撫子七変化事件
1. 初めての事件
『水の終わりの月』。春と呼べる季節になっても、また朝は寒い。
大陸の半島、魔王を倒した勇者が興した地方国家、アルスバトル公国の首都シルベール。そこでも指折りの木綿問屋ビンセント家の娘、ナタリーは、ひんやりとした空気に、寝室を出るとき羽織った厚手の上着の前をかき合わせた。
『陽光通り』は、まだ人も馬車も通ってないのだろう、物音一つしない。それにつられ、しっとりと湿気が漂う庭を、足音を忍ばせて歩いていく。
ガサリ……。突然、右手の方から物音がして、ナタリーは飛び上がった。
……別に悪いことをしているんじゃないのだから……。
早鐘のように打つ胸を押さえて、そっと庭木の影から音がした方を見る。彼女のよく見知った背中が、使用人達の部屋のある小屋に向かって行く。仕事熱心な彼が、朝早くから働いていたのだろうか。ナタリーはほっと安堵の息をつくと、彼が出てきた生け垣に入り、花壇に向かった。
花壇は若葉が芽吹き始めた庭木を背に、水仙やクロッカスが並べて植えられ、すぐにでも開かんとばかりに蕾を膨らませている。
その脇、小道の端に置かれた植木鉢の苗を覗き込む。緑の苗の先端にある青い蕾は、昨日、いや、数日前と全く変わりがなかった。
『この鉢植えは東方貿易で手にいれた『撫子』という花の苗です。この花が咲きましたら、これでブーケを作り、改めて貴女にプロポーズをさせて下さい』
穏やかな顔で微笑んで、鉢を自分に贈った、婚約者である貿易商フューリー家の子息の顔が浮かび、ナタリーはがっくりと頭を垂れた。
家同士が決めた縁談を渋る自分に、子息がしたロマンティックな約束。その後、苗の成長にかこつけた彼との文通やお付き合いで、ナタリーはすっかり、彼のプロポーズへの答えを決めていた。
「……後は花が咲くのを待つだけなのに……」
そんな彼女の浮き立つような気持ちとは裏腹に、ようやくついた青い蕾は、他の春の花のように色つくことすらない。
春の雲を浮かべる空に、朝の寺院の鐘が鳴り渡り、ナタリーは顔を上げた。そろそろメイドが自分を起こしに、部屋にやってくる時間だ。
「明日は咲きますように……」
鉢植えに祈りを捧げると、屋敷へと足を向ける。そのとき、腐臭が彼女の鼻をかすめた。
「……う……」
庭に撒く腐葉土にしては濃すぎる、ねっとりとした魚の腐ったような臭い。と、同時に冷たい風が突然庭に吹き付けた。
「きゃあ!」
倒れては大変と鉢植えの上に覆い被さる。
風はごうごうと庭木を鳴らして吹きすさび、花壇の花達を揺らす。目も開けていられない強風にひたすら鉢の苗を守りながら、身を縮める。庭を思う存分蹂躙した後、風は空に吹き抜けていった。
ナタリーは大きく息をついた。残された腐臭に顔をしかめ、鉢植えの無事を確かめ、慎重に離れる。そのとき、彼女は足下に紫色の花の花びらを見つけた。
「これ、なんだろう?」
拾い上げ、なんとなくハンカチに包んで上着のポケットに入れて……顔を上げ息を飲む。
「……花壇の蕾が……」
先ほどまで朝の光に、健やかに伸びていた青々とした草の葉が、黄色に変色し、ぐったりと萎れている。ふくらんだ蕾は茶色に染まり、土の上に先ほどの腐臭のする黒い液をぴちょり、ぴちょりと滴らせていた。
* * * * *
十五歳までの私の人生は、まあ普通だったと思う。
シルベールの大通り『姫様通り』の裏にある小さな貸家に、おじいちゃんと二人暮らしだったけど、時々、亡くなった父の兄だという、伯父様夫婦と従兄がやってきて世話を焼いてくれたし、細道を一本挟んだ向こうの薬問屋の幼馴染の男の子もいたから寂しいなんて思ったことはなかった。
七歳のとき、私は不思議な力に目覚め、伯父様夫婦の勧めで、アルスバトルに派遣されている聖騎士の先生の下で修行を始めた。夜は幼馴染のお店で読み、書き、算数に薬学の勉強も。
先生は大陸でも珍しい魔導剣士で、修行には厳しかったけど、普段はおちゃめな優しい人だったし、幼馴染と学ぶ、様々な知識は面白かったし、私はこのまま、大人になったら先生の従者になって一緒に聖騎士のお仕事して、幼馴染と恋人になって、そのうち彼のお嫁さんに……なんて、のほほんとした将来を当たり前のように思い描いていたのだ。
去年の春、訓練場で先生と剣のお稽古をしていたとき、大陸中央部の大国、聖ユグリング皇国のお使者の方がやってきて、私の前に膝まづくまでは。
『アルズバトル公国公女、ミリアム・アルスバトル様ですね。双子のお兄様、セシル様と同じ『腐土の魔王』を倒した『輝石の勇者』の力を受け継ぐ、もう一人の勇者様の』
そう彼がニヤリと笑って告げたとき、私の生きていた『世界』がひっくり返った。
* * * * *
「本当に公女様で勇者様なんですの?」
もう何度目だろう。昼過ぎにこの部屋を訪ねてきた、ナタリー・ビンセント嬢の問いに
「ええ、まだ自分でも全然実感ないですけど……」
答えて、部屋の隅の小さな火桶で湯を沸かす。
三つ編みに編んだ背中までの赤い髪に赤い瞳。黒い詰襟の軍服に、腰には使い慣れたショートソード。自分とさほど歳の変わらない私を、さきほどから彼女が胡乱な視線で伺っている。
