらなくなって皆無チャンの頬を撫でると、皆無チャンが小首を傾げる。

 その仕草がまた可愛らしいのだが、皆無チャンの肌の綺麗なこと!


 退魔専門部隊たる第零師団の団員は、軍人でありながら肌が焼けていない人が多い。

 出撃の主な時間が夜間だからである。

 皆無チャンもご多分に漏れず肌が白く、そして驚くほどきめ細かい。

 そして、もちもちしている。

 肌が『若い』のではなく、『幼い』のだ。


「うふふ」


「だから何よって!」


「むぅ、ずるいぞ千代子。も撫でたい」


「えぇ……撫でるってどうやって?」


 怪訝けげん顔の皆無チャンに対し、


「こうじゃ!」


「ひゃっ」


 姫に頬を舐められて悲鳴を上げる皆無チャン。


「ちょっ、やめっ、やめぇや、やめろって、んっ、口はあかん! ちょっ、んぷっ、やぁ、やめてぇ! ひゃぁああっ」


 顔や唇を璃々栖リリスに舐め回される。


 声変わりをしていない皆無チャンの、女装をして、まるで少女のような声を上げるさまはもはや、実質少女そのものであった。

 そんな美少女皆無チャンと、美少女璃々栖リリスチャンが往来のど真ん中で乳繰り合うその様は、何とも言えず煽情的で官能的であった。


 千代子はもう、堪らなくなってしまう。


 道行く男どもが魅入っている。

 よもや少女の内一人が実は男であるなどとは、夢にも思うまい。


「ふぅ、満足じゃ。行くぞ」


 そんな千代子や周囲のことなど気にもせず、さっさと歩き始める璃々栖リリス


「ひ、非道ひどい……非道すぎる……もうお嫁に行けへん」


「な、なら、私がもらって差し上げますよ!」


 虚空から引っ張り出したハンケチーフで顔を拭きながらメソメソしている皆無チャンが可愛くて可愛くて、千代子は不敬なのも忘れて頭を撫でる。


 果たして皆無少年は怒らなかった。

 それどころか、何とはなしに嬉しそうにして、頬を赤らめてそっぽを向く。


「~~~~~~~ッ!」


 千代子は、堪らない。

 胸の中がざわざわする。

 軍人とはいっても、少佐とはいっても、十三歳は十三歳ということか。

 ここからさらに抱き締めてみたら、さすがに怒るだろうか?


