第5話 ガスタンク
昔、どこかの新聞の投書欄に載っていた話をする。
この手の話は日常のごく些細な話として現れ、誰にも注意を向けられることなく消えていき、ネット上にすら残らない。その内容の重要さにも関わらずだ。
一例として小松左京氏の作品の中に出てくる戦後闇市における幼児強盗団の話などがあげられる。その内容は生き延びるために小学生未満の幼児たちが強盗団を作り、闇市を訪れる大人たちを襲っていたというものだ。私は小松氏の話以外にこれに関する記述を読んだ記憶がない。
それは人間の本質に繋がる重要な事柄なのだが、それでもこれらの話が公式に記録され周知されていないのは明らかに国と文化の怠慢だと私は断ずる。
1923年に起きた関東大震災のとき、多くの人々が陸軍本所被服廠へと避難した。ここには大きな空き地があったためである。地震についで起こった火災に追われて、その大きな空き地に人々が密集したとき、予想を裏切り一気に辺りが炎の海になった。その勢いは凄まじく、大八車に積んでいた家財道具や各々が背負っていた荷物にも火が移り、たちまちにして火炎地獄が出現した。この大火災によりこの場所に避難していた大部分の人々が焼け死んだのである。
このいきなりの火がどこから来たのかは謎だった。地震に伴う火災旋風のせいだと結論づけられたがそれを裏付ける証言は何も無かった。
新聞の投書の主がこの火災の原因である。投書の中では、いつまで経っても誰もこのことに触れない、もう時効だとも思うので話そうと思うと前置きしていた。年齢から見てすでに寿命が尽きようとしている。恐らくは死ぬ前に懺悔したかったのであろう。
当時ガスタンクの保守をやっていたこの人と仲間は、大地震に驚き、周囲の火災が大きくなったときガスタンクが大爆発することを恐れ、タンク一杯のガスを早めに抜くことにした。どこにガスを逃がすか、そうだ陸軍本所被服廠ならば広い空き地があるから大丈夫だろう。そう考えて被服廠の側のガス放出弁を開けた。
その瞬間、空中に巨大な炎の橋がかかった。空を舞っていた火の粉が放出されたガスに引火したのである。それは期せずして実現した世界最大の火炎放射器とも言える。
そしてその時、被服廠には批難してきていた群衆がびっしりと密集していたのである。
このような事どもは、新聞の投書欄だけに留めておいてよいものではない。それらは可燃物の安全管理に関する設計思想として組み込むべきものであり、人間の無知が引き起こす行為とそれが引き起こす必然の結末に関する重要な示唆を与えるものなのだ。
二度とこのような悲劇を起こさないために、ここにこれらを記す。読者の記憶の片隅にでも留めておいていただければ有難い。
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