五之章

     1

 耕平は、吉備野博士と連絡を取るための、ポールは春先の暖かくなってから、建てることに決めていた。冬の間は雪もあって、鳥やウサギなどの小動物を狩って、食料に当てなくてはならないという、重要な仕事が待ち構えていたからだ。

耕平とイサクも毎日罠を掛けたり、あちこちに狩りに出向いては、家族のために得ることで、躍起になって狩に勤しんでいた。

 その合い間を縫うようにして、吉備野への連絡ポールに文字を書く、ペンキのような塗料を作るための、研究とその調整に試行錯誤をしていた。

『うーむ…。どうしてもうまく行かないな…。何が悪いのか、自分でもよく分からない…。どうすればペンキのような、ドロッとした感じが出せるんだろう…』

 寝ても覚めても、そのことが頭から離れない耕平は、不眠に悩む夜が幾晩か続いていた。そんなことが続いたある晩、不眠の後の明け方の浅い、うつうつとした眠りの中で耕平は、何やらすっきりとしない夢を見ていた。

 その夢の中で耕平は、小さな沼のようなところに立っていた。見ると沼の水面には、黒光りする液体が湛えられていた。その水面には、あちこちにボコッボコッという、泡が噴き出していて、時折りその泡が鈍い音を立てて、弾け散るのが耕平にも聞こえてきた。

 ただ泡が弾ける時に、発散する悪臭が鼻を衝いて、我慢が出来ないほどの匂いだった。その匂いを嗅いだ耕平は思った。

『おや…、この匂い。どこかで嗅いだことがあるぞ…』

 それでも、その匂いが何の匂いなのか、耕平にも即座には思い出せなかった。

『いや、待てよ…。この匂いどこかで、一度嗅いだことがあるぞ…。うーん…、思い出せない…。どこで嗅いだんだっけ、何の匂いだったのか…。思い出せない…』

 耕平は傍に落ちていた棒っ切れを拾うと、黒い水面に付き立てるように入れると、棒に絡め取るようにしてすくい上げた。木の枝に付いた黒い液体を、鼻先まで持っていって直接匂いを嗅いだ途端に、それが何の匂いなのか耕平は思い出していた。

「これだ…。これがコールタールだ。オレはついに見つけたぞ。これを汲んで持って帰る、土器を取りに行かなくては…」

 と、そこで熟睡とはほど遠い、耕平は浅い眠りから醒めた。

『何だ…。夢だったのか…。いや、待てよ…。コールタールは人工物だが、稀に天然のものが、湧き出しているところがあるって、何かの本で読んだことがあるぞ。

 まして、ここは縄文時代だ。コールタールだって、ないとばかりは云いきれないぞ。

 但し、どこにあるのかさえ分からないのだから、探すにしてもに一仕事になりそうだ。

 ここはまたひとつ、イサクの手を借りるしかないかな…。

 よし、イサクのところに行って、相談を持ち掛けてみるか…。ドッコイショっと…』

 耕平は床から抜け出すと、妻のイナクが寝息を立てているのを、横目で見つめながら家を出た。外に出るとこの季節にしては、妙に寒さが感じられる朝だった。春とは言えども、まだまだ朝晩は寒暖差が感じられる、北国の春は花の咲く季節が、もう少し後になりそうだった。

 イサクの家は、イサクが邑に住むようになってから、耕平の指導の下でかつて山本が建てた、ログハウス風の小屋であった。

「おーい…。イサク、オレだ。起きてるかぁ…」

 耕平は周りに気を使って、出きるだけ小さな声で呼びかけた。

 すると、いきなり出入り口の戸が開いて、

「どうしただ…。コウヘイ兄イ、こだぬ朝早ぐがら何かあっのが…」

 と、耕平を見るなりイサクは、邑中に響き渡るような大きな声で言った。

「シ-…、静かにしろ。邑のみんなはまだ寝ているんだ。あんまりま大きな声を出すな…」

「ほだども、コウヘイ兄イ。こだぬ朝っぱらからどうしただ…」

「いや…、何となく眠れなくてな。仕方がないから、散歩がてらお前のところにでも、行って見ようと思って出てきたんだが、やはり少し早かったかな…」

「ほんで、コウヘイ兄イはおらに何が、用でもあったんだべが…」

 耕平はイサクに、コ-ルタールのことを聞うとしたが、縄文人のイサクにどうやって、コールタールのことを説明しようかと、悩んていたがいい策も思いつかないまま、とにかくでき得るだけの説明は、イサクに伝わるかどうか疑問だったが、耕平はい決して話し出した。

「なぁ、イサクよ。お前に訊いても分らないかも知れんが、オレの話を聞いてくれ…」

 耕平はどういう風に、話せばいいのか自分でも、模索しなが模索しながら、ゆっくりとした口調で話しだした。

「名前はコールタールと云うんだが…。いや、名前などどうでもいい…。

 もともとは人間の手で造られたものなんだが、極稀にだが天然に湧き出ているものが、あるということを昔聞いたことがあるんだ。

 形状はドロッとした液体で、色は真っ黒で強烈な臭いがするんだ…。イサク、お前はそんなものを、見たとか聞いたことはないか…」

「はあて…、おらはほだなものは、見だごども聞いしだごどもねえな…。

 ほしたら、ムナクにでも聞いてみっといいぞ。アイヅはずっと西のほうがら、来たって云ってだがら、おらだちの知らねえものだって、なんぼでも見てきたはずだがら、おらはこごがら出たごどがねえがらな。分かんねえごども一杯あっけど、アイヅは何でも知ってっつォ…」

 確かにイサクのいう通り、この邑の者はあまり邑から、出たこともなく見聞が狭いために、ムナクのように定住地を持たない、狩猟民族の末裔のように、西から東へと獲物を追って、旅から旅の生活を送ってはいる者は、目や耳から入ってくる情報量は、集落を作って生活を送ている者の比ではないのである。

