黒い悪魔とか言ってるけど、それ〇〇〇〇
登崎萩子
独り暮らしはつらいよ
蒸し暑い空気のせいで余計に腹が立つ。
何がお前の説明が下手だ。何時間も働くと、蝉の声が耳に刺さる。日が落ちても泣き止まない蝉が憎らしい。
こんな時はビールでも飲んで、枝豆を食べるのが一番だ。冷凍の豆だって充分おいしい。
薄暗い街灯の下には虫が飛ぶ。暑いので仕方がない。ネズミが出ないだけでもマシだ。
後ろから足音が聞こえてくる。最近は、毎晩同じことの繰り返しだ。
自宅アパートは狭いが、比較的新しい。エレベーターがなかったけど、駅から近いので妥協した。
階段を上って二階にたどり着く。
私の部屋は二○三だ。多分二○二の前に男が立っている。
しかも背が高い。この暑い季節に、黒い服を着ている。本当は、防犯のために人がいる時は部屋に入りたくなかった。
そんなこと知るか。疲れているし、一刻も早くビールを飲んで寝たい。汗で服が張り付くし、喉も渇いていた。
ドアの前まで来ると、男がこちらを見る。耳の上の髪は、ほとんど刈り上げていて、前髪は額を出すようにかき上げられていた。
目つきが鋭く、日焼けして金色のネックレスをつけている。ちょっと怖い系のお兄さんだ。
「こんばんは」
声がかすれる。そりゃそうだ。喋り続けた夏の夜は喉が渇く。コンビニに寄りたかったけど我慢したせいだ。
お兄さん相手に挨拶は大切だろうと思って、自分から声をかけた。それなのに返事はなく、私の手元をじっと見てくる。
なにこの人。めっちゃ感じ悪い。早く部屋に入ろうと鍵をぶっさす。お兄さんは私のことを見るだけで動かない。もしかして鍵無くしたんか。
「コンビニの近くに交番ありましたよ」
「何のことです?」
ちょっと間抜けな声が返ってくる。
「鍵無くしたんですよね」
鍵屋でも呼んで、早く入ればいいのに。
「家に出たんです。アレが」
幽霊とか信じるタイプか。私は信じない。
「そうっすか。大変すね」
ドアを閉める前に、隙間に足を突っ込まれる。
「お願いします。バイトしませんか。お金はいくらでも払います」
「お祓いとかできないんで」
つーか、犯罪だぞ。足をどけてくれ。
「お祓い?違います。アレを退治して欲しいんです」
だからあれじゃわかんねえよ。はっきり言えよ。
ショッピングモールの受付に来るやつも、こういうのが多い。事情も説明しないで話を進めるやつ。
今日もアプリがインストールできないとか言うから、聞いてたらマッチングアプリのことだった。そんなの私の仕事じゃない。
「アレです。アレ。黒くて気持ち悪い虫です」
虫?今虫っつった?
「スリッパで叩けばいいじゃないですか」
お兄さんはいかにも強そうだ。服の上からでも筋肉の形がよくわかる。半袖から出てる腕はムキムキだ。
「飛んで来たらどうするんですか。そんなこと出来ません。あれは氷河期を生き抜き、人間を恐怖のどん底に陥れる悪魔ですよ」
いや、それゴキブリっつーんだと思うよ。
「お金は払います」
何で借金取りに追われて泣きそうな人みたいになってんの。だんだんお兄さんが可哀想になってきた。
「別にお金はいいんで。鍵開いてます?」
「いいんですか?空いてるんでお願いします」
カバンを自宅においてから入ると、明かりがついたままの部屋は意外と物が少ない。
探さなくても、壁と床の境目に黒い虫がいた。靴を脱いで上がると手でつかむ。逃げようとゴキブリが暴れる。
「嘘。信じらんね」
「ごちゃごちゃうっせー。早くガムテ持って来い」
お兄さんはキャーキャー言いながらテープを持ってくる。
「なんで持ってるんですか」
「潰すと中」
「やめて。やめて。聞きたくない」
ガムテープを切り取ると、手を精一杯伸ばして渡してくる。
「こうやって挟めば死ぬから大丈夫ですよ」
説明しながら、最後の悪あがきをするゴキブリを挟んで殺す。
「レジ袋あります?」
前日にゴミ出しするのはルール違反だけど、お兄さんの家に置いたままはかわいそうだ。
さっきと同じように手を伸ばして渡された袋に入れると、外に出しに行く。
疲れが百倍くらいになった気がして、足が重かった。それでも人助けをしたからいいか。
暗がりから、痩せた男が飛び出してくる。距離があるので顔はよく見えない。
「君さあ、僕と付き合ってるのに、他の男と話すなんて一体どういうつもりだよ」
どうもこうもねえよ。ただの客と受付なのに。誰があんたと付き合ってるんだよ。
「警察呼びますよ」
声が震えて、全然怖そうに聞こえない。
「うるさい、うるさい。僕は悪くない」
甲高い声が響き渡る。警察に通報しようとして、カバンを家に置いてきたことに気づく。どうしよう。
急にさっきのお兄さんが現れて、ストーカーの前に立ちはだかる。
「この人彼氏ですか?」
「無理無理。ぜっったい違います。」
「何だと」
ストーカーが暴れてこっちに向かってくる。あっさりとお兄さんが男を捕まえた。
と思ったらその足元に黒く小さな影がカサカサと這いよる。嘘。お兄さん逃げて。悪魔が来た。私は動けそうになかった。
お兄さんが一瞬下を向く。
ゴキブリが嫌いなのに、ストーカー野郎を捕まえたまま動こうとしなかった。
「次はないぞ」
ほとんど、いや完全に悪役みたいなセリフだ。お兄さんが手を離したら、ストーカーが走って逃げていく。
「なんで大丈夫なの」
「あそこでビビったら追い払えないでしょう」
当たり前のように言う。
ようやく手にしたままの悪魔をゴミ置き場に葬る。
二人で階段を上ると、お兄さんもぐったりしていた。
「手洗った方がいいですよ」
そう言ってお兄さんは開いたままの部屋を指さす。
「自分ちで洗うんで」
「お金払います」
生真面目な言い方だった。
「別にいらないっす」
お兄さんは突っ立ったまま、帰ろうとしない。
「あのビールなら出しますよ」
「嬉しいですけど、手洗ってもらえますか」
お兄さんは部屋の鍵を閉めてからついてくる。なんで誘ったのか、自分でも分からない。
とりあえず、念入りに手を洗おう。
「ハッピーバースデートゥーユー」
「何ですか、それ」
廊下から、怪訝な顔したお兄さんが顔を出す。
「知らないんですか。これ歌って手を洗うとちゃんと時間が分かるんですよ。なんか殺し屋みたいでかっこいいでしょ」
「確かに殺し屋ですよ」
何のかは言わない。
ビールを渡すと、二人で飲み始める。
「あの結婚してください」
何つった?
「今までアレが苦手だって知られると、振られてたんです。でもあなたは違う」
いや絶対に駆除係が欲しいだけでしょ。
「北海道にはいないって噂ですよ」
「初対面で普通に挨拶する女性も初めてなんです」
お兄さんは見た目は怖いけど、中身はそうでもない。自分から挨拶しないからじゃない?
「ところで何の仕事してんすか」
「クラブのセキュリティです」
堪えきれずに笑ってしまう。
でもゴキブリには弱いんだ。面白い。
きっと、ゴキブリハンターの私がいればこの人は最強なんだろうな。
黒い悪魔とか言ってるけど、それ〇〇〇〇 登崎萩子 @hagino2791
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