参「望まぬ婚約、のはずが……」

❖夢の中❖



 長いこと、千代子は己が生きている意味が分からずにいた。


 壱文字いちもんじ

 弐又ふたまた

 参ツ目みつめ

 肆季しきじん

 伍里ごり

 陸玖陸むくろ

 漆宝しっぽう

 捌岐やつくび

 阿ノ玖多羅あのくたら

 拾月じゅうげつ

 護国ごこく拾家じっけの一番目。


 壱文字いちもんじ家。

 弘法大師こうぼうだいし空海くうかいの流れをむ密教系退魔師の大家。

 千代子ちよこは、その家の長子として生まれた。


 蝶よ花よと育てられた幼少期。

 千代子は当主たる父をも凌ぐ巨大なヱ―テル総量を持ち、術式の覚えも良く、次代の当主としての期待を一身に受けていた。

 ただ一人、父だけは千代子のことを嘆いていた。


『どうしてお前は、女なんぞに生まれてきてしまったのだ』


 と。

 密教家の当主でありながら、古式ゆかしき儒教的価値観――家父長制、男尊女卑の世界観に生きる父にとり、千代子は『女である』というただそれだけの理由で、絶対的劣等生であると結論づけられていた。

 女性当主などは、父の世界観の外にある虚妄きょもうに過ぎなかった。


 勉強ができる?

 だからどうした。女が学問などやるべきではない。


 運動ができる?

 女のくせに、走り回るなどはしたない。


 母や家の者たちは、千代子の味方でいてれた。

 それはそうだろう。

 父に長年虐げられてきた母にとっては、千代子こそが希望の花であった。

 家の者たちからすれば、千代子は次期当主である。

 そんな千代子の機嫌を損なうのは下策も下策。


 父への隔意はあったにせよ、それでも世界は千代子を中心に回っていた。

 状況が一変したのは、三年前――。

 母が、男児を生んでからだ。

 父は狂喜乱舞した。

 そんな父を見て、母も喜んだ。

 家の者たちもみな、もろ手を挙げて喜んだ。


 ただ一人、千代子だけは喜べなかった。

 玉のような弟のことは、可愛い。

 可愛いが、どうしても隔意を感じる。


 毎晩々々父への怨嗟を千代子に吹き込み、『貴女が次代の当主になるのよ』『この家を変えるのよ』と言い続けていた母の、あの晴れやかな笑顔は一体何だ?

 千代子に馬乗り袴――男装――を着せ、千代子のことを『若』と呼び、千代子のどんなワガママにも付き合って呉れていた家の者たちの、手の平を返したような冷たい態度は何なのだ?