「うーむ…。彼は口にこそ出さないが、この時代に関する情報量は確かに、オレなんかよりも数段は上だろうな…」 

 とにかく、このままではどう仕様もなく、耕平はイサクとともにムナクを探しった。

 ムナクの家に行っても、彼の姿は見えなかった。

 妻であるライラに聞いても、朝にコウスケお兄ィと狩りに出かけた。という、情報しか得ることが出きななかった。

「しょうがない…、アイツらの行きそうなところに,オレたちも行って見るしかないか…」

「よす、行ぐべ。あのふたりとなら、おらも二・三回行ったごどがあっから、大体の見当は付ぐぞ。多分あそごら辺りだべ…」

「おお…、そうか。オレも大体の想像は付く。よし、行って見るか…」

 こうして、耕平とイサクは、同じ方向を目指して歩き出した。

「あんれ、何だべ。コウヘイ兄イもこっちだが…」

「そういうお前こそ、どうしてオレと同じ方向に行くんだ…」

「そいづは、おらがこっつだと思ったがら、こっつに行くんだ。だとも、コウヘイ兄イはなして、おらと同じ方向さ行くんだ…」

 耕平もイサクも、どうやら行く先は一緒らしかった。こうして、ふたりしてああでもない、いこうでもないと言い合いながら、コウスケとムナクがいると思われる、場所を目指して歩いて行った。

 しばらく行くと耕平は、いつかコウスケと来たことのある、狩り場に辿り着いていた。

「おーい…、コウスケー、ムナクはいないか…」

 耕平はふたりのいそうな、方向に向かって呼びかけてみた。

 最初のうちは、木霊が帰って来るばかりだったが、何回か呼んでいるうちにどこからともなく、

「おーい、お父…。こっちだよー。おいらたちに何か用かい…」

 と、いう、コウスケの声が聞こえてきた。

「あ…、ほれ。あそごだ。コウヘイ兄イ…」

 イサクが指差すほうを見ると、コウスケとムナクが獲物を担いで、耕平たちのところに走ってくるところだった。

 耕平たちのところまで来ると、肩で息をしながら耕平に訊いた。

「どうしたんだい。お父…、こんなところまで来るなんて、おいらたちに用でもあったのかい…」

「いや、お前じゃなくて、ムナクのほうに少しばかり、訊きたいことがあったんだ…」

「何ですか…。コウヘイお父、おいらに訊きたいことと云うのは…」 

「うむ…。まあ、そんなに急ぐ話ではないんだ。邑に帰る道々にでも、ゆっくり話そうか…。やあ…、ふたりとも今日は大猟じゃないか…」

「よし、それじゃ、そろそろ帰りますか…。コウスケ兄イはイサクに、半分くらい持ってもらったらどうです…」

「ほだな…。コウスケのもムナクのも、みんなおらが持ってやっから、貸せ…」

 コウスケとムナクが、獲ってきた獲物をイサクは、まるでふたりの肩から、毟り取るようにして、奪い取ると片手で軽々と持ち上げ、自分の肩にヒョイッと担ぎ上げた。

「いやぁ…、イサクのバカ力は、いつ見ても凄いと思うよ。おいらもあちこち旅してきたけど、イサクのような人とは,どこに行っても出逢わなかったな…」

 ムナクはイサクの力自慢を素直に称えた。

「ほだぬ褒められっと、おらはこっ恥ずかスぐなっから、やめでけろや…。

だども、そのバガだげは余計なんでねえのが…」

「いやぁ…、おいらは別にイサクのことを、バカにしたわけじゃないよ。イサクはいつ見ても、素晴らしい怪力の持ち主だなと、感心してたんだよ。バカ力と云ったのは、普通の人は持っていない、特別な力の持ち主だと、おいらは思ったから云ったまでで、イサクのことをバカにしたわけじゃないんだ…」

 ムナクは長い間旅を続けてきて、あちこちの邑々を廻ってきただけ、世渡りに慣れているのだろう。イサクのことを、あっさりとなだめてしまった。

「ほうが…、ほだぬおらは力があっべが、おらは普通だど思ってだんだども、おらはほだぬ力があっべが…」

「おいらなんかと比べても、腕の筋肉とかがまるで違うんだから、力があって当然なんだろうけど、イサクの場合は筋肉もそうだが、身体(からだ)つきそのものがおいらたちと違って、まるで別物みたいなんだよ。胸なんかは岩盤みたいに分厚いし、到底おいらたちみたいな並みの人間が、逆立ちしたって敵いっこないんだから、多分イサクの怪力は神さまがくれた、宝物みたいなものだから、大切にしないといけないと思うんだ…」

「ほうが…、神さまがくれだのが…。んだどすたら、神さまはどうやって人間ば選ぶんだべな…」

「さあな…。おいらは、そんなことまで考えたことないから、分からないし知らないよ。そういうことは、コウヘイお父にでも訊いてみな。お父なら、何かは知っているだろうからな…。そう云えば、さっきおいらに何か聞きたいとか云ってましたけど、一体それはどんなことなんですか…。コウヘイお父…」

 ムナクは、イサクとの話の途中でさっき耕平から聞かれた、『ムナクに訊きたいことがある』という、言葉を思い出して耕平に訊(たず)ねてみた。

「ああ…、あのことか…。実はな。ムナク、きみは西のほうから、方々旅をしてきたと云っていたから、ひとつ聞きたんだが、名前はコールタールと云うんだがな。まあ、名前なんてどうでもいいんだが…」

「何んですか…。そのコールタールというのは…」

「うむ…、色は黒くて水のような液体なんだが、水よりはかなり濃いんだ。そう、例えて云えば…、そうだな…。泥だ…。泥のようにドロドロしていて、臭いは鼻を衝くような強烈なものだ。もともとは、人間によって造られたものだが、天然に湧き出しているものが、ごく稀にあると聞いたことがあるんだ。方々を旅して回ってきたムナクなら、いろんなものを見てきただろうから、もしかしたら、どこかの邑でそんな噂や話を、聞かなかったかなと思って、聞きに来たんだよ。どこかでそんな話を聞かなかったか…」

「コールタール…ですか。おいらはそんなもののことは、聞いたこともないし、見たこともありませんね…。ところでコウヘイお父、お父はそんなもので、何をしようと云うんです…」

「うむ。ムナクには、まだ云ってなかったかも知れんがな。明日の明日の、そのまた遠い明日の世界に、昔オレがお世話になった。偉い人がいるんだよ。その人と連絡を取るために、イサクに伐ってはもらった、大木に文字というものを書くために、そのコールタールが必要なんだ」

「コウヘイお父、またおいらの知らない言葉が、出てきましたけど、その文字というのは何なんですか…」

 ムナクは耕平が時折り、自分たちの知らない言葉を、よく使うのは分かっていたが、これまでは別に気にも留めずに、それとなく聞き流していた。

 しかし、今日だけはただ黙って、聞き流す気にはなれななかった。なぜなら耕平が言っていた、明日の明日の世界にいる人と、連絡を取るために文字というものを、書くためにコールタールが必要だといった。ムナクにとって耕平が言った、明日の明日の世界が、どんなところなのか憖(なまじ)っか考えたとしても、ムナクには解かるはずもなかった。

