肆「異界旅行~地獄の大悪魔との会談~」

❖同時刻 / MEP屋敷 皆無の部屋❖



 隣の璃々栖リリスががばりと起き上がったことで、千代子は目が覚めた。


璃々栖リリス


「うむ。来たな」


「…………んぇ?」


 寝ぼけ眼で起き上がると、皆無少佐が既に着替え終わっている。


「来たって何がですぅ……?」


 寝ぼけたまま尋ねると、


「「ケルベロス――」」「――じゃ」「――や」


 璃々栖リリスと皆無の声が重なる。千代子はすっかり可愛く思ってしまってコロコロと笑い、しばらくしてからようやく、


「ケルベロスぅぅぅううううううええええええええええええッ⁉」


 所羅門七十二柱ソロモンズデビルの一柱、地獄の門番ケルベロス。

 そんなものに顕現されてしまっては、神戸港が滅んでしまう!


「あはァッ、安心せい。ケルベロスはの盟友である。神戸で暴れぬようしっかりと言い含めておくし、何より奴は、無闇に人を喰らわぬ」


「無闇にじゃなければ喰うんですかァ……?」


 泣きそうになりながら千代子が尋ねると、


「喰らう。が、喰らうのは地獄で然るべき裁きを受けることに決まった魂だけじゃ」


「あぁ、なるほど……」


 千代子はうなずく。


(なら、大丈夫か……大丈夫か? いやいやいやいや)


 たったの一日で、この二人の滅茶苦茶っぷりにすっかり慣らされてしまっている。


かく、メシじゃ。あやつが上陸してくるにはまだ時間があるじゃろう。――皆無」


「はいはい――【水塊ウォーターボール】」


 皆無が省略詠唱で水を出現させる。

 その芸術的なまでの術式の完成度に、千代子は『ほぅ』と息をつく。


 これでも秀才で売ってきたのだ――そのつもりだったのだ。

 昨夜までは。


「【火炎ファイア】」


 宙に浮く水の塊へ、皆無が炎を放り込む。

 一瞬にして湯が出来上がった。


 湯の塊に璃々栖リリスが勢い良く顔を突っ込み、目をつぶってじゃぶじゃぶやりながら、ぶくぶくと息を吐く。


「あはは」


 あまりの可愛らしさに思わず笑ってしまった。

 見れば皆無も、微笑ましそうに璃々栖リリスを見ている。


 璃々栖リリスが湯から顔を出すと、すかさず皆無が、


「――【乾燥ドラヰ】」


「むぅ、乙女の柔肌じゃぞ? もう少ししっとり感をじゃな」


「はいはい」


 皆無が湯の霧で璃々栖リリスの肌を撫で、もう一度、慎重に【乾燥ドラヰ】する。

 続いて自分も顔を洗おうとした皆無が、ふとこちらを見て、


「えーと、使うか?」


「え、よろしいのですか?」


「まぁ、璃々栖リリスが使った後のでもよければ」


「よ、喜んで!」


 千代子は、皆無少佐が二つに分離させた湯の一つに顔を突っ込んだ。


(今日こそは――)


 悪魔的な洗顔をしながら、千代子は決意を新たにする。


(今日こそは皆無くんと二人っきりになって、私が皆無くんの許嫁なんだって告げるわよ!)





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖十数分後 / MEP屋敷 食堂❖



 がやがやと賑やかな食堂で、


「やはり朝は麺麭パンに限るな!」


阿呆アホ、たまには米も喰いぃや」


 驚くべきことに、璃々栖リリス姫は他の旅団員たちと同じように列に並んだ。


 が、彼女のお陰で自分たちが西洋妖魔の百鬼夜行を相手に死なずに済んでいることをよくよく理解しているらしい旅団員たちが姫君に順番を勧めていき、果たして姫はあっという間に列の先頭に立つ。

 焼きたてのライ麦麺麭パンと熱々のクリームシチュー、そして瓶に入った牛乳を手に入れた璃々栖リリスである。

 入れる手がないので、運ぶのは皆無だったが。


璃々栖リリス姫! 今日も一段とお美しい!」

「踏んで下さい女神様」

「俺の精力ヱ―テル全部持ってってもいいからよ、一度でいいから夢に出てきてれぇ!」

「いよっ、璃々栖リリスちゃん! 今日も可愛いねぇ」


 意気揚々と先頭を歩く璃々栖リリスに絡んでくる旅団員たち。

 璃々栖リリスは、時折伸びて来る手をひょいひょいっとけながら、


「これ、気安く触るでない。に触れてよいのはそこな下僕の皆無だけじゃ」


「妬けるぜ」

「一度でいいから触ってみたい……」

「羨ましい」


「あぁん!?」


 皆無が凄みの利いた声を上げる。


「今、羨ましい言うた奴、何なら代わってれてもええねんで?」


 途端、そっぽを向いて空々しく口笛などを吹き始める男たち。


(……?)