 結局自分は、男児がいなかったこの家の、『予備』でしかなかったということか。


 そのころからだ。

 自分が何のために生きているのか、分からなくなったのは。





   ❖   ❖   ❖   ❖





阿ノ玖多羅あのくたら皆無かいな?」


「お前の夫だ」


 阿ノ玖多羅といえば、護国拾家の中で最も力のある家。

 当主はあの、日本の守り神・阿ノ玖多羅正覚しょうがくである。

 よわい百数十歳を超え、今なお若々しい見た目をしていて、『不老不死』とウワサされている日本最強の術師。

 一説には、『悟り』を得、『即身成仏』の秘儀を経て老いず腐らぬ体――ヱ―テル体を得ているとも言われている。

 そんな現人神の如き存在の息子との婚姻だというのだから、退魔家の女ならばもろ手を挙げて喜ぶべき良縁だった。


「私は、戦えます!」


「儂がこの縁を持ってくるのにどれほど苦労したか、分からないのか? 儂の親心が、分からないのか?」


 確かに結婚相手としては、考え得る限り最良の相手。

 が、写真の中の許嫁は、千代子にとっては疫病神にしか思えなかった。


「壱文字家の名に恥じない一流の退魔師になってご覧に入れます! だから」


「――女にいくさは無理だ」


 また、これだ。


「そんなことはありません! 十二天の術式も全て使えるようになりました! 父上――」


 思わずかっとなって、我ながらとんでもなく失礼な提案をしてしまった。


「私と力比べをしてはいただけませんか!? 私が勝てば――」


「貴様、父を愚弄するか!?」





 父の、憎悪に満ちた目。





 ……あぁ、そうなのか。

 この父は、ずっとずぅっと私のことを、憎悪の対象として見ていたのか。


「阿ノ玖多羅家の嫡男と結婚しろ、千代子。それが、お前が当家のためにできる唯一の仕事だ」


 千代子の男嫌いに拍車がかかった。





   ❖   ❖   ❖   ❖





 自分は戦える。

 男の影に入らなくとも、一人の人間、一個の人格として生きることができるのだ、と。

 そのことを証明したくて、勘当同然で家を飛び出し、士官学校退魔兵科に入学した。

 そうして飛び級に飛び級を重ね、圧倒的首席で卒業したのが一ヵ月前のこと。

 だが――





悪魔祓師ヱクソシストの癖に、神に祈らないのか?』





 気が付けば、千代子は半屍鬼グールに四肢を拘束され、マスケットの銃口を心臓に押し当てられている。

 所詮は虚妄だったのだ。

 女の身でも戦えるというのは、父の言う通り虚妄にすぎなかったのだ――。


 悪魔デビルが引き金を引いた。

 千代子の心臓が、血と肉の花を咲かせた。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖数十分後 / 神戸北野異人館街 異人商人の屋敷 庭の片隅❖



「うわぁぁあああああああッ!?」


 マスケット銃で心臓を撃ち抜かれる夢を見て、千代子は目覚めた。


阿呆アホ、耳元で叫びなや」


 すぐ隣から、許嫁――皆無かいなの声。


(わ、わ、わ、おんぶされてる!?)


「目ぇ覚ましたんやったら、自分の足で立ちぃ」


「ご、ごめんなさい、皆無くん!」


 慌てて降りる千代子。


「じゃなかった! どうして私を撃ったんですか、皆無くん!?」


「お前のアストラル体が悪魔デビルに汚染されとったからや。けど、空砲使ったし結界も張ったから、顔に傷なんてつけてへん。安心しぃ」


 言って虚空から手鏡を取り出してれる皆無。


「それってつまり――皆無くんって、私の命の恩人?」


「まぁ、三度ほどな」


「~~~~ッ!! ありがとう、皆無くんッ!!」


 思わず皆無を抱き締めようとした千代子だが、皆無にひょいっとよけられた。


「お前なぁ」


 皆無がため息をついて、


「さっきから皆無くん皆無くんって、何様なん? これでも僕、単騎少佐なんやけど」


「え? それは私が――」


「あはァッ! さてはそなた」


 隣から、びっくりするほどつややかで、それでいて何ともいえず可愛らしい声が聴こえてきた。

 金髪異人顔の甲種悪魔デビル――璃々栖リリス姫である。


「皆無のファンじゃな? まぁこやつ、この通りちんちくりんじゃが顔だけは抜群に良いからのぅ。――じゃが」


 璃々栖リリスが皆無の背中に自身の胸を押し付ける。

 皆無よりも頭半個分ほど背が高い璃々栖リリスがそうすると、皆無の後頭部にその巨大な乳房を押し付ける形となる。


「こやつはもう、のモノじゃ。誰にも渡さぬ」


 璃々栖リリスがぎゅっと体を密着させる。

 まるで皆無のことを抱き締めてでもいるようだ――腕もないのに。


「~~~~ッ」


 そして、まんざらでもない様子で顔を真っ赤にさせている皆無である。


 二人のそんなやり取りを見せつけられて、千代子は『我こそは皆無くんの許嫁なるぞ』と名乗り出る機をいっしてしまった。


「あ、あの……お二人はお付き合いをなさっておいでで?」


 千代子は璃々栖リリスが、怖い。

 何しろ大魔王・阿栖魔台アスモデウスの娘なのである。

 下手なことを言えば、取って喰われるかもしれない。


「んお? 付き合う――とは違うのぅ。こやつが、予に付き従っておるのじゃ」


 途端、しゅんとなる皆無。


(あぁぁ……)


 今のやり取りを見ただけで、皆無の気持ちが分かってしまった千代子である。

 それでも一縷いちるの望みを懸けて、千代子は皆無に尋ねる。


皆無かいなく――少佐殿には、許嫁などはおられないのですか?」


「許嫁? さぁ……その手の話はパパ――げふんげふん、ダディ――でもなかった、父に任せっきりやから、よぅ知らん」


(何てこと……)


 つまり皆無にとって、自分は――この壱文字いちもんじ千代子ちよこは、赤の他人というわけである。


(だけど……)