 耕平のいう、明日の世界は解からないにしても、義理の父親である耕平は、邑人の誰からでも好かれる、温厚な性格がムナクはことのほか好きだった。

「ムナク、文字というのはな。自分の思っていること、考えていることを遠くにいる人たちに、伝えるための言葉を形にしたものなのだ。残念ながら、この世界にはまだ存在はしてないがね…」

「自分の気持ちを相手に伝える、その文字というものはどんなものなんですか…。お父」

 ムナクは、この明日の世界からやってきた、義理の父親である耕平のことを、自分たちが知らないことを、何でも知っているのであった。それでいて、困っている邑人がいれば出向いて行って、解決策を教えてやるというように、あらゆることに精通しているようだった。

「いいか、ムナク。よく見ていろよ」

 そういって、耕平は傍らに落ちていた棒っ切れを拾うと、

「これはな。オレのいた時代の文字だが、お前のムナクという名前は、こう書くんだ…」

 耕平は地面にカタカナで、ムナクと大きく書いた。

「へぇ…、これがおいらの名前ですか…。そして、これが文字というものなんですね…。コウヘイお父」

「そうだ…。イサクのはこう書いて、コウスケのはこう書くんだ」

 耕平は次々と、イサクとコウスケの名前を書いていった。

「ひゃ…、これがおらの名前だがァ…、コウヘイ兄イ」

 イサクはさも驚いた様子で、耕平の顔を覗き込んだ。

「そして、これがオレの名前だ…」

 そういうと耕平は、ひと際大きな文字で自分の名を書いた。

「そんな便利なものがあるのなら、おいらたちにもぜひ教えてくださいよ。コウヘイお父…」

「残念ながら、それはできないんだよ。ムナク、なぜ教えられないか分かるか…」

「いえ、分かりません…」

「それはな。この時代には文字というものが、まだ発明されてないからなんだ。いいか、考えても見てごらん。お前たちの使っている弓や槍だって、いまよりも遠い昔に誰かが作ったからこそ、現在こうやってオレたちが使っていられるんだ。

 オレの知る限り、この時代にはまだ文字は発明されていないんだ。もし、ここでオレが文字を教えたとしたら、これまで正常に進んできた歴史に、大きな歪みを作ることになってしまうんだ。だから、歴史の進歩は自然のまま、そっとしておいたほうがいいと思うんだよ。

 もし、そうでなかったら、とんでない明日の世界になってしまうだろからね…」

「コウヘイお父が教えられないのなら、おいらたちみんなで協力しあって、おいらたちの文字を作ればいいだろう。そうは思わないかい。コウスケ兄イ…」

「そ、それは思うよ。おいらだって前にお父に云われて、その文字ってヤツを作ろうとしたことがあったんだ。だけど、おいら文字なんて一度も見たことがないし、どうやって作ったらいいか分からなくなって、途中でやめてしまったことがあったんだ…」

 コウスケは、あの時のことを思い出したのか、悔しそうな表情でムナクに言った。

「え…、じゃァ、コウスケ兄イはたったひとりで、その文字というものを作ろうとしたのかい…。そりゃァ、無茶だよ。コウスケ兄イ、そういうものは出きるだけ多くの人と、力を合わせてやらないと絶対に無理だと思うよ。

 それに文字っていうのは、自分の気持ちを相手に、伝えるためのものなんだろう…。もし、仮に海辺に住んでいる者が、山の中に住んでる者に魚のことを、伝えるにはどうしたらいいと思う…」

「そ、そりゃァ、やっぱり魚の形を描くんじゃないの…」

「やっぱり、コウスケ兄イもそう思うかい。おいらが思うに、文字というものは相手に伝えたいものを、分かりやすく物の形に記す。こういうものが文字の始まりになるんた…。なんて思ったんだけど、どうかなァ…」

「さすがはムナクだね。たてにあちこち旅をしてたわけじゃないんだね。おいらなんか足元にも及ばないくらい、見識が広いんだ…」

 狩猟民族の末裔であるムナクは、両親と死に別れてからもひとり、長い間旅を続けて流れ流れて辿り着いたのが、耕平たちちのいる西の邑だったのである。

 そんなムナクの生活に同情した耕平が、「君さえよかったら、しばらくこの邑でゆっくりして行くといい…」と、言われたのがきっかけで、この邑に住み着いて耕平の娘、ライラを嫁にもらい受けて、この邑の一員になったというのが、放浪の狩人ムナクの経歴である。

もうひとつだけ付け加えておけば、ムナクには独自に編み出した、同時に二本の矢を弓につがえて、二匹の獲物を一度に射倒すという、独特の弓法とでもいうきべものを持っていた。

「おい、おい。ムナク、お前たちふたりでばかり話してないで、少しはコールタールのことも、考えてみてはくれないか…。何か、何でもいいから文字の書ける、何かがあったら教えてくれ…」

「そう云えば…、おいらがある邑に立ち寄った時だった…。ちょうどその日は、その邑の祭りかなんかだったらしくて、男も女も顔と云わず体中に、赤とか黒の色を塗りたくって、火を焚いた周りをみんなで、踊り捲くっていたんでおいらは驚いて、ただ黙って眺めていたことがありました…」

「ほう…。で、その赤とか黒の色というのは、一体なんで作られていたのか、きみは分かっているのかね…」

「はい、あまりに赤が鮮やかだったんで、おいらも邑の人に聞いてみたんです。

 そうしたら、ある特殊な土を溶かして、それを熱したものを少し冷ましてから、顔に塗り付けるんだそうです」

「何…、特殊な土…。そうか。ベンガラを使っていたのか。しかし、そんなものがこの里のどこにあるのかさえ、オレは何も知らないぞ…」

 吉備野博士と連絡を取るために、イサクの伐り出した大木に文字を書く、塗料作りに四苦八苦した耕平だったが、どれもこれも縄文の世には、手に入れることが難しいものばかりだった。かつて、パラレルワールドからやってきた、耕平とは同一人物である坂本耕助に、「自分は、もうどこにも行かないから…」と、いう理由から、耕助にタイムマシンをくれたことが、いまさらながら悔やまれる耕平だった。


     2


 耕平は近頃の自分が、やることなすことのすべてが、うまくいっていないことに、著しい不満を感じていた。どうしたら文字を書くための、塗料を作り出すことができるのか、日夜を問わず考える日々が続いていた。