 またも千代子は疑問に思う。

 昨夜も感じた疑問だ。


(姫から口付けを受けてヱ―テルを受け取れるなんて、男なら誰でも喜びそうなものだけれど?)


「あぁあと、新たな下僕、チョコ子も予に触れてよいぞ」


 璃々栖リリス姫の付き人と判断され、早々に炊き立ての白米とシチューを手に入れた千代子が、いきなり名を挙げられて慌てる。


「それとな、人の子らよ」


 璃々栖リリスが立ち止まり、その大きな乳房を誇示するかのように胸を張り、


「予をモノにしたいのなら、予とともに魔界を統べるだけの気概が必要じゃア」


「さっすが璃々栖リリスチャン! いやらしい体してるくせに身持ちが堅い!」

「だが、それがいい!」

「いよっ、王族!」


 言いたい放題の男ども。

 璃々栖リリスが通り過ぎ、そんな男たちの視線が、自然、千代子の肢体へとまとわりつく。


(ふふん)


 千代子は得意満面だ。


 これでも、士官学校時代は鳴らしていたものである。

 学年主席の才色兼備。

 すらりと伸びた鼻筋に、切れ長でありながら大きな二重瞼の目、器量良しな顔形も自慢だが、毎晩入念に手入れしている長い黒髪もまた自慢の一つ。

 士官学校の偶像崇拝アヰドル壱文字いちもんじ千代子ちよこここにあり。


 日本における西洋文化の最先端とも言える陸軍士官学校退魔兵科西洋分科ではフェミニヰスムや自由恋愛フリヰラブへの理解も進んでいて、千代子などは何度も男子生徒から、校舎裏に呼び出されては愛の告白をされたものである。


「「「…………」」」


 千代子の体を見ていた男性諸君はしかし、


「「「…………………………………………はぁ」」」


 ――ため息を、吐いた。


「久しぶりの女士官やって聞いとったから、楽しみにしとってんけど」

「美人だってウワサだったんだがなぁ」

「阿呆、そりゃあお前ら、璃々栖リリス姫と比較するんがこくってなもンだぜ」


 聞くに堪えない罵詈雑言の雨あられ


(――――なぁッ⁉)


 愕然とする千代子。

 驚愕の面持ちのまま、先を歩く異国の姫の尻を見つめる。


嗚呼ああ……確かに、あれには勝てないわね)


 器量も肢体スタヰルもヱ―テル総量も。

 印章シジルを持たぬがゆえに攻撃魔術のほとんどが使えないとは言っても、昨晩部屋で聞いたところでは、補助魔術や生活魔術なら姫とて使えるそうなのである。

 となれば、術式でも己はあの姫に敵うまい。


次元レヴェルが違い過ぎる……くそっ、どうやったら皆無くんをあの悪魔デビルから取り返せるの!?)





   ❖   ❖   ❖   ❖





 腕がない璃々栖リリスは、当然ながら当然の顔をして、当然のように皆無に食べさせてもらっている。

 皆無も皆無で慣れたものらしく、空恐ろしいほどの精度を持った魔術【念動力テレキネシス】でもって皿を持ち上げ、スプーンを動かし、璃々栖リリスが望むタイミングに、望む角度でそれらを動かして見せる。

 平然と、自身の食事も進めながら。


(やっぱり、バケモノ……)


 皆無少年も士官学校は主席合格だったらしいが、同じ主席でも、残念ながら皆無少佐と己は月とスッポンの関係であるらしい。


「さて」

「うん」


 その璃々栖バケモノ皆無バケモノが、同時に顔を上げた。


「上陸したようじゃな。王女らしく正装して、出迎えようではないか」


 一体全体どうやって、目に見えない遠くでの出来事を知覚できるのか。

文殊慧眼もんじゅけいがん】のような類の術式か?