「…………あ」


 ふと、気付く。

 璃々栖リリスが、ひどく寂しそうな顔をしてこちらを見ていることに。

 璃々栖リリスもきっと、この可愛い男の子の頭を撫でてみたいのだろう――そう思った。





 だが、それは叶わない。

 腕がないからである。





 これこそが自分の、璃々栖リリス姫に対する唯一の優位性なのではないか? と思った。

 なるほど、皆無を思うさま撫でさすり、抱き締めて、皆無の心を璃々栖リリスから引き剥がすというのは妙案かもしれない。


「うぅ……――――~~~~ッ!!」


 煩悶はんもんした挙句、千代子は皆無の頭から手を離した。

 捨てられた子犬のような顔をする璃々栖リリスを前にして、その姫をなお痛めつけて蹴落とすには、千代子はまだまだ若すぎた。





   ❖   ❖   ❖   ❖





 そんなふうにして洋服店を冷かしたり、風月堂の菓子などを食べ歩いたりしていると、空からフワリと紙が飛んできた。

 何やら一対の翼があり、先端が尖っている。


「紙の……鳥?」


 千代子が首を傾げると、


「「紙飛行機――」」「――じゃァ」「――やな」


 二人の悪魔デビルが言った。


「ヒコーキ? ヒコーキって何ですか?」


「僕も見たことないけど、めっちゃ早く飛ぶ飛行船なんやって」


「ヘェ、不思議」


からすれば、人の世に飛行機が未だ存在しないことの方がよほど不思議なのじゃがのぅ。見たところおナベからのふみじゃな。どれ皆無、広げて見せよ」


「うん」


 皆無がひょいっと飛び上がって紙ヒコーキをつかみ、広げてみせる。


「うげっ、汚い字やなァ……」


 千代子も覗き込むが、確かに汚かった。

 あの聡明そうな麗人が一体全体どうしてこんな、ミミズののたくったような字を書くのやらと思うが、


「あはっ、おナベのやつ、


 璃々栖リリスは別の感想を持ったらしい。


仏蘭西フランス語か。えーと何々……『吾輩ノ使つかいさらワレリ』⁉」


「「ヱヱヱヱヱッ!?」」


「『毘比白ベヒヰモスノ配下ノ仕業ト疑ヘリ 助力じょりょくヲ求ム』――璃々栖、どうする!?」


「助けよう」


 即答する姫君。


「予はアストラル界を探す。そなたらは物理アッシャー界側を探せ」


「了解!」


「承知いたしました!」





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖十数分後 / MEP屋敷❖



「あら~あらあらあら~ん。皆無チャンったらいつから女の子になっちゃったのかしら~ん?」


 第七旅団には全面的に頼る方針であるらしい。

 何と、璃々栖リリス姫の盟友・ケルベロスの訪問は第七旅団の上層部も承知のことなのだそうだ。


「アタシとしては男の子な皆無チャンの方が好みなのだけど、コレはコレでありだわねェ」


 現に今、皆無少佐はMEP屋敷の最奥の部屋で、第七旅団の主たる旅団長にことのあらましを報告している。

 ……女装姿のままで。


「は、いえ……中将閣下、その、近いと申しますか」


 その皆無が、屋内敬礼の姿勢のまま、じりじりと後退あとずさりをしている――


「どうして逃げるのかしらァん?」


「に、逃げてなどは」





 ――オカマの旅団長・神威カムイ中将から。





 身長二メートル数十サンチ。

 豚鬼オーク悪鬼オーガもはだしで逃げ出す筋肉ダルマ。

 頭頂部以外を狩り上げた髪は七色に染め上げられていて、まるで求愛行動中のクジャクを思わせる。

 野武士のようないかつい顔の、唇には朱が差してある。

 日本人離れした大きな目には、西洋から輸入されたハヰカラな化粧法である『アヰシャドー』が為されているが、それが血のように赤いものだから、まるで歌舞伎役者の隈取くまどりのようである。

 張り裂けんばかりの筋肉の上に肋骨服が張り付いているのだが、肋骨紐が胸筋の形で歪んでいる。


 そんな、常軌を逸した見た目をしている神威カムイ中将が、皆無に口付けできそうなほど顔を寄せて、クネクネしている。


「や~ん、怯える顔も可愛いわねぇ! あのいけ好かない阿ノ玖多羅あのくたら少将の一体全体何処どこが似たら、こんなにも可愛らしい子が出来上がるのかしらん。ねぇ今夜、アタシの部屋に来ない?」


「ひぃぃいいッ!! 衆道はご勘弁を!!」


 恐怖のあまり尻もちをつく皆無。


「冗談よ」


 多少傷ついたような顔をして、中将閣下が書斎机の椅子に戻る。


「でも、そこまで怯えることはないと思わない? ねぇ、そこの貴女はどう思うかしらん?」


「えっ!?」


 急に話を振られて、千代子は戸惑う。

 相手は雲の上の人物、第七旅団の頂点である。

 何か、何か言わなければ。


「そ、その、今の皆無チャンは男のなので、衆道にはならないかと存じます!!」


「――はぁ? うふふ、ヘンな子ねぇ」


 ポカンとしていた中将がクスクスと笑い出し、それから急に軍人然とした顔になって、


阿ノ玖多羅あのくたら皆無かいな単騎少佐、現刻をもって貴官を甲種悪魔デビル・ケルベロスの使い魔捜索作戦に任ず。貴官には神戸第十三連隊より一個大隊が部署ぶしょされる。――復唱せよ」