 千代子は、諦めきれない。

 目の前にいる皆無少年は、はっきり言って自分の好みのど真ん中なのである。

 顔だけではない。

 大人っぽく見せていながらも時々子供っぽさが出てしまう立ち居振る舞いや、女慣れしていないところも好きだ。


(それになにより――)


 乙種悪魔デビルをして鎧袖一触がいしゅういっしょくにしてみせた、圧倒的武力。


 千代子は、腕っぷしが強い。

 それは軍人、退魔師としては美徳なのだが、男にモテはやされるかと言われれば、違う。

 自分よりも腕力に優れた女をめとりたがる男というのは、残念ながら明治日本にはほとんどいないだろう。


 だがその点、皆無は心配ない。

 拳ひとつで悪魔デビルの体を破砕させるほどの膂力りょりょくを持った皆無にとり、千代子の腕っぷしなど誤差のようなものだろう。


璃々栖リリス姫は皆無くんのことを『眷属けんぞく』だとか呼んでいたけれど)


 見れば今の皆無には、悪魔めいたツノと翼が付いていない。

 つまりあの悪魔の如き力は璃々栖リリスからヱ―テルを受け取ったときにのみ一時的に発揮できるものであり、皆無自身が悪魔デビルになってしまったわけではない、ということだ。


(皆無くんは人間。人間にして悪魔祓師ヱクソシスト。そうよ――皆無くんには悪いけど、悪魔デビル悪魔祓師ヱクソシストの恋なんて成立するはずないんだもの)


 千代子は決意を新たにする。


(皆無くんを、振り向かせて見せる! ――この悪魔デビルから、皆無くんを取り戻すのよ!)


「うーむむむ」


 そのとき、悪魔デビルの姫君・璃々栖リリスが唸った。


「どうにも違和感がある」


「どしたん?」


 首を傾げる皆無。

 千代子は皆無の年相応な仕草が可愛らしくてたまらない。


彼奴きゃつ――馬羅鳩栖バルバトスの眷属を祓い切ったはずなのに、未だ違和感があるのじゃ」


「まだ、残滓があるってことか?」


「何より、触媒たるマスケット銃が見つからなかったのが気に喰わぬ」


「僕の魔術で灰も残らず燃え尽きたんとちゃうん?」


所羅門七十二柱ソロモンズデビル悪魔遺物アーティファクトじゃぞ? そなたのようなヒヨっ子悪魔デビルのすかしっ屁なんぞで滅ぶものか」


「すかしっ屁て。口の悪いお姫様やで本当ホンマ





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖十数分後 / 神戸外国人居留地南端 海岸通り❖



 海岸通りは、負傷した悪魔祓師ヱクソシストたちで溢れかえっていた。

 そう、戦場は何も、千代子たちがいた屋敷だけではないのだ。

 永らく神戸港を守っていた【神戸港結界】の崩壊により、今や夜の神戸は何処どこもかしこも上や下やの大騒ぎなのである。


 幸い、民間人の負傷者はいないようだった。

 第七旅団が各屋に配布している十字独鈷杵とっこしょ――【物理防護結界アンチマテリアルバリア】が仕事をしたのだろう。


(あれ? でも犬がいる)