第一に縄文の世にきて、コールタールを探そうなどとは、所詮間違っていたのだろう。

 それでも耕平は、吉備野博士に連絡を取るために、ポールを建てようと躍起になっていた。

そんなある日、耕平の下にコウスケとムナクがやってきた。

「どうしたんだ。きょうはふたりお揃いで…、何かあったのか…」

「はあ、コウヘイお父がなんだか、最近落ち込んでいるという噂を聞いたんで、どうしたのかなと思ってきてみたんです。コウスケ兄イを誘って…。な…」

「ホントだよ。お父、おいらもムナクに聞いて、心配だったから来てみたんだ…」

「何だ。そんなことか…、別にオレはな。落ち込んでいるわけでもないし、どこか具合が悪いわけでもないんだ…」

「だったら、どうして落ち込んでいるなんて、 噂が立つんです…。コウヘイお父」

 本当にムナクは、耕平のことを心配しているのだろう。執拗に最近の耕平が、あまり元気がないことについて聞いてきた。

「だってねぇ。コウヘイお父、邑の人たちがみんなで、『近頃の邑長は、あんまり外も出歩かないみたいだし、どこか体の具合でも悪いんでねえべが…』という、噂があちこちで囁かれているんですよ。本当に大丈夫なんですか…」

「まったく困った連中だな…。人がのんびりしようとしていると、勝手に病気にしてしまうし、オレはゆっくり考えごともできないのか…。まったく…」

「ねぇ、お父…。お父の考えていることって、どんなことなんだい…。おいらたちにも何か、手伝えることはないのかい…」

 コウスケもムナク同様に、耕平のことを気遣って自分にも、何か出きることがないかと申し出てきた。

「うむ…。やることさえ決まれば、もちろんお前たちにも手伝ってもらうが、文字をかくための塗料が、未だに思いつかないんだよ」

「だとすれば、こうしたらどうです。コウヘイお父、動物の血を使うんです…」

 ムナクは耕平が、考えてもいなかったことを提案してきた。

「血は完全に乾燥させると、黒く変色すると云われています。コウヘイお父が、どんな文字を書くのかは、おいらはまったく知りませんが、文字の形に溝を掘って、そこに血を流し込めば出き上がりです。どうでしょうか…、コウヘイお父…」

「なるほど、動物の血までは気が付かなかったな…。それにしても、文字さえ知らないムナクが、よくぞ、そこまで気が付いたものだ。感心したよ…」

「おいら、コウヘイお父みたいに、文字なんかは分かりませんが、こういうことを考えるのが好きなんです。ですから、コウスケたちと力を合わせて、きっとおいらたちだけの文字を、作ってみたいと思っています。わからないことがあったら、聞きに行きますので、よろしくお願いいたします。コウヘイお父」

「よーし、気に入ったぞ。ムナク、分からんことがあったら、いつでも聞きに来るといい…。さてと、オレはポールを建てる準備に入るとするか。

 ああ、そうだ…。コウスケ、お前確かいつだったか、黒曜石ガ取れる山を見つけたとか云ってたな…」

「ああ、云ったよ。黒曜石がどうかしたのかい。お父…」

「ムナクの云うように、イサクが伐ってくれた巨木のポールに、文字を書くのに溝を掘るために使いたいんだ…」

「いいよ。それじゃぁ、ちょっと行って取ってきてやるよ…」

「それなら、おいらも一緒に行ってやるよ。コウスケ兄イ…」

「ああ、いいよ。案内してやるから、ついて来いよ。

だけどなァ…、そのコウスケ兄イって云うのは、いい加減やめてくれないかな…。大体ムナクのほうが、おいらよりも歳上なんだし、いくら妹を嫁にしたからって、歳上の者から兄イ呼ばわりされるのは、見っともいいもんじゃないよ。普通に名前で呼んでくれたほうが、ずっと気が楽だなァ…。おいら」

「だけど、世間体もあるし、どうしよう…。まあ、他所は他所だし、ここはここだからいいか…。世間にはしきたりに厳しい邑もあったけど、この里はコウヘイお父が邑長になった時、そういった旧いしきたりを壊して行ったから、いまみたいに暮らしやすい邑になったって聞いたけど、コウヘイお父の明日の明日の世界の知識って、本当に凄いなァ…、って思いますよ。おいらも…」

「そんなに驚かれたり、お礼を云われるようことは、何ひとつやっちゃいないんだから。

 それにオレのいた世界では、ムナクもコウスケも夜になると、東の空から昇ってきて地上を照らしている月は知ってるな。オレのいた世界では、人間があの月の上までロケットという、乗り物に乗って行ったり来たりしているんだ…」

「そんなことって、本当にできるんですか…。空を飛ぶ鳥だって、とてもあそこまでは行けないと思うけど…」

「それができるんだよ。それが時間の流れ歴史の流れというものなのだ…」

耕平は、そういいながら、ふっと空を見上げた。だが、夕刻まではかなりの間があったので、そこにはどこまでも青空が広がり、残念ながら月も星空も、まだ見つけるとはできなかった。

「さて、おいらたちも日が暮れないうちに、黒曜石を採りに行ってこようか。ムナク」

「よし、行こうか。それじゃ、おいらたちはちょいと行ってきますので、後のことはよろしくお願いします。コウヘイお父」

 こうして、コウスケとムナクは、耕平に暇乞いをすると家を出た。ふたりはコウスケの見つけた、黒曜石の採れる岩山を目指して出かけて行った。

 ひとりになった耕平は、ムナクに対してコウスケにさえ、感じたことのない不思議な感覚を感じ取っていた。別にムナクが取り立てて、普通の人間と違っているというのではなく、放浪の旅人ともいうべき、狩猟民族の末裔であるムナクには、この里の者たちが持ち合わせていない、見識の広さを持っていた。幼い頃から両親とともに、日本中獲物を追って転々とした生活を、送ってきたムナクだからこそ、集落を作って生活をしている者たちより、問題にならないくらい歩き回っている分、狩猟民族は見識が広いのだろうと思われた。

『さて、オレもそろそろ準備にかかるとするか…』

 コウスケたちが去ってから、間もなく耕平は立ち上がると、山本のログハウス小屋に向かっていた。

『確か、アイツのところには、トンカチか木槌なんかあったよな…。いつだったか見た記憶がある…』

 耕平は山本の小屋に入ると、いつものように小屋の中を、あちこちと物色を始めた。

 しばらく探していると、鉄の部分が真っ赤に錆びた、金づちがひとつ見つかった。

「ふう…、やれやれだな…。それにしてもヤケに赤錆をしたもんだ。あれから何年経つんだ…。オレが二七の時だから、もう二十年近くになるのか…。誰も手入れもしないし、使わないから錆びるのも当たり前か…。