「ははっ!」


 皆無が直立不動になる。


「小官はこれよりケルベロスの使い魔捜索任務にあたります! 第十三連隊・鈴木中佐から一個大隊をお預かりします!」





   ❖   ❖   ❖   ❖





「それにしても、璃々栖リリス様って本当、お優しいんですね」


 皆無の部屋で手早く着替えながら、千代子は言う。

 隣では皆無も着替えているが、今更である――皆無チャンの足が己のソレよりもなお細かったのは、大変に心外であったが。


「まァ犬畜生や言うても盟友の宝物やからな。――それに」


 ふっ……と、皆無少佐が冷たく微笑む。


「犬の誘拐犯が本当ホンマ毘比白ベヒヰモスの配下やとしたら、毘比白ベヒヰモスのに痛手を与えられる絶好の機会や。あわよくば、璃々栖リリスの腕を取り返せるかも知れへん――あっ」


 言ってから、『しまった!』という顔をする皆無。


嗚呼ああ……」


 やはり、姫の腕は毘比白ベヒヰモスのに奪われていたのだ。

 姫の魔術発生装置たる悪魔印章シジル・オブ・デビルは。


 装備を整え、MEP屋敷の中庭に出てみれば、そこには一名の佐官と数十名の尉官が集められていた。


 一個大隊――つまり、三個中隊。

 一名の単騎佐官および十余名の尉官からなる典型的な中隊が三個分。


 第十三連隊長の鈴木中佐が、この短時間で掻き集めてれたのである。

 何とも豪勢な犬捜索部隊であった。


 皆無が半悪魔化デビラヰズし、例の神戸一円【万物解析アナラヰズ】をやる。

 そのあとは、犬という犬の居場所を各員に伝えていき、一件一件潰していくのである。


「ここ、この建屋の地下と思しき場所に犬が大量にいます」


「ふむ……地下、か」


 地図を指す皆無の前で、鈴木中佐が腕を組む。


「単なる愛玩動物屋や育種家ブリーダーなら良いのですが……」


「だが、わざわざ地下で育てるか?」


「ですよねぇ」


「本命の可能性アリ、だな。とっておきの力天使弾ヴァーチュース・バレットを持って行くとしよう」


「えっ、中佐殿が直接向かわれるのですか!?」


 皆無が慌てると、鈴木中佐がニヤリと微笑み、


「何だ、皆無少佐。貴官も俺のことを『管理中佐』などと陰で言っているクチか?」


「い、いえ、滅相もございません」


「隊長格が足りておらんのだ。俺が指揮するしかあるまい」


 確かに、この場には緊急呼集された佐官は、単騎少佐一名と、皆無少佐と、鈴木中佐しかいない。


「――ご武運を」


 屋外敬礼で中佐と中佐の中隊を見送る皆無。


 実力至上主義――ヱ―テル総量と武功が全ての第七旅団だが、だからといって脳ミソまでヱ―テルと筋肉で出来ている単騎野戦将校ばかりが佐官になっていたのでは組織が崩壊する。

 名を馳せた単騎将校というのは悪魔悪霊相手に無類の強さを発揮する半面、生活能力や管理能力が著しく破綻している者が多いのだ。


 そこで、ヱ―テル総量や武功がそれほど高くなくても、組織運営に長けた者が連隊長や大隊長の座に就く例がままある。

 彼らは階級の前に『単騎』という称号を持たない。


「皆無少佐、俺は何処どこから回ればいい?」


 緊急呼集された単騎少佐が聞いてくる。


「先任少佐殿にはココとココとココをお任せしたいのですが、お願いできますか?」


「お安い御用だ」


 同じようなペット誘拐犯の潜伏先と思しき地点が幾つもあり、千代子はげんなりするのだった。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖同刻 / アストラル界・如月きさらぎ駅《



(――視線を感じる)


 璃々栖が国鉄三ノ宮駅の裏側、如月駅のホームを歩いていると、


「ギギィィィイイイイッ‼」


 受肉マテリアラヰズもままならず、物理アッシャー界に顕現けんげんすることのできない低級悪霊デーモンが、蝙蝠コウモリの姿をとって璃々栖に襲い掛かってきた。


「――――シッ!」


 璃々栖はふわりと飛び上がり、鋭い飛び蹴りを悪霊デーモンに見舞う。

 編上げブーツの、ヒヒイロカネが混ぜ込まれた鉄板が仕込まれた爪先が白く輝き、ヱ―テルをまとった一撃が、悪霊デーモンの体を四散せしめる。


「フン――シジルを持たぬからといって、戦えぬわけではないのじゃぞ?」


 それにしても、空気がざわついている。


毘比白ベヒヰモスの配下が潜んでおるというのは、本当のようじゃな。必ずや見つけ出して、殺してやるぞ)