 璃々栖リリス皆無かいなの後ろについてきた千代子は、首を傾げる。

 飼い犬が鎖を切られて逃げ出したのか、足をやられた犬がきゅんきゅん云いながらせっている。


 甲種悪魔デビルたる璃々栖リリスが海岸通りに入ると、


「姫君が来たぞ!」

「待ってました!」

「今日もお美しい!」


 第七旅団の悪魔祓師ヱクソシストたちが、嬉しそうに囃し立てる。

 どうやら悪魔デビルの姫君は、第七旅団に溶け込んでいるらしい。


 そして再び、千代子は首を傾げる。

 この場に数十人規模の怪我人がいて、誰も救急用品を持っていないのだ。

 無傷の将兵らは楽しそうに傍観している。


「わ、私、救急用品を取ってきます!」


 確か近くに第七旅団の詰め所があったはずだ、と駆け出そうとすると、


「要らぬよ、そんな物」


 と、璃々栖リリスが余裕の笑みを浮かべながら言った。


「そら、皆無」


「衆目の前でとか恥ずかしいんやけど……」


 皆無が顔をしかめる。


「なぁにを小娘みたいなことを言っとるか! さっさと顎を上げよ」


「ううぅ……」


 うめきつつも素直に顎を上げる皆無。

 そこから先は、先ほどと同じだった。

 璃々栖リリスが、まるでいたぶるかのように皆無の口にかぶりつき、ヱ―テルを流し込む。

 そして皆無が、それを嚥下する。


「っぷはぁ! もう止めろ! 逆流してまう!」


 暴力的な量のヱ―テルを流し込まれ、皆無が悲鳴を上げる。


「軟弱じゃのぅ」


 また、姫君が揶揄からかうようにわらう。


五月蠅うっさいねん。皆さん、行きます――【釈迦しゃか牟尼むに如来にょらい脇侍わきじ星宿光せいしゅくこう長者の薬壷・オン・ビセイシャラ・ジャヤ・ソワカ――治癒】」


 天にかざした皆無の手から温かな光が溢れ出て、負傷者たちを包み込んでゆく。


「おおっ!」

「こんなに効くなんて――」

「さすがは姫君のヱーテル!」


 隊員たちの言葉は、世辞でも何でもなかった。

 たった一度の術式行使で数十人をいっぺんに癒してしまうなど、前代未聞だ。

 少なくとも千代子が士官学校で学んだ常識では、そうだった。

 だが、軽傷ならかく、重傷者はそうもいかないようで、治り切らなかった者に対しては、皆無が対象者に触れて一人一人癒していく。

 そのうちにヱ―テルが足りなくなって、


「うぅ……」


 皆無が、ふらふらと倒れそうになる。

 ヱ―テル切れ……あれは辛いのだ。非道ひどい眠気が襲ってくるし、急激なヱ―テル消耗は頭痛を起こす。

 ヱ―テルが枯渇すれば気絶する。


「情けのない奴じゃ。ヱ―テルをれてやるから、顎を上げよ」


 そんな皆無の顔をその悪魔的な乳房で器用に受け止めながら、璃々栖リリスが言う。


(わざわざ乳房で受け止めてる……)


 己がもし男であったなら、あれだけでもう篭絡されてしまうかもしれない。

 年端も行かぬ子供をあんなにも暴力的な色気によくせしめるとは、実に悪魔的な所業だと千代子は思う。


 そしてまた、口付け。


「ひゅ~ひゅ~」

「お熱いですなぁ!」

「羨ましいぜ」


 若い連中が囃し立てるが、


「うっぷ……」


 皆無がギロリと睨んで、


「羨ましい言うた奴、代わって呉れるんか?」


 一斉にそっぽを向く男たち。

 一部などは空々しく口笛を吹いている。


(……? あれだけ美しい姫君に愛されるのなら、ヱ―テル酔いくらいは我慢できそうなものだけれど?)


 千代子は疑問に思うが、何しろ自分は新兵であり新参者である。

 何か事情があるのかも知れない。


 引き続き、皆無が癒して回る。

 そんな彼の後ろをついて回って、千代子は空恐ろしくなってくる。

 真言密教術式による怪我の治癒など、並みの術師なら一日に一人か二人癒しただけで息切れする。

 天才肌の己であっても、五、六人が限度だろう。


(それを――…この甲種悪魔デビルのヱ―テル総量って、一体全体どのくらいあるんだろう)


 そして最後は、


「きゅぅ~ん」


 広場の隅で丸まっている英吉利犬ポメラニアンの前に立つ。


「えぇぇッ!? 犬まで治すんですか!?」


 千代子は仰天する。


「可哀想ではないか」


「そりゃ可哀想ですが」


 国中の怪我人や病人が大枚をはたいてでも受けたい術式治療が、犬相手に施されているという世にも珍妙な風景を前に、引きつり笑いを禁じ得ない千代子である。


(あっ、犬と言えば……)