 だけど、いくら錆びたからといっても、これだってまだ十分使えそうだし、コウスケたちが帰ってきたら、さっそく黒曜石を加工して、文字を書くための準備をしなくてはな…」

 耕平は、いま出きることをテキパキとこなし、ムナクとコウスケの帰りを待っていた。

 待つこと二時間くらいだったろうか。耕平がひと仕事を終えて休んでいると、

「おーい、いま帰ったよー。お父…」

 コウスケとムナクが、まるで韋駄天のような速さで、走ってくるのが見て取れた。

「ただいま戻りました。コウヘイお父、黒曜石はこんなものでいいですか…」

ムナクは自分たちで採ってきた、黒曜石を耕平の前に並べて見せた。

「ああ、上等だとも。オレはこんなにはいらないから、残りはお前たちで弓矢の鏃(やじり)にでもしなさい」

「弓矢の鏃ですか…。これなら固いですし、割った先端が鋭利に出きてるから、鏃には持って来いだと思いますよ。お父」

「そうか、それはよかった…。さて、オレはさっそく文字を書くための、溝を掘る道具をコウスケとムナクが、大量に取ってきてくれた、黒曜石を細工して作らねばならん。

 さぁて、これからが本番だ。忙しくなりそうだぞ…。何しろ、これからがいよいよ本番だからな。さて、始めるとするか…」

「あのう…、コウヘイお父。おいらたちも何か手伝いますか…」

 ムナクは、俄然張り切り出した耕平を見て、恐るおそる声をかけてみた。

「いや…、ムナクの心遣いは嬉しいんだが、こればかりは自分の手でやり遂げないと、オレの気持ちが済まないんだ。きみの厚意だけは、ありがたく頂戴しておくよ。その代わりと云っちゃなんだが、文字を書くためには、どうしても動物の血が必要なんだ。

 ムナクとコウスケとイサクの三人は、これから出きるだけ多くの、動物を狩って来てほしいんだ。狩ると云っても、でき得る限り獲物の動物に、血を流させてはいかん。出きるだけ血を流さない方法で、獲物を捕らえなくてはならないぞ…」

「ひぇー…、そんなの無茶苦茶だよ。お父、そんなことは絶対に出来っこないよ…」

 コウスケが真っ先に根を上げてきた。

「いや、おいらなら出きるぜ。コウスケ」

 ここぞとばかりに、自信を満面に浮かべた、ムナクが一歩前に出て言った。

「ほうだどもよ。ほだなごどは、おらぬだってできっっォ…」

 イサクもムナクに対抗心を、むき出しにするかのように、大きな声で耕平にがなり立てた。こうして、ムナクたち三人は狩りへと出て行った。

 その間、耕平は吉備野と連絡を取るための、小さな石を使って下書き程度に、大木の上に乗って文字に合わせて、印をつけて行った。

「よし、これで準備はできたぞ。あとは黒曜石を細工して、文字を掘りつけるノミを作れば、すべては完了だ。いやぁ…、ここまで来るのはひと苦労だったな…」

 耕平は感慨深げに、吉備野と連絡を取ろうとした、頃のことを思い浮かべていた。

 タイムマシン自体は、耕平にとっては迷惑千万な代物だったが、並の人間では到底経験のできないことを、耕平自身がしてきたことは、幸運と不幸が背中合わせに、なったようなものだと耕平は思った。

 文字を書く溝を掘るノミは、万一に備えて予備を含めて、三本作り上げた耕平であった。削り具合を試してみると、素人の作ったノミとは言えども、まずまずの切れ味で何となく、ホッとした耕平ではあった。

 試し削りを終えると、休む暇もなく耕平はさっそく、下書き用に目印となるように、石で傷をつけた文字形に沿って、一気に掘り進み始めた。

 いくら短い文章でも、これだけの大木ともなると、一文字掘るにも大変な力を要した。それにもまして、文字を掘るノミは黒曜石だから、加える力にも充分注意が必要だった。

 うっかり力を加えると、黒曜石のノミのほうが砕けかねなかった。

 どうにか文字を掘り終えた頃には、耕平自身がへとへとに疲れ切っていた。

「やっと、終わったか…。それにしても、疲れたぁー…。これほど疲れるとは、思ってもみなかつた、オレが甘かった…」

 自分が考えていたよりも、はるかに大変だったことに、気づいた耕平は素直に自分の甘さを認め、文字を掘り終えた大木に腰を下ろして、コウスケやムナクたちの帰ってくるのを待った。

 そんなことをしながら待っていると、相変わらず騒々しい、イサクのダミ声が辺り一面に聞こえてきた。

「おーい…。コウヘイ兄イ、いま帰っただ。こだぬ 獲物ば捕って来たぞ。ほら…、見でみろ…」

「そんなものは、見なくてもわかるぞ。イサク、お前は力持ちだから、先頭の太いほうの枝を担いでいた。ムナクとコウスケは、後ろの細いほうの枝をふたりで担いでいたし、木のしなり具合から見ても、相当の数の獲物なんだろうと、オレは思って見ていたよ…」

「へぇー、そうかぁ…。それでお父は、その文字っていうのを、書く用意はできたのかい…。あ…、これかい。この太い木に、おいらが持ってきた。黒曜石で作った道具で、削るって云ってたけど…、木のあちこちにあるデコボコが、お父の云ってた文字というものなのかい…」

 コウスケは好奇心から、耕平が文字の形に掘った穴を、一個一個手で触れながら耕平に訊いた。

「ああ、そうだ。まだ形だけだけとな。きょうお前たちが獲ってきてくれた。動物の血を流し込んで、完全に乾けばそれで完成だ…」

「ほすたら、おらが地面さ穴ば掘って、これば立てれば後は全部おしめえだ…。そうだったよな…。コウヘイ兄イ」

「そうだ…。イサクの云う通りだ。きょうはみんなも、本当にありがとう。礼を云うぞ。この通りだ。ありがとう…」

 耕平が三人に深々と頭を下げた。

「そんなことされたら、おいらたちが困りますから、本当にやめてください。コウヘイお父…」

邑長であり義理の父でもある耕平に、ここまでされて礼を言われたら、ムナクも立つ瀬がないらしく、しきりに取り消すように求めていた。

「何も気にることはないんだ。ムナク、これはオレからの、心からの気持ちを表したことだ。オレのいた世界では、人に礼を云う時にはこうやって、頭を下げて自分の気持ちを示す。それが普通の行為だし、日常的なんだ…」