 おのが父を、母を、兄弟を、家臣を殺し、己が腕までもを奪った、恨んでも恨んでも恨み切れない敵――毘比白ベヒヰモス


(殺す。殺してやる。毘比白ベヒヰモスを殺し、は必ずや己が腕を取り戻し、国を取り戻し、領土と民を取り戻す。必ず。必ず!)





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖小一時間後 / 神戸 南京町《



 ばーんっと戸を蹴破って、犬誘拐犯の隠れ家と思しき家に押し入る『B中隊カンパニー・ブラボー』。

 中の犬たちが大層弱っている様子なのは皆無が魔術で探査済なので、誘拐犯でなかったとしても悪徳あくとく育種家ブリーダー――どの道、悪党には違いない。


「なんだァてめェら!?」


「ナメた真似してっとスっぞコラ!?」


 奥から如何にもその筋の男たちがどやどやと出てくるが、


「おらっ、大人しくお縄につけ!」


 ただでさえ鍛え上げられ、さらにヱ―テルでもって肉体を強化している隊員たちにはとても敵わない。

 誘拐犯たちは次々と捕まっていく。


 千代子は入り口を塞ぐようにして立っていたが、


くそっ、どきやがれ!」


 誘拐犯の一人がするりと抜け出して、千代子を押しのけ逃げようとするも、


「はいはい大人しくしてくださいね~」


 千代子はヱ―テルで強化した腕で男の腕を捻り上げる。

 が、


「てめぇ!」


 その男が、懐から拳銃を抜いた!

 銃口が千代子の顔に差し向けられ、


「――え?」





 タァーンッ!!





 千代子の頭部が撃ち抜かれ――…ることはなく、弾丸は、ぬっと突き出された皆無の手の平によって受け止められた。


「――【睡眠スリープ】」


 ヱーテルの載った皆無のデコピンによって、誘拐犯は気絶する。


「油断し過ぎや、阿呆アホ


 弾頭を親指と人差し指でぐしゃりと潰しながら、皆無が言う。


「あ、あ、あ、ありがどうございばずぅぅぅうううッ!!」


 四度も命を救われ、いよいよ皆無少佐に傾倒していく千代子であった。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖同刻 / 霊界アストラル 異人館街❖



 アッシャーの方では、悪魔祓師ヱクソシストどもが犬探しに興じている。


滑稽こっけいなことだ」


 主より賜りし悪魔印章シジル・オブ・デビルの魔術でその様子を覗き見ながら、その大悪魔グランドデビルは冷たくわらった。


「なァ、ケルベロスの使い魔よ?」


 大悪魔グランドデビルの眼前には、手足を拘束されたケルベロスの使い魔が転がっている。


「お前の生き血は、大切に使わせてもらうぞ? 我が主・百獣公爵馬羅鳩栖バルバトス様の顕現のためになァ!」


 大悪魔グランドデビルが右腕を撫ぜる。


馬羅鳩栖バルバトス様のお力を以てすれば、璃々栖リリス阿栖魔台アスモデウスの眷属・アノクタラカイナを滅ぼすことなど容易いだろう。くして我が主は大魔王・毘比白ベヒヰモス陛下の覚えもめでたくなり、私の栄達も確固たるものになる。……おや?」