彼女の後ろに控えた老執事さんがこっそり目で詫びるのに、こっちも目で『気にしないで下さい』と返して、私は棚から幼馴染に貰ったハーブ茶の瓶を取った。
アルスバトル公国騎士団事務所の建物内にある、聖獣神殿アルスバトル分室。デスクと面談用のテーブルセット、壁沿いに歴代の聖騎士達が解決した事件の綴りを置く棚が並べられた一室が、去年の春、実は自分が公国の公女で、勇者だと解った、私ことミリアム・アルスバトルの部屋だ。
ポットにスプーンで茶葉を入れて、沸いたお湯を注ぐ。ティーコゼを被せて、砂時計をひっくり返して振り向くと、ナタリー嬢はまだテーブルセットのソファで物珍しげに狭い部屋を見回していた。
「……しかし、公女様が従者も着けずに、一人で聖騎士をしていらっしゃるなんて……」
「聖獣神殿は公国からも皇国からも独立した組織ですから、勝手に公国側で従者を着けるわけにもいかないんです。それに、数年で辞める聖騎士にわざわざ本部から従者を呼ぶのも悪いですし……」
皇国に勇者がもう一人いるとバレ、私を皇帝に仕えさせるべく、迎えに来たお使者の命を断る為、伯父様夫婦と従兄……本当は私の実の父母と双子の兄だった……が、先生と一緒に取った方法が『これ』だったのだ。
私をまず、皇帝でもおいそれとは手が出せない、初代の『勇者』とパーティの仲間が作った、魔物関係の事件を解決する組織、聖獣神殿の聖騎士にする。そして、その後、私の勇者の血を目当てに来るだろう、婚姻の申し込みを断る為に、大陸の東側、東方四国一の老舗薬問屋である、オークウッド本草店の後継ぎの許嫁とし、成人と同時に降嫁させる。
『まあ、ここアルスバトルは騎士団も街の衛兵団もしっかりしているから、事件の依頼もそうないだろう。後は、ここで大人しくしていろよ』
と言って去年の夏の終わりに先生は、私にこの部屋を引き渡して、自分はキングスリン公国の聖獣神殿に派遣されていった。
「……はあ……」
まだ怪訝な顔をしているナタリー嬢と、背後で私に向かい、ぺこぺこ頭を下げている執事さんにハーブ茶を出す。
「それで、本当に私の事件を解決してくれますの?」
どうやらナタリー嬢は、そんなこんなの事情で、毎日、たいしてすることもなく、部屋でぽつねんと過去の事件の資料を読むか、訓練場で独り、剣を振って過ごしている私の捜査能力に疑問がおありだったようだ。
「お嬢様!!」
流石に失礼だと声を上げた執事さんを制して、私は自分の分のハーブ茶を手に彼女の前のソファに座った。
「貴女が持ってきていらした、非常に個人的な小さな事件なら無事解決出来ると思いますわ」
すました顔で答えてやる。
確かに私は、次期辺境伯として公国騎士団の団長を務める双子の兄のように、表立って動くことは禁止されている。折角ここまで、お膳立てして貰ったのに、辺境伯を継ぐことのない勇者が功績を上げると、また私を皇帝に仕えさせようとお使者がやってくる。
「貴女が見た、花の蕾を腐らせる風の事件の方は騎士団が調査中です」
この春、公国では奇妙な事件が立て続けに起きている。ナタリー嬢が経験したように、腐臭のする強い風が吹いた後、咲かんばかりに膨らんでいた木や草花の蕾が腐り落ちてしまう案件が、シルベールのあちらこちらの屋敷や施設の庭で起きているのだ。
『今のところ、被害も無いが、これがもし作物の花に及んだら……』
公国に飢饉が訪れてしまう。そこでセシルと騎士団が、これを重要案件として調査している。
でも、さっきナタリー嬢が話してくれた『撫子の花が咲かない事件』はこれとは無関係な感じがする……。……勘だけど……。
私はおろおろと私達を見ている執事さんに小さく笑みを向けると、ハーブ茶を一口啜った。幼馴染が
『部屋にいるだけのことが多いからこそ、何か気晴らしのようなものが必要だろう?』
とくれた、私の大好きな香りのお茶だ。
……よし。
「とにかく、もう一度、今朝の出来事を、見たもの、聞いたもの、一つも漏らさないように詳しく話してくれませんか? それが終わったら、今度は貴女の家に行って現場のお庭を見せて頂きたいわ」
先生が依頼者に対して言っていたことをマネして、ナタリー嬢に言ってみる。
上手く、聖騎士らしく言えただろうか。……実はこれが私にとって初めての事件の依頼なのだ。
「ええ、そして是非、撫子の花を咲かせて下さい」
どうやらうまく伝わったらしい。ナタリー嬢は
「まず、これを……」
執事さんにハンカチを出させる。
「今朝、風が吹いた後に拾いましたの」
若い娘らしい、華やかな刺繍の施されたハンカチには、ぽつんと滴型の濃い紫の花びらが乗っていた。
……何の花びらだろう? ……。
花びらを受け取り、調査資料として、先生がしていたように薄い白い紙に包んで、デスクの上に置く。
「では、お話を」
「はい」
ナタリー嬢が頷く。そして、彼女は、もう一度詳しく、今朝の出来事を話し出した。
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