「そうですか。コウヘイお父のいた世界の人は、みなさんが礼儀正しい、人ばかりなんですね…」

「いや、そうでもないさ。中には悪いことをする、ヤツだって沢山いるのさ。

 例えば、他人の物を盗ったりするヤツもいれば、人を殺したりもするんだぞ。動物や鳥じゃなくて、人間を殺すんだぞ。生きているオレたち人間をだぞ。だから、そういうヤツらを取り締まるために、警察というものがあるんだ。警察とはな。そういう悪いことをしたヤツらを、見つけ出し捕まえて犯した罪を償わせる。そして、二度と悪いことをしなような、善良な人間になるようにと、日夜努力を続けているところなんだ…」

「いやぁ…、コウヘイお父のいた明日の世界には、おいらには信じられないような、いろんなことや物が、いっぱいあるんでしょうね…」

ムナクは、まだ見たこともない。耕平のいた二十一世紀の世界を、まるで夢想でもするかのように、どこか遠いところを見るような、うつろな目で耕平に話した。

「いや、そうでもないぞ。ムナク、オレが昔いた世界なんかより、こっちのほうがずっと静かで、心が安らいでオレは好きだぞ。あっちの世界では毎日が騒々しくて、ゆっくりとしてなんかいられなかった…。その点、こっちの世界では、まるで時間が止まっているみたいで、すべてがゆっくりと進んでいるんだよ。わかるか、ムナク…」

「さあ…。おいらは、この世界以外に行ったことがないし、まったくわかりませんね…」

 耕平が縄文時代に来てから、時間がやけにゆっくりと進むように、感じたのは実際のことなのだろう。それは人間持つ習性のようなもので、何かに熱中している時は、瞬くうちに時間が過ぎて行き、気が進まないことをしている時は、まるで止まっているかのごとく、時間は一向に進もうとはしないのである。

「さて、動物の血が固まらないうちに、血を抜いてしまわないと、せっかくみんなで獲ってきてくれた、動物の血が使いものにならなくなってしまう。

 みんな、急いで血を抜いて、ここに用意した土器に集めてくれ。やり方はこうだ。ここの首のところをナイフで切るんだ…。みんなも黒曜石で作ったナイフを持ってるな。

 すると、このように血が出てくるから、これを土器に集めてくれればいいんだ」

 耕平のやり方を見ていた三人も、さっそく動物の血抜きを開始して行った。

 中でもムナクの手腕は、初めてとは思えないものだった。コウスケとイサクが一匹やってる間に、ムナクはすでに二・三匹は済ませていた。

「こんなもので、どうですかね。コウヘイお父…」

 いち早く血抜きを終えた、ムナクが耕平に訊いてきた。

「初めてにしては、ずいぶん早いじゃないか。ムナク、そうか…。きみは狩猟民族の末裔だったな。狩猟民族というのは、こういうことに慣れているんだろうが、それにしても見事な手捌(さば)きだった」

「ホントだよ。おいらも結構手先は器用だけど、とてもじゃないがムナクには、どうしたって勝てっこないや…」

「まだ、コウスケたちの分が残ってるじゃないか。おいらが手伝ってやるから、こっちにも貸しなよ…」

 ムナクは見るに見かねて、コウスケたちの分までやり始めた。ムナクが進んで手伝いだいだすと、動物の血を抜くという仕事は、耕平も一緒にやりながら見ていると、立ちどころに終わってしまった。

「これで全部だな…。それにしても、ムナクの手早さには感心したぞ。これも狩猟民族という、特殊な民族のなせる業なのかな…。実に見事だ…」

「いやぁ…、おいらたちの仲間も、大分少なくなったけど、仲間たちなら誰だって、これくらいのことはしますよ。コウヘイお父」

「そうか…、それでもそれは大した技術だぞ。ムナク」

「ほんぬ、たまげだもんだ。おらぬはどうやったって、ムナクの真似なんかできねえ」

 イサクまで唾を飛ばしながら、ムナクの手際の良さを褒めた。

「よし、これで準備はすべて終わったな…。あとは文字を掘った大木の穴に、この血を流し込んで乾くのを待てば終わりだ。みんな、いろんなことを手伝ってくれて。本当にありがとう…。心から礼を云うぞ…。また何かあった時には、頼むことがあるかもしれん。

 きょうのところは、ここまででいいぞ。みんなは自分の仕事に戻ってくれ。本当にありがとう…」

 耕平は改めて三人に礼を言った。

「本当に止めてくださいよ。コウヘイお父、おいらはお父のことが好きだから、頼まれたら何だってするし、他のみんなだってそうだと思うんです」

「ほうだどもよ。おらだちは、コウヘイ兄イのためだったら、どだなごとだってやるって決めでんだ…」

 耕平と関わりを持つ、縄文の里の人間は誰ひとりとして、耕平ことを悪く言うものはいなかった。こうして、耕平は明日から始まる、吉備野博士に連絡を取るための、ポール造りに情熱を傾けていた。


      3


 夜の闇が薄くなってきた。耕平はイナクが目を覚まさないように、ひとりそっと寝床を抜け出ると、まだ明けきらない外へ出て行った。東の空を見上げると、太陽が昇るには少しばかり間があるようだった。

 時間とは不思議なものだと耕平は思った。時間の流れそのものは一定なのだが、人と環境によって著しく変わるのである。何かに熱中している人には短く感じられ、あまり気乗りしないことをしている人には、異常なほど長く感じられるのである。

 耕平自身もそのひとりであった。二十一世紀にいた頃の耕平には、時間が自分の周りを目まぐるしいほどの速さで、駆け巡っていたような気がしていた。

 それが縄文の世にきてみると、それまでの生活がまるで嘘のように、ゆっくりとゆったりとした早さで、耕平の周辺を流れ過ぎていくのである。

 そんな耕平は自分のいたあの時代は、一体何だったのだろうと思うのであった。

 時間とは一日が二十四時間で、地球は三六五日間かけて、太陽の回りを一周している。それでも、少しづつ時間が余るため、四年に一度閏年を設けて、二月の末日に一日を加えて、この月だけ二十九日を設定している。

 その時間を遡って、縄文時代までやってきた耕平は、自然界の異端者になるのかも知れなかったが、あの時は已むにやまれない事情と、耕平自身が『どうにでもなれ…』という、半分やけっぱちな気持ちが、あったればこそできたのだと思った。どこに行くのか行き先もわからない、タイムマシンのメモリーがハイフン状態のままで、始動ボタンを押してしまった。若気の至りと言ってしまえばそれまでだが、幸いにも縄文時代だからよかったものの、もしこれがジュラ紀や白亜紀だったら、耕平もこんなにはのうのうとは、生きて行けなかっただろう。