 しかも二人とも、詠唱どころか丹田呼吸や精神統一によるヱ―テル操作すらしなかった。


「正装言うけど、ソレも立派な正装やで」


 璃々栖リリス姫の、女学生風の服装――上は矢絣模様の着物、下は臙脂えんじむらさき色の袴――をして、皆無が言う。


「何より、よう似合におうとる」


「んぉっ、そうか!? そうかァ……そなたがそう言うなら仕方がない」


 嬉しそうな璃々栖リリス


 横から冷静に聞いていた千代子が判断するに、皆無少佐の声色は『真意三割、今から着替えさせるのは面倒臭い七割』だったように思われるが、姫の喜びにわざわざ水を差す必要もあるまい、と口を噤む。

 実際、璃々栖リリスの姿は清潔にして高潔で、例え相手が地獄の大侯爵であろうとも、失礼に当たるような服装ではないように思えた。





   ❖   ❖   ❖   ❖



❖数分後 / MEP屋敷 皆無の部屋❖



 参拾伍さんじゅうご年式村田自動小銃改。

 ボルトアクション式小銃が主流の世の中にあって、ヒヒイロカネを混ぜ込んだ銃身の、施条ライフリングに使用者がヱーテルを流し込んでいる間のみ安定した連続射撃を実現する退魔師専用の銃である。


 村田を背負い、悪魔祓師ヱクソシストの証たる紫色のストールを首からかけ、軍帽を被れば武装は完了。


「お待たせして申し訳ございませんッ!」


 MEP屋敷を飛び出し、外で待っていた璃々栖リリスと皆無に謝罪すると、


「ん? 少尉、軍刀は?」


 少佐が首を傾げる。

 本人は気付いていないようだが、何ともあどけなく、可愛いらしい仕草である。


鎮台ちんだいの保管庫に置いてありまして」


 内心胸をときめかせつつ、千代子は答える。

 昨晩は屋内任務だったため、軍刀はいていなかったのだ。


 同じく屋内任務だったため装備していなかった村田は何処どこにあったのかというと、千代子の【虚空庫】の中である。

 村田一本分と少し――それが、千代子が収納できる体積・重量の限界である。


「しゃぁないなァ」


 皆無がやおら虚空に腕を伸ばし、


「コレ貸したるわ」


 ずぼっと音がしそうなほどの勢いで虚空から引き抜かれたるは、一本の軍刀。


「あ、あはは……【虚空庫こくうこ】を無詠唱で」


 昨晩も見た光景ではあるが、改めて驚く千代子である。

 驚きながらも、千代子は軍刀を受け取り、無意識的な動作で手早く佩く。


 制式軍刀と村田、南部式の扱いはお手の物である。

 何なら目隠しした状態でも南部式を分解し、組み立てられる。


「ふぅん」


 千代子の熟達した動作に対してわずかに微笑んだ皆無が、


「ほな行こか」


 言って、慣れた手つきで璃々栖リリスをするりと抱き上げる。


「チョコ子少尉、ちゃあんとついてきぃや?」


 皆無までもが己をチョコレヰト呼ばわりする。


非道ひどいなァ少佐殿――って、えええッ⁉」


 千代子は仰天する。

 皆無がいきなり、空高く舞い上がったからである。

 まるで天狗か何かのように電柱の上を飛び跳ねていき、アッと言う間に姿が小さくなる。


(また、無詠唱でッ!?)


 驚くものの、今さらである。

 相手は銃弾を足場に空を駆けたり、悪魔の翼で自由自在に空を飛び回ってみせた男なのだ。

 千代子はへその下――丹田たんでんでヱ―テルを練り上げ、


「【偉大なる軍神スカンダの剣・ニュートンの林檎・オン・イダテイ・タモコテイタ・ソワカ――韋駄天の下駄】ッ!」


 ヒンドゥー教の神、仏教の神に、果ては英吉利ヰギリスの学者まで混ぜた、人々の関心アストラルを介して集められるヱ―テルを有効活用する術式により、己の体を羽のように軽くする。