 神戸に住む知人が手紙の中で、愛玩動物ペット誘拐事件が増えてて気味が悪い、と言っていた。

 洋犬はカネになるのだそうだ。


 足が治り、元気に走り去っていく英吉利犬ポメラニアンの姿を少し不安な気持ちで眺めていると、千代子の上官たる大尉が駆け寄ってきた。

 何やら背中に細長い筒状の背嚢はいのうを背負っている。


壱文字いちもんじ少尉! お前、またはぐれおってからに!」


「あッ! 大尉殿ッ!」


 千代子は直立し、屋外敬礼をする。

 大尉が短く答礼し、


「まぁ、無事で良かった。貴官、精神汚染の方はちゃんとはらえているんだろうな?」


「は、はい! 皆無く――じゃなかった、阿ノ玖多羅あのくたら少佐殿に祓っていただきました!」


「――皆無かいな


 急に、皆無が口を挟んできた。


「え?」


「苗字は好かん。名前でいい」


「あ、えと」


 千代子は皆無と大尉の間で視線をさ迷わせる。

 上官たる大尉を無視するわけにはいかない。

 が、相手は大尉の上の少佐である。

 大尉が小さくうなずいたので、目礼を返してから皆無に向き合う。


「ええとじゃあ、皆無くん?」


「やから、くん付けはまずいやろ、少尉」


「ですよね。じゃあ、皆無少佐殿?」


「ぅんむ」


 皆無が餓鬼ガキ大将みたいに鷹揚おうようにうなずいたので、すっかり可愛くなってしまった千代子である。


(なるほど)


 きっと、『名門・阿ノ玖多羅家のご嫡子様』と呼ばれるのがいやなのだろう。

 相手が自分を一人格として見てれていないような、疎外感を感じてしまうのだ。

 千代子も名門・壱文字いちもんじ家の出なので、その辺りの気持ちの機微はよく分かる。


(なんだかんだ言っても、まだ十三歳なんだものね)


「そこな将官よ」


 と、ここで悪魔デビルの姫君・璃々栖リリスが声を発した。

 皆無が璃々栖リリスの三歩後ろに下がる。

 少佐位に就く皆無が、会話の主役の座を璃々栖リリス姫に捧げたのだ。


「そなた、この娘の上官かの?」


 途端、大尉がその場にひざまずいた。


「ははっ! 申し遅れました。わたくし、第零師団・第七旅団・第十三連隊・第八速成大隊・第五中隊・第十三小隊隊長、田中大尉であります。殿下と殿下のしもべ・皆無少佐殿には何度も命を救っていただいており、感謝の念にえません」


 大尉は、千代子が所属する第十三小隊の隊長なのである。


 通常、陸軍では数名から十名が『分隊』を作り、その『分隊』が数個集まることで『小隊』を作る。

 が、第零師団・第七旅団の隊員は、港での検疫業務専門の下士官・兵卒ですら全員が希少な霊能力者であり、戦場に出る悪魔祓師ヱクソシストは最低位でも少尉。

 悪魔祓師ヱクソシストたちは個々人にして一個分体――一個の最低戦闘単位となるのである。


 これが皆無のような『単騎少佐』ともなれば、個人にして一騎当千、一人にして一個大隊の扱いとなる。

 銃弾の一発で異人館の庭を焼け野原にしてしまった皆無の戦力を鑑みれば、大隊扱いでもなお生ぬるいかもしれないが。


「田中大尉? 


「はぁ? ――こ、これは失礼を。『田中』というのは日本人ではありふれた名前なのです。恐らく他に大尉の田中がおるのでしょう」


「ふぅむ、そうなのかの?」


「はい。それより、我が小隊に新たに配属された壱文字いちもんじ少尉を紹介させていただいてもよろしいでしょうか?」


「うむ」


 姫君がこちら――千代子の方を向いた。

 真っ赤な瞳、意志力の塊のようなその双眸そうぼうに射抜かれて、千代子は戸惑う。


壱文字いちもんじ、であったな? そなた、ファーストネームは何と言う」


「ち、千代子であります!」


「チョコ? 何とも甘ったるい名前じゃのぅ。どれ」


 璃々栖リリスが近づいてきたかと思うと、


「ヱ? ヱ? ちょっと――」


 唇を舐められた!


「~~~~~~~~~~~~~~~~ッ!?!?」


 呼吸もできないでいる千代子と、


璃々栖リリスぅ……誰彼構わずちょっかい掛けるんはやめぇや」


 ため息をつく皆無。


「なんじゃァ、嫉妬か? い奴め」


「ちゃ、ちゃうわ呆けぇ!」


「誰彼構わずではないぞ?」


「え、そうなん?」


「可愛い奴に限っておる」


 千代子と一緒に、皆無も顔を真っ赤にする。

 そんな彼を横目で見て、


(本当だ、可愛い)