 耕平はふっと、そんなことを考えていた。

『ふふ…、考えてみれば、オレもだいぶ無茶なことをしたもんだ…。

 あまり山本のことばかり云えないな…。アイツは向う見ずにも、確たる当てもないのに、オレのことを探しに来たっけ…。

たまたま同じ時代だったから、よかったようなものの、あれが百年とか二百年ズレていたら、どうする気だったんだろう…。アイツは…』

 耕平は、自分のことと重ね合わせるようにして、山本徹のことを考えていた。

『アイツとも、もう二度と逢うこともないんだろうな…。

 そう云えば、前に山本の子孫とかっていう、云うヤツに逢ったことがあったな…。オレがいた頃は奈津美さんとの間に、まだ子供はいなかったはずだよな…。

あのふたりが結婚したのは、ふたりが二十歳そこそこだったから、オレがいなくなってからでも、できたのかも知れないな…』

耕平は、なおも山本たちのことを考えていた。

あれこれと、昔のことを考えながら歩いていると、死んだウイラとカイラの墓の前まで来ていた。

耕平は墓標も何もない、石が置かれただけの墓の前に、ゆっくりとしゃがみ込むと、ふたりの墓前に両手を合わせた。

ウイラとカイラと言えば、耕平が縄文の世界に初めてやって来た時、最初に出逢ったのがこのふたりだった。

当初は耕平と最初に接した、ウイラのほうが熱中していて、そのうちふたりは一緒に暮らすようになった。そして、それからほどなくして、耕平とウイラの間には子供ができ、やがて元気な男の子が生まれて、耕平はその子にコウスケと命名した。

こうして耕平は、ウイラとカイラの墓参りを済ませると、来た頃はまだ薄暗かったのが、もう朝は完全に明けきっていて、朝焼けが赤々と空を染め上げていた。

帰り道を戻りながら耕平は、大きくひとつ屈伸をした。

「あれ…、前にも一度こんなことをした記憶があるな…。あれは一体いつ頃のことだったんだろう…」

 耕平はふと記憶の中をまさぐってみた。すると、ひとつの思い出に突き当たったのだった。それは耕平が中学三年の時だった。祖父が死んで一年目のお盆の時だった。お墓に行って、墓石に水をかけて掃除をしたり、墓の周りの草むしりをした後だった。

『あーあ…、疲れた。ふわァ……』

 と、耕平が伸びをひとつした時だった。

『何ですか。耕平、ここは仏さまの前ですよ。何というはしたないことをするのですか…』

 そう言って母の亜紀子は、耕平の軽はずみな行為を、たしなめるのであった。

「ああ…、やっぱりあの頃が一番よかったよな。平凡な毎日だったけど、オレたちの生活は結構充実していたよな。オレも、山本も…」

 いつ果てるともない、思い出を回想しながら耕平は戻ってきた。

 家に帰るとイナクもすでに目覚めていた。耕平を見ると寝床の中で、おいでおいでをして耕平を招いていた。イナクの傍に寄って行くと、寝床からいきなり起き上がり、大きな乳房を震わせながら、耕平の胸に抱き着いてきた。

「おい、おい。どうしたというんだ。一体…」

「どうしたって…、邑長は最近わたしのことを、構ってくれないんですもの。そんなの、いやー…」

「いまはちょっと、忙しいことをやっていて、お前を構ってやれずにゴメンよ。だが、それもあと少しの辛抱だから、それまでま待ってておくれ」

「あと少しって、どれくらいなの…。コウヘイ邑長」

 イナクは自分の乳房を、耕平の鼻先に押し付けてきた。

「あと三日くらいかな…。それが終わったら、お前の云うことは、何だって聞いてやるから、それまで待ってておくれ…」

 それでもイナクは、たわわに実った果実のような乳房を、耕平の顔と言わず胸と言わず、至るところに押し当ててくる。

 耕平も初めは、のらりくらりと避けていたが、突然イナクの乳房を鷲づかみにした。

「どうだ。イナク、これでいいのか。痛くはないのか…。もっと力を入れて欲しいのか…」

 耕平も一緒に住むようになってから、気が付いたのだがイナクには、強く力を加えてやらないと、満足できないという妙な癖を持っていた。

 紀元前の縄文時代にも、マゾ趣味のようなものが、あったのかと耕平も驚いたものだった。

 さて、ひととおりの行為を済ませた耕平は、朝飯を終えるとすぐに大木の溝に、動物の血を流しむ作業を始めていた。文字を書く筆が、どうしても調達できなかったので、代わりに昨日のうちに作っておいた、竹を細工した柄杓(ひしゃく)を使って、溝に血を流し込んで行った。

その日は朝から晴天に恵まれ、耕平が大木に掘られた溝に、次々と血を流し込んでゆくと、この日の晴天の恩恵からか、立ちどころに乾いて行った。数回に分けて血を流し込むのだが、長さが三十メートル強という、大木だからそこに掘られた溝も、文字数にすると十五・六字になる。だから、耕平が一列に血を流し込んで、乾くのを待っていたとしても、相当な時間がかかるのであった。

ほぼ半日をかけて耕平は、大木に掘られた溝に血を流し込むのを終えた。あとは完璧に乾燥するのを待つだけだった。

 こうして、耕平は丸々三日間かけて、大木に流し込まれた血の感想を待った。そして、ついに四日目の朝、イサクの加勢を頼んで吉備野博士に、連絡を取るための巨大なポール 建てが始まった。

「いいか、イサク。これから、この場所にこのポールを建てる、穴を掘らなくてはならないんだ。イサク、済まないがここはぜひとも、お前の怪力を持ってここに穴を掘り、このホールを建ててほしいんだ…。頼む、イサク」

「ほだの、造作もねえごどだべ。こごさ穴ば掘って、おらが伐ったこの木ィば、埋めればいんだな。コウヘイ兄イ…」

「どうだ。できそうか…、イサク」

「でぎそうが…。なんつうごどは、人ば信じてねえ言葉でねえのが、コウヘイ兄イ…」

「あ…、いやぁ、これはオレが悪かった。イサクは、邑でも一番の怪力の持ち主だったよな。それに、この伐り出した大木を、ここまで運んだのもお前だったし、お前が怪力の持ち主であることは、オレが一番知ってるんだ。そう、ひがまずにあと少しだけ、力を貸してくれないか…。なあ、イサクよ…」

「いんや、おらは別ぬ、ひがんでるわけでねえぞ。おらはあの時がら、コウヘイ兄イのためだったら、なじょしたごどでも、やろうど決めてんだ…。さあて、穴掘りでもやっか…」