 電柱の上を走れるほどの練度はないので、家主たちに内心謝りながら屋根の上を走った。

 地面を走ることも考えたが、こんな速度で衝突したら死人が出てしまう。


 皆無に必死に喰らいつきながら北上することしばし。

 やがて、国鉄の三ノ宮駅が見えてきた。


 皆無が駅前に飛び降りると、周囲にいた人たちが騒然となった。

 が、物の数秒で落ち着く。

 退魔師で溢れるこの街では、この程度の光景は驚くに値しないということなのだろうか。


 千代子が引きつり笑いをしながら着地すると、呼吸一つ乱していない皆無が、麗しの姫君を恭しく降ろすところだった。


「さて、行くとしようぞ」


「電車に乗るんですか? 何のために?」


 何しろ己たちは、汽車よりも速く走ることができるのである。


「ケルベロスに会うためじゃよ」


「???」


 混乱する千代子を捨ておいて、さっさと駅舎に入っていく璃々栖リリスと皆無。

 千代子は兎角とかく、ついていくほかない。


 皆無が切符を買ってれた。


「あ、お代は――」


「あとで軍に請求するで、もちろん」


 道理であった。


 そして気が付けば、いつの間にやら璃々栖リリスが上質そうなショールを肩から掛けている。

 知っている人でなければ、腕がないことに気が付かないであろう。


 改札で切符にハサミを入れてもらい、ホームに入る。





 プァーーーー~~ッ!!





 待つことしばし、大阪行きの列車が入ってきた。

 列車が止まり、そして、


「――――えッ!?」


 千歳は仰天する。

 全ての乗客が一斉に下車したからだ。

 さらに、ホームで待っている乗客たちが誰一人として乗ろうとしない。


「チョコ子、呆けていないではよぅ乗れ」


 璃々栖リリスが車内から声を掛けてくる。


「は、はいッ!」


 慌てて飛び乗る。

 果たして車内には、自分たち三人以外誰もいなかった。

 恐らく、他の車両でもそうなのであろう――やはり、全ての乗客が下車したようである。


「あはァッ、ケルベロスの奴め、『地獄から離れては力が出せない』などとうそぶいておるが、とんだ大法螺吹きじゃァ」


「え? ちょっ、待ってぇや……」


 皆無が、稀代の天才悪魔祓師ヱクソシスト阿ノ玖多羅あのくたら単騎少佐が引きつり笑いをしている。


「ってことは、コレ・・はケルベロス閣下がやったん!? あれだけの人数を精神操作したん!? 疑問も違和感も一切感じさせず!?」


 天才少年をして驚嘆せしめる。

 本物の大悪魔グランドデビルというものは、くも恐ろしい存在であるらしい。


 プァーーーー~~ッ‼


 列車が動き出す。





   ❖   ❖   ❖   ❖





 東京生まれ、東京育ちの千代子は、鉄道馬車には慣れているが、汽車にはとんと慣れていない。


「うわァ~ッ!」


 当然ながら、走る速度が全然違う。

 窓に張りつき、あっと言う間に流れていく景色を眺めながら、千代子は驚嘆の声を上げる。


 確かに己は【韋駄天の下駄】でもってこれと同等かそれ以上の速度で駆けることができる。

 が、日本国が、日本人が科学の力だけでこれだけの物を作り、運用しているという事実が誇らしい。


 近年、隣国が半島と大陸においてキナ臭い動きをしているが、いざ隣国とのいくさとなっても、これだけの科学力があればきっと勝てるであろう……そんな感慨とともに窓の外を眺めていると、


「チョコ子少尉」


 何だか風景がキラキラと光り輝いていて――…


「チョコ子少尉!」


「へ!?」


 皆無から強く呼び掛けられた。


「落ちんなや? 僕でも助けられる自信がないから」


 言われて初めて気付いた。

 己がいつの間にか、窓を開けて身を乗り出していることに。

 そして窓の外の世界が、神戸の街並みがまるで蜃気楼のように揺らめき、濃密なヱ―テルでもって七色に光り輝いていることに!