 と千代子は心の中で激しく頷く。


「それにしても、女の将官を見ると田中大尉を思い出すのぅ。アレは女三人組の小隊で、なかなかに華やかじゃった。……このところ、は女手に飢えておってのぅ」


 璃々栖リリスがこちらに顔を近づけてくる。

 またぞろ口を舐められやしないかと千代子は怯える。


「皆無に肌を洗わせるのにも飽きてきたところだったのじゃ。田中よ、こやつのことをしばらく借りてもよいかの?」


「は?」


 戸惑う大尉。


「駄目かの?」


 眉をハの字型にして見せる璃々栖リリス


「は、いえ」


 大尉が背負う筒をぎゅっと握りしめてから、


「我が小隊では立て続けに二人、欠員が出たばかりでして。壱文字少尉が抜けると、私一人になってしまうものですから」


「――――欠員?」


 璃々栖リリスの声とともに、周囲の温度が下がる。


「それは、損害死者が出たということかの?」


「い、いえ、違います! 殿下と皆無少佐殿が戦場に出るようになられて以降、我が隊でも死者は出ておりません」


「なるほど。怪我か病気か。何なら予の魔術で癒してやるが」


「言うて実際に魔術使うんは僕なんやけど」


「口を挟むな、小童こわっぱが」


 茶々を入れた皆無が、璃々栖リリスにぴしゃりと叱られる。

 まるで姉弟だ、と千代子は思う。

 だが、のん気に笑える気分にはなれない。

 何故なら――


「――行方不明なのです」


 大尉の、重々しい声。


「いずれも入隊してからひと月ばかりのヒヨっ子で。任務中に」


 そう。

 そういう事情もあって、急遽横浜から招集されたのが千代子なのである。


「……行方不明」


 璃々栖リリスが沈鬱な顔になる。


璃々栖リリス、お前の所為せいやない」


 皆無がすぐさま言った。


「じゃが、が遠因であることには違いあるまい」


「こういう仕事や。そういうこともある。それに、大尉の言うように璃々栖リリスが来た後の方が損害は減っとる」


「じゃが……」


 千代子は、璃々栖リリスと目が合う。

 この悪魔デビルの少女は、何とも気遣わし気な目でこちらを見てくる。

 およそ悪魔デビルとは言い難いほどの、優しさに満ちた目だ。

 千代子は悪魔デビルの定義が分からなくなってくる。


「決めたぞ、田中大尉よ。はこの娘を所望する」


「や、ですからそれは……」


「行方不明になったのはいずれもヒヨっ子なのだろう? こやつもヒヨっ子じゃ。つい先ほども、悪魔デビルに殺されそうになっておった」


「「うっ……」」


 と、これには千代子と田中大尉が同時にうめく。


「重ねて言うが、は今現在、女手に飢えておる。加えて予は、可愛い可愛い我が子たる皆無に魔術の手ほどきをしてやっておる。――子供がもう一人くらい増えたくらいでは、誤差のようなものじゃ」


「な、な、な……」


 年端もいかぬような小娘に『子供』扱いされ、怒りに朱が差す千代子と、


「せやから、餓鬼ガキ扱いすんなけぇ!」


 いきどおる皆無。


「あはァッ! 餓鬼ガキ扱いされて怒っておるうちは、まだまだ餓鬼ガキじゃ。ほぉれ皆無や、可愛い可愛いの乳飲み子や。ちちはいるかの? んんん?」


 挑発的な笑みを浮かべた璃々栖リリスにずずいと詰め寄られ、前かがみになって縮こまる皆無。

 そんな光景を見せつけられ、他の様々な感情に押し流されて怒りが何処かへ行ってしまった千代子である。


「と、茶番を演じておる場合ではなかったのぅ。田中大尉や、このヒヨっ子をしばらく予の側付きにする。その代わりに、こやつを一人前にして返してやろう。悪い話ではあるまい?」


「うう……~~~~~~~~ッ!!」


 頭を抱え、背負う筒をぎゅっと握りしめた大尉がやがて、


「…………殿下の御望みとあらば、喜んで」


 こうべを垂れた。


「……え? えええええッ⁉」


 千代子は戸惑う。

 己のあずかり知らぬところで、己の所属が変わってしまったらしい。

 よりにもよって、恋の好敵手ライバルのお側付きという形に。


「というわけでチョコ子、最初の命令じゃァ」


 ニヤニヤと微笑む甲種悪魔デビル


「寮に行って風呂を沸かしてきておれ」





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖数十分後 / 神戸外国人居留地 MEP屋敷❖



 神戸外国人居留地は、東を生田川埋め立て地、西を鯉川筋こと亜米利加メリケン街道ロード、北を西国さいごく街道、南を海に囲まれた、八万坪程度の街である。

 理路整然とした碁盤目状の道で仕切られたこの街は、日本で一、二を争う貿易拠点であると同時に、日本が退魔の伊呂波know howを持たない西洋妖魔の脅威にさらされた、最も危険な街でもあった。