 悪魔印章シジル・オブ・デビルの力で以て神戸一円に展開させている『眼』の一つから、警報。

 その『眼』を借りて見てみれば、


「おやおやおや! 麗しの姫君ではないか! シジルもないのにノコノコとやってきて、勇ましいやら愚かしいやら」


 自分は今、この場から動けない。

 主たる馬羅鳩栖バルバトス召喚の準備で動けない。

 だから、手下を差し向けることにした。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖夜 / 南京町❖



「突入ッ!!」


 本日何件目かの、犬誘拐犯の隠れ家への突入。


「くぁ~……犬の誘拐、流行り過ぎやろ本当ホンマ


 皆無が突入部隊の後方で欠伸あくびをしている。


 特設皆無少佐大隊におけるお犬様捜索部隊は、


A中隊カンパニー・アルファ

B中隊カンパニー・ブラボー

C中隊カンパニー・チャーリー


 の三中隊に分けられて神戸中を運動しており、千代子は皆無とともにB中隊カンパニー・ブラボーに属している。

 最も危険度の高いところに殴り込みに行く部隊だ。


(おねむな皆無くんも素敵……)


 先ほど命を救われたこともあり、千代子はいよいよしまっていた。

 可愛い皆無、恰好かっこう良い皆無、だらけた皆無、全てが愛おしい。


(言う。今夜中に絶対に言う! 私が皆無くんの許嫁だって。皆無くんと一緒になりたいって!!)


 ヱ―テルをまとわせた腕でゴロツキどもを取り押さえながら、千代子は皆無との幸せな結婚生活を夢想する。


「いだだだだだッ、折れる! 折れる!」


 ゴロツキの叫び。


「チョコ子少尉!」


 その皆無くんが、自分に話し掛けてれる。

 必死な表情がまた、何とも言えず可愛い。


壱文字いちもんじ少尉!!」


「はい、何ですか皆無くん!?」


「力を加減したれ。そいつ、気ぃ失っとる」


「――あ」


 己が組み伏せているゴロツキが、泡を喰って気絶していた。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖同刻 / アストラル界 神戸 北野坂❖



「【隠者は森の中ハーミット・イン・ザ・フォグ】」


 認識阻害の霧の中に逃れながら、璃々栖リリスは呼吸を整える。

 巨大なヱ―テル反応を辿って北へ北へと坂道を走っていたところ、急に悪鬼オーガの群れと遭遇したのだ。

 今も、何十匹もの悪鬼オーガたちが、三メートルはあろうかという巨体を大きく揺らしながら、棍棒を振り回して暴れている。


 群れは統率が取れており、明らかにこちらに向かって一直線にやってきた。

 それは誰かに使役されているということであり、


(やはり、視線を感じる)


 その使役者が、こちらの居場所を知っているということだ。

 広い神戸の中で、こちらの位置を正確に把握せしめることができるほどの探査魔術の使い手。


 く言う璃々栖リリスも広域索敵魔術【万物解析アナラヰズ】が使える。

 が、【万物解析アナラヰズ】は初級・中級・上級魔術のさらに上、魔界において一国に使い手が百人といない『地獄級』魔術である。


 これはいいよいよ、毘比白ベヒヰモスの配下が黒幕である可能性が高い。


(じゃが、そうなると皆無を連れてこなければ話にならぬ)


 今、神戸のアストラル界には多数のヱ―テル反応がある。

 すぐ目の前にも、悪鬼オーガたちが発する反応が数十個。

 他にも有象無象の反応が無数に。

 だが、中でも目を引く大きな反応は、二つ。


 一つは神戸北野の異人館通り――昨日、物理アッシャー界側で皆無が暴れまわった屋敷があった辺り。

 最も大きなこの反応を、璃々栖リリス毘比白ベヒヰモスの配下と、それに囚われているケルベロスの使い魔だと仮定している。


 もう一つは毘比白ベヒヰモスには数段劣るものの、異常に移動速度が速い反応。

 ここからずっと南の方で運動している反応は恐らく、

 

(地獄を離れては力を発揮できぬ――か。アレはきっと、ケルベロスじゃな。じゃが何というか、完全に明後日あさっての方角を探しておるのぅ)