「ここ、もしかして――…異界ッ!?」


「と、現世うつしよの狭間やな」


「あわ、あわわわわ……」


 慌てて首を引っ込め、窓を閉じる。

 一体全体いつの間に、己は窓を開けていたのか。

 異界は人の心を惑わせる力を持つというが……。


「乗り物、というやつは異界との親和性が高い」


 一人、千代子と皆無とは別の客席に着いた璃々栖リリスが言う。


「乗客を別世界へ連れて行ってれるものじゃし、ことに汽車は速度があるから夢見心地になれる」


 その、璃々栖リリスの向かいの席が、空間がゆらりと歪み――


「久しいのう、ケルベロスや」





 一人の女性と一匹の犬が、客席に姿を現した。





 突如として。

 まるで、最初からそこに座っていたかの如き自然さで。


「――えッ!?」


 千代子は驚き飛び上がる。


 美しい女性だった。

 褐色の肌は何とも活発な印象を見る者に与え、黒く大きな瞳は理知的な様子である。

 編み込んだ黒髪を結い上げ、男装をしている。

 西洋紳士ジェントルマンのような燕尾服テヱルコートと、上等そうなシルクのネクタイ。

 その、悪魔侯爵ケルベロスが口を開こうとしたそのときに、


「ワンワンワン」


 と犬が鳴いた。

 椅子の上でお座りし、すっと背筋を伸ばした――よく訓練された軍用犬のような雰囲気を持つ―独逸犬ドーベルマンは、ケルベロス女史と同じく燕尾服テヱルコートとネクタイを身に着けている。

 犬は一緒に会話しているつもりなのか、ケルベロス女史と一緒にワンワンと言う。

 その喋り方が妙に優雅で可愛らしく、千代子は不快には感じない。


璃々栖リリス姫、今日もお美しい」


「嬉しいことを言って呉れる。貴殿も、凛々しい風貌は昔のままじゃ」


 ワンワンワワワンワン。


「殿下におかれては、大変な時期であろうが……随分ずいぶんと相性の良さそうな使い魔を見つけたのは何よりですな」


「全くじゃァ」


 璃々栖リリスが皆無に視線をやりつつ頷く。

 当の皆無はと言えば、


「ケルベロス閣下って女やったんや……」


 呆然と、そんなことを呟いている。


「確かに。男性のイメージがありました」


 千代子は同調する。


 ワンワンワン。


「ふふん、そこな使い魔らよ。吾輩の美しさの前に平伏ひれふすがよい」


「はは~ッ!」


 平伏せと言われて即座に女史の前に行き、平伏す皆無。

 これが、悪魔界における悪魔的な上下関係というやつなのだろうか。

 千代子も慌てて続く。


 ワン。


「しつけもよく行き届いておる」


「自慢の使い魔じゃ」


 とここで、皆無が顔を上げてニヤリと微笑み、


「ですが、いざ夜になったら立場が逆転しまして――ぎゃッ!?」


 璃々栖リリスに顎を蹴り上げられ、引っ繰り返る皆無。


(容赦ないなァ)


 と、千代子は引きつり笑いをする。


「まったく、餓鬼ガキがつけ上がりおってからに……それにしてもケルベロス、そなたの使い魔もなかなかのものじゃなァ」


 犬は、相変わらずワンワンワワワンワンと歌うように喋るように鳴いている。


「道中で拾った。良い買い物をしたと思っておるよ」


 偉大なる悪魔グランドデビルが二人、優雅に笑い合う。


「して、ケルベロスよ。本題なのじゃが」


 ワンワワンワンワワワンワン。


「うむ。吾輩――十九の軍団を指揮する、偉大なる侯爵ケルベロスは、改めてここに、阿栖魔台アスモデウス家との相互不可侵を確認する。吾輩は、阿栖魔台アスモデウス家に叛逆した侯爵ナッケ、及びナッケを使って阿栖魔台アスモデウス王を陥れた毘比白ベヒヰモスを非難する」


毘比白ベヒヰモス――!)


 世にも恐ろしい名前が出てきて、千代子は震え上がる。

 七大悪魔セブンスサタンが一柱、『暴食』を司る魔王である。


 百年前、本来の『暴食』たる魔王ベルブブから王位を簒奪さんだつした毘比白ベヒヰモスは、以来数多の悪魔家を襲い、その悪魔印章シジル・オブ・デビルを奪って回っているらしい。

 第七旅団においても、最も警戒すべき相手とされている。


(そうか……姫様の父君を殺し、姫様の印章シジルを奪ったのは、魔王毘比白ベヒヰモスだったのね)


 そうして姫は、毘比白ベヒヰモスの手の届かないここ、極東へと逃れてきたと言うわけだ。


 ワンワワワンワンワワワンワン。


「吾輩にも守るべき民草がおる故、毘比白ベヒヰモスと戦火を交えてまで姫を助けることはできぬ。そこは許してもらいたい」


「無論じゃ」


 璃々栖リリスが即座に頷く。


「国と国、家と家は相互の利益によって結ばれるものじゃ。とて、貴殿に軍まで借りたとあっては、祖国復興の折に民心を得ることは叶うまいよ」


(そう言うものなのか……)