パリM.外国E.宣教会P.』。


 列強れっきょう諸国の手によって無理やり開国させられ、西洋妖魔に脅かされていた日本を、永らく守ってれていた退魔機関の名である。

 同宣教会の神戸における拠点は、外国人居留地の一角――三十七番地、亜米利加メリケン街道ロードにほど近い場所に、大きな屋敷の姿でもって今も存在している。


MEPメップ屋敷』と第七旅団の悪魔祓師ヱクソシストたちは呼んでいる。

 MEP屋敷は第七旅団の居留地における派出所らしく、寝床に食堂に風呂にと、一通りのものが揃っている。


「そうじゃ、チョコ子。そうやって乳房の下もしっかり洗え」


 その、MEP屋敷の浴室で。


「花ノ王、じゃったか? 人の世の石鹸しゃぼんは良い匂いがするのぅ」


 千代子は何故か、璃々栖リリスの裸体を洗っていた。

 璃々栖リリスは自分で自身を洗えない。

 両腕がないからである。


 璃々栖リリスの裸身と言ったら凄まじく、彼女は透き通るように白い肌、ほっそりとした手足、驚くほど引き締まった腹、そして見事な――完璧をこの世に体現したかのような形の乳房を持っている。

 そんな悪魔の姫君が、千代子に素手で自身を磨かせるのである。

 花王の石鹸しゃぼんが発する花の香りと、璃々栖リリスの放つ濃厚な色気に、千代子は女の身でありながらクラクラとしてきた。


皆無かいなの奴も悪くはないが、やはり女が良いな」


(今までこんなことを、皆無くん――じゃなかった、少佐殿にやらせていたの!? 年端もいかない男児に!?)


 ほとんど、精神的な暴力、虐待だと思った。


(何て悪魔的な……嗚呼、悪魔デビルだったわね)


 そして、気持ちよさそうに洗われている姫君の姿を見て、改めて思い知らされる。


(本当に、両腕がないんだ――…)


「気味が悪いかの?」


「えッ!?」


 そんなに分かりやすく見ていただろうか。


「そ、そんなことは……すみません」


「一ヵ月ほど前になァ、我が祖国は叛逆はんぎゃくの憂き目にうてしもうての」


「……は、はい」


の父たる阿栖魔台アスモデウス王を憎き敵・毘比白ベヒヰモスに殺されてしもうてのぅ。予は命からがら逃げ延びることができたのじゃが……そのときに、うっかり腕を――予の自慢たる悪魔印章シジル・オブ・デビルの刻まれた両腕を


 それきり、姫は口を閉ざしてしまった。

 そんな姫君の肩から湯を流しながら、千代子は士官学校で学んだことを思い出す。


 悪魔印章シジル・オブ・デビルとは、甲種悪魔デビル――大悪魔グランドデビルのみが持つといわれる、強力な魔術発生装置のことである。

 印章シジル持ちの悪魔デビルと持たない悪魔デビルとでは、その実力は隔絶している。

 だが、短所もある。それが、


印章シジル持ちの悪魔デビル印章シジルを失うと、ほとんどの魔術を使えなくなる……)


 璃々栖リリスが、膨大なヱ―テルを持ちながら、自ら魔術を使わないのは、


(使えないんだ。だから)


 皆無少佐という使い魔にヱ―テルを注ぎ込んで、戦わせている。


 璃々栖リリスが湯船に入ったので、自身も洗った。

『一緒に浸かれ』と許しを得たので、恐縮しながら同じ湯船に入った。

 西洋式の浴槽は大きくて、二人入ってもゆったりできた。


「お伺いしてもよろしいでしょうか」


「何じゃ」


「姫様は、お幾つなのですか?」


「歳か? 十六じゃ」


 まさかの同い年だった。


 姫と己の乳房を見比べて、絶望する千代子。

 自分もある方だと思っていたのだが、璃々栖リリスのは物凄いのだ。


悪魔デビルというのは、長寿なのですか?」


「種族や家による。千差万別じゃ。我ら阿栖魔台アスモデウス家の者は人を喰らわぬから、押並おしなべて短命じゃな。まァ百年くらいは生きるじゃろうか」


「ヱッ⁉ 人を喰らわない⁉」


「何故に驚く? というかそなた、人を喰うかも知れない相手と一緒の風呂に入っておったのか?」


「い、言われてみれば……」


阿栖魔台アスモデウスは、七つの大罪の『色欲』を司る魔王。我が眷属には女淫魔サキュバス男淫魔インキュバスが多い。彼女ら、彼らは人の子らの夢に出て、精液、愛液を介して精力ヱ―テルをもらう。人の子らは、健全な状態で生かしておいてこそ、我らの糧となるのじゃ」