 ケルベロスは、自分のようには【万物解析アナラヰズ】が使えないらしい。


 悪鬼オーガの群れがこちらを探して右往左往している中、璃々栖リリスはぐんぐんと北上していく。

 表の世界なら威風堂々たる屋敷が立ち並ぶ異人館通りだが、裏世界の方ではどの屋敷も荒れ果てており、時折、中から亡者のうめき声を発する家がある。


 アストラル界とは、言わば鏡の中の世界。

 亡者の声がする家の主は夜な夜な金縛りにでも悩まされているのかも知れない。

 それはそれで可哀想だし、解決できるのであればしてやりたいが、生憎と今は余裕がない。


 ――などと余事に気を取られていたのが失敗だった。


「ウガァァアアアァアアアアアッ!!」


 十字路に差しかかった瞬間、一体の悪鬼オーガと鉢合わせしてしまった。


「くっ、【隠者はハーミット――」


 距離を取りながら魔術を発現させようとするも、間に合わなかった。

 悪鬼オーガの怪力でもって振るわれた棍棒が、璃々栖リリスの胴を打つ!


「ぎゃッ!!」


 璃々栖リリスの体が蹴鞠のように跳ね飛ばされる。


「ぐ……ぅっ……」


 璃々栖リリスは地面に転がり、苦悶の声を上げる。


「――【治癒ヒール】」


 大した効果のある魔術ではないが、立てる程度には痛みが引いた。

 よろよろと立ち上がったところに、悪鬼オーガが大きく振りかぶった棍棒を振り下ろしてくる!


めるなよッ!?」


 璃々栖リリスは半身になってするりと避け、ふわりと飛び上がって悪鬼オーガの顎を蹴り上げる。

 ヱ―テルを纏った鋭い一撃が悪鬼オーガの脳を激しく揺らし、果たして悪鬼オーガは仰向けに倒れ、そのまま動かなくなった。


「はァッ、はァッ……斯様かような雑魚一匹を相手に息を上げるとは、我ながら情けない」


 腕のないこの身が恨めしい。

 痛む体を引きずるようにして、璃々栖リリスは歩き始める。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖十数分後 / アストラル界 神戸 北野異人館街❖



(……あそこじゃな)


 昨晩、馬羅鳩栖バルバトス悪魔遺物マスケットを見失った屋敷の、アストラル面。

 屋根の上で風見鶏が狂ったように踊り狂った屋敷を見上げ、璃々栖リリスは確信した。

 屋敷の敷地内だけ、瘴気しょうき――澱んだヱ―テルの量が桁違いなのだ。


(まずは使い魔の安否を確かめる。次にケルベロスと合流し、あやつの悪魔大印章グランドシジル・オブ・デビルの力で以て皆無かいなをここに召喚する)


 認識阻害の魔術を重ねがけし、正門からではなく壁を飛び越えて敷地に入る。


 それだけの用心をしたのだ。

 だと言うのに――





「これはこれは、阿栖魔台アスモデウスの姫君」





 背後から、声!


 璃々栖リリスは素早く振り向く!

 が、


「――!?」


 誰もいない。


 ――ガキンッ!!


 そのとき、背後から音が聞こえた。


火打石フリントッ!?)


 璃々栖リリスは鋭く振り向き、

 果たして目の前に現れたのは、

 銃口。


「――――シィッ!!」


 璃々栖リリスが銃口を蹴り上げると同時、


 ――タァーンッ!!


 銃口が――姿をくらましていた悪魔遺物アーティスト馬羅鳩栖バルバトスのマスケット銃が夜空へと弾を発射した。


 果たして、

 果たしてそのマスケット銃を構えていたのは――








































「――田中大尉!?」





 千代子の上官であるはずの、田中大尉その人であった。

 田中大尉の姿をしたナニカが、昨晩大事そうに握りしめていた筒状の背嚢はいのう――中身が空になったソレを投げ捨てる。

 筒を投げたその右腕は大きくまくり上げられており、何やら悪魔的な、巨大な喇叭ラッパに数多の動物が絡みついているかのような意匠と、それを囲む円が刻み込まれている。


「それは、悪魔印章シジル・オブ・デビル――ッ!!」


 悪魔デビル悪魔デビルの戦いが――

 圧倒的強さを誇る魔術発射装置印章シジルを持つ大悪魔グランドデビルと、ヱ―テル総量だけが取り柄の、攻撃魔術を放つすべを持たない腕なし悪魔デビル

 絶望的な戦いが、始まる。

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