 意外に思う。

 人間の敵・妖魔と戦う退魔師たる千代子は、極めて単純明快な勧善懲悪の観点から世界を見ていたのだが、どうやら『毘比白ベヒヰモスは悪だから、皆で力を合わせて戦おう!』とはならないらしい。


(でも、考えてもみれば当然か)


 千代子は、学校で学んだ極東情勢を思い出す。


 今や日本は、隣国との戦の前夜と言われている。

 日本の目的は、両間の緩衝地帯・半島の独立独歩である。

 だが、当の半島がそれを望んでいない。


 古くから大陸に事大していた半島は、大陸が戦に負けると、今度は隣国に事大しはじめた。

 隣国の金で贅沢三昧をしていた王室は、借金のカタとして隣国に国内の森林伐採権や鉄道施設権の数々を売り渡してしまった。

 王室は隣国の支援なしでは立ちゆかなくなってしまい、一時期などは国王が隣国の公使館から政務を執るような有り様であった。


『侵略・支配は悪』

『独立は善』


 などという単純明快な観点では、世界は動いていないのだ。

 独立するためには自らの力を示す必要があるし、それが無理なら雌伏しふく隷属れいぞくもやむを得ない。


(そして今まさに、璃々栖リリス姫様は身を潜めて力を蓄えていらっしゃる)


 ワンワワン。


「だが、吾輩が個人的に、そして間接的に助力することなら可能である。吾輩の――七十二柱が一柱としての、過去・現在・未来を見通す力で以て」


「未来予知、じゃな? 羨ましいことじゃ。未だ阿栖魔台アスモデウスの名を襲っていない今のには、その力がない」


「そこで吾輩が、姫に力を貸そう。この国で起きる出来事については、既に幾つか夢で見ておる」


「有難いことじゃ。何卒頼む」


「うむ」


 ケルベロス女史が鷹揚に頷く。

 隣では女史の使い魔たる独逸犬ドーベルマンがワンと鳴く。

 果たして、彼女からもたらされる情報とは――





「『吾輩は猫である』と言うタヰトルの小説が、数年後に大流行する」





「「「……………………はい?」」」


 ワンワワン。


「湊川の埋め立て地は『新開地』と呼ばれ、活動写真や演劇が大流行する。十年後に建てられる大劇場『聚楽館しゅうらくかん』は、『西の帝劇』と称されるようになる」


「あー……」


 璃々栖リリスが、『思っていたのと何か違う』という顔をしている。

 恐らく自分も同じような顔をしているだろう、と千代子は思う。


 ワワワンワン。


「この国と隣国との戦争は来年の二月に始まる」


「「!!」」


 と、これには千代子と皆無が敏感に反応した。

 璃々栖リリスには関係ないかもしれないが、日本にとっては国の行く末を左右せしめるほどの重要な情報だ。





 ――術師である千代子が、戦争に参加することはできない。





 神術・秘術・魔術・妖術・霊術・密教術・巫術……どのような術でもそうだが、ヱ―テルを使って術式を使える者は国際法上、戦争への参加を禁止されている。


 空高く舞い上がり、念話によって正確無比な弾着観測射撃を実現せしめ得る術師。

 そんな相手術師を狙撃し得る術師。

 空を舞って敵国の重要施設を爆撃可能な術師。

 大容量の【虚空庫】によって兵站の概念を崩壊せしめ得る術師。

【渡り】の秘術で以て大軍を一瞬で移動させ、敵軍の包囲殲滅を、敵将の斬首作戦をすら容易たらしめる術師――。


 術師は列強各国にとって希少な存在であると同時に、単騎で戦況を変えるだけの潜在能力ポテンシャルを持つ。


(実際、皆無くんが戦場で【神使火弾ミカヱル・ショット】を使ったら、相手が何十、何百、何千人居ようが消し炭よね)