「な、なるほど……」


 道理であった。





   ❖   ❖   ❖   ❖





 一緒に風呂から上がり、姫の髪と体を拭いた。

 洋物の下着と和服を着せると、計ったように皆無かいなが入ってきて、


「――【乾燥ドラヰ】」


 と、省略詠唱の西洋魔術で姫の髪を乾かす。

 本来は長々とした詠唱が必要なはずなのに、である。

 士官学校退魔兵科西洋分科主席の千代子は、己がとても真似できない精度の魔術に舌を巻く。


「腹が減ったな、皆無!」


「せやな」


 意気揚々と食堂に向かう璃々栖リリスの後ろを二人して歩いていると、


「……何でくしたんかは、聞かへんようにしてな」


 小さな声で、皆無が言った。慈しむような目で璃々栖リリスのことを見ている。


かしこまりました」


 重厚なカツレツを、姫は麺麭パンと一緒に食べた。

 千代子はもちろん、白米で食べた。

 皆無が口に運ぶカツレツを美味しそうに頬張る璃々栖リリスは何とも可愛らしく、皆無と璃々栖リリスのお似合いな様子が千代子の心を消耗させた。


 食後は璃々栖リリスの歯を磨き、下の世話をして、


「えええッ!? お、同じ部屋で寝てるんですか!?」


 皆無の部屋で、やおら皆無が床に布団を敷きだしたので、仰天した。


「チョコ子、そなたも一緒に寝るか? そなたなら、のベッドに入れてやらんでもない」


「……僕のベッドなんやけどなァ」


 ため息の皆無である。


「いやいやいやいや」


「なァに、まだ精通も来ておらん小童こわっぱじゃア。赤子をあやしながら眠るようなものじゃ」


(未精通、ならいいか……? いやいやいやいや)


 未精通でも、確か勃起はするのではなかったか。

 うのていで部屋から逃げ出すと、廊下に大尉が立っていた。


「少尉、貴官の部屋は今日からそこだ」


 皆無の隣の部屋を指差す。


「えええッ!? 一階ここ、男子寮ですよね!?」


「それがいやなら、少佐殿の部屋だな」


「何てこと……」


 破れかぶれになって、璃々栖リリス姫と同じベッドで眠った。

 姫は寝相が悪く、足をこちらに絡めてくるうえに、ときどき耳に寝息を吹き掛けてくるので難儀した。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖翌朝 / 神戸港 海上❖



『吾輩は猫である』


 ――そんなフレヱズで始まる小説が数年後、

 この極東の島国で大流行すると、

 そんなことを夢に見た吾輩はもちろん猫ではなく、

 誇り高き地獄の門番ケルベロスである。


 所羅門ソロモン七十二柱以上の悪魔ジャビルは、

 過去・現在・未来を見通す力を多かれ少なかれ持っており、

 つまるところそれは予知夢であるが、

 吾輩のソレは見たい未来を自由に選択できるような代物ではなく、

 予知能力が偶発的アトランダムな事象を告げるに過ぎず、

 どうせなら三文小説のタヰトルなどではなく、

 この船が一体全体いつになったら目的地たる神戸の港に着くのかを教えてもらいたいものである。


 ゆらァりゆらり。

 狭い船室の隅では、道中拾った我が下僕も青色吐息。


 璃々栖リリス阿栖魔台アスモデウス殿下は吾輩の大切な同盟相手であり、

 共通の仮想敵たる毘比白ベヒヰモスに父たる王を殺されて王位を簒奪さんだつされた哀れな娘であるが、

 同盟は同盟でも商業同盟である以上、表立って軍事的協力はできず、

 しかしこの力をせめて役立てられやしないかと、

 地獄を離れては無力な身の上なれど、

 こうして馳せ参じた次第である。


 プォーーーー~~…………

   プォーーーー~~…………


 長い汽笛が二回鳴ったかと思えば、船が取舵ひだりに転じる気配。

 神戸の港に、着いたのである。

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