 そして、そんな術師たちを戦争に使ってよいとなれば当然、敵国の術師を暗殺せしめようという動きに発展する。

 そういう活動が活発になって、人類共通の敵たる妖魔に人類が駆逐されては元も子もないわけで、一六四八年のウェストファリア条約を以て術師の戦争参加が禁じられたのだ。


 そんなわけで、千代子自身が隣国の将兵を相手に戦うことはないのだが、日本国を守る軍人の一人として、日本の国益に利する情報は是が非でも集めねばならない。


「戦では『エド患い』とか言う病が日本軍で大流行する。この病は陸軍に集中して、海軍では患者が少ないらしい。陸海軍の食生活の違いに原因があったと、のちに判明する」


 皆無少佐が虚空から手帳と鉛筆を取り出し、書き留め始める。

 そんなふうにしてつらつらと話を聞き続けるものの、相変わらず璃々栖リリスにとって有用な情報は出てこない。

 姫が『くぁぁあ……』と品がないのに絶妙に可愛らしい欠伸をした、まさにその時、





毘比白ベヒヰモスの配下が、既にこの街に潜んでいる」





「「「!」」」


 これには三人揃って反応した。


 ワンワン。


悪魔デビルは哀れなる魂をさらい、生贄にして力を蓄えている」


(誘拐……生贄……)


 昨晩の、怪我が治って元気に走り去っていった英吉利犬ポメラニアンの姿を思い出す。

 神戸では西洋犬の誘拐事件が後を絶たないらしいのだ。


 ワワンワワン。


「その力が満たされたとき、姫とその下僕を滅ぼすべく動きはじめるであろう」


 ワワンワン。





「敵の名は、馬羅鳩栖バルバトス。四人の小王を従えし、偉大なる公爵」





所羅門七二柱ソロモンズデビル!)


 昨晩、その眷属と戦ったばかりである。


「ということは、敵が力を蓄え切る前にこちらから打って出ればよいということじゃなァ」


 にたァり、と悪魔めいた笑みを浮かべる璃々栖リリス


 ワワンワワンン。


「敵は、存外近くにいるかもしれない」


「「存外近く?」」


 姫と皆無が、同時に千代子の方を見てくる。


「わ、私は違いますよ!?」


 慌てて否定する千代子。


馬羅鳩栖バルバトスの眷属にまんまと騙されとった癖に」


 ため息をつく皆無と、


「皆無、もう一発ほどチョコ子を撃て。許す」


 獰猛に微笑む璃々栖リリス


「え、ウソですよね!? ちょちょちょ、少佐殿、南部式に手を伸ばさないで――」


「あはァッ、冗談じゃァ。じゃがチョコ子や、そなたは人の子にしてはヱ―テル総量が抜群に大きい。が、そなたはそのヱ―テル総量に比して弱すぎる。脆弱なヱ―テル持ちなぞ……ええと、この国では何と言うんじゃったか? カモネギ……カモをネギが……? そう、ネギがカモ背負しょって来るようなものじゃァ!」


「ぎゃ、逆です姫様……」


「というわけでネギ子や、そなたは当分、と皆無のそばにおれ。そなたのような栄養豊富なエサを毘比白ベヒヰモスの手勢に与えてやるわけにはいかぬ」


 ネギ呼ばわりされて白目を剥く千代子。

 一方璃々栖リリスはケルベロス女史に向き直り、


「ケルベロスや、大変に助かった。礼を言うぞ」


 璃々栖リリスが微笑むと、ケルベロス女史も微笑んだ。


 そして犬がワンと鳴いた。


「時にケルベロスや、貴殿はこれからどうするつもりじゃ?」


 ワワワンワン。


「せっかく極東くんだりまで来たのだから、何年か滞在しようと思う」


 軽い口調で『年』と言う単位が出てくるあたり、地獄の門番の寿命は悪魔的なものであるらしい。


「では貴殿は『おナベ』とお名乗り。この国でナベリウスケルベロスなどと名乗った日には、悪魔祓師ヱクソシストどもに追い回されるぞ」


「い、犬鍋……? 何て悪魔的な――ぎゃっ」


 璃々栖リリスに頭を蹴り飛ばされる皆無少佐。


「蹴倒すぞ」


「もう蹴っとるやん」


 ワンワワワン。


「姫は使い魔と仲良しであるな。まるで姉弟のようである」


 姉弟、という言葉に皆無が不満げな顔をする。


 千代子の胸がチクリと痛む。


(皆無くんの許嫁は、私なのに……)





 プァーーーー~~ッ‼





 汽笛の音にハッとなってみれば、既にケルベロス女史と犬の姿はなく、窓の外は普通の光景に戻っていた。

 現世うつしよに帰ってきたのである。

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