 イサクは別にひがんでいる様子もなく、耕平が用意したスコップを手に取ると、横倒しになっている大木の、根元の太さを目測してから一回目のスコップを、足元の地面に突き刺して行った。

 耕平が見ている前で、イサクは見る見るうちに自分の背丈の、一・五位くらいの深さまで、掘り下げていった。

 耕平はイサクが放り投げてよこす、土を避けてかわすのに精いっぱいだった。

「おい、イサク。もう、そのぐらいでいいぞ。いまロープを下ろしてやるから、それに掴まって上がってこい…」

 耕平が頃合いを見図って、上から声をかけながら覗き込むと、イサクはすでに背丈の二倍は掘り下っていた。

「もういいぞ。いまロープを下ろすから上がってこい。あまり掘り下げすぎると厄介だ。これに掴まって上がってこい」

 耕平は、そういってイサクの頭上まで、二本に折ったロープを垂らしてやった。

 ロープの一方を体に巻きつけた耕平が、イサクを引き上げようとすると、力自慢のイサクは何の苦もなく、自力であっさりと穴の壁面を、駆け上がってきてしまった。

「まったく、お前というヤツはコゲンもそうだったが、いつも驚かされる連中だな…」

「コウヘイ兄イは、なぬをそっだぬビックリしてるだ…」

「いや、お前もコゲンもいつだって、オレが想像も付かないことを、平気でやって退ける連中だなと思ったのよ…」

「そったなごどねえよ。兄イ、おらはいっつもこれが当たり前だべ…」

「お前たちにとっては、ごく普通なのかも知れんが、オレに云わせてもらえば、お前たちの持っている特技は、決して尋常ものではないぞ。ムナクの弓もそうだがな…。

 さて、イサクのお陰でポールを建てる穴も出きたし、ここはもうひと踏ん張りして、さっそくポールを立ててもらわないとな」

「任せでけろや、こだのすぐ終わっから、兄イはそごらで見ででけろ…」

 イサクは、大の大人がふたりで両手を広げて、ようやく一周できるような巨木を、垂直に持ち上げると、掘った穴のところまで運んで行くと、根元のほうから穴に下ろして行った。イサクが腕の力を緩めると、巨木は一気に穴の中に落ちて行って、ズシンという軽い地響きを残した。

 見事に立った巨木の周りに空いた、かなりの隙間をイサクは辺りに散らばっている、掘り起こした土をかき集めて埋めた。それから初めて、イサクは耕平のところへやって来た。

「兄イに云われだごどは、これで全部終わったんだども、あれでいがったんだべがな…」

「ああ、上等だともよ。イサク、ありがとう…」

「なぬも、おらは礼なんぞ、云われれるごどはしてねえぞ。コウヘイ兄イ」

「いや、いいんだ。オレはオレの気持ちを、率直に云ったまでのことだからな。どれ、ここからじゃだめだな…。少し離れて見てみよう」

 耕平はそういうと、ポールから前方に四・五十メートル離れてみた。イサクも一緒についてきた。

「よし、この辺あたりからだと、よく見えるだろう…」

 いいながら耕平は、改めて後方を振り返ってみた。そこには耕平とイサクが、長い時間をかけて作り上げたポールがあった。そして、そこにはこう刻まれた文字が書かれていた。

〝吉備野博士へ 連絡を乞う 佐々木耕平〟

「これなら上出来だ。しかも、この高さだと、だいぶ遠くからでも見えるし、吉備野博士もきっと見つけてくれるに違いない…」

 耕平も、この吉備野博士と連絡を取るための、巨木で造った通信用ポールを、ひとり感慨深げに見上げていた。吉備野は、耕平のいる縄文の世界を、日頃から観察しているはずだから、絶対見つけてくれるに違いないと、耕平は半ば確信に近いものを抱いていた。

「すかす、こだぬ目立つものを、よぐ考えだもんだな。コウヘイ兄イは…」

「何…、これも苦肉の策だったのよ。いまのオレには、こうするより方法が浮かばなかったからな…」

「ほんでも、コウヘイ兄イは頭がいいんだな…。こだぬ立派な柱ば建てるごどを思いつぐんだがら…」

「だから、これはただの柱ではないんだ。吉備野博士と云う、明日の世界にいる偉い先生と、連絡を取るための大事なものなんだ。こんなことをイサクに云っても、お前には理解できないだろうがな…」

 耕平は、やっとできた吉備野との、連絡用ポールを目の前にして、さまざまなことを思い描いていた。

 自分の持って生まれた、数奇な運命を呪ったこともあったが、今となってみればもはや、どうでもいいようにさえも、思える近頃の耕平であった。

 ましてや、吉備野博士と連肉を取るための、ポールが完成した現在であれば、いずれは発見して向こうのほうから、やってきてくれるだろうという、密やかな期待を抱いている耕平だった。

それから、たちまち三ヶ月ほどが過ぎ去った。だが、吉備野からは何の音沙汰もなく、一日千秋の思いで待っている、耕平にしてみれば何かこう、肩透かしを喰わされたような、そんな思いに駆られていた。

吉備野に連絡を取るための、ポールを建てたことで耕平自身が、『これで、このポールを吉備野が見つけて、向こうからやって来てくれるに違いない』という、安堵感のようなものが生じていたのだろう。

しかし、現実というものは、そう思い通りにはいかなものらしく、待てど暮らせど一向に変化は見られなかった。そうして、半年近くも経つ頃になると、さすがの耕平も少しづつ焦りを感じ始めていた。こうして耕平は、しばらく経つと連日のように、ポールを建てた場所へと通うようになっていた。

その日も耕平は、いつの間にか日課となっていた、連絡ポールの前にやって来ていた。

することもなく、ポールの周りを当てもなく歩いていると、

「しばらくぶりです。佐々木さん」

 と、いう声がした。

 声のするほうに眼を移すと、そこには吉備野博士の配下で、時間の警備を担当しているという、山本徹の子孫のヤマモトが立っていた。

「おお…、ヤマモトくんか。本当にひさしぶりだね。今日はどうしたのかね。また時間犯罪者でも追って来たのかね…」

「違いますよ。佐々木さん、今回は佐々木さんが建てられた、このポールを見たうちのチーフが、『私の代わりに、ヤマモトくんが行ってはくれないか…。佐々木さんが何か用でもあるようだから…』と、云うわけで、僕が派遣されてきたというわけです」

「と、いうことは、吉備野先生は、そんなに忙しいということかね…」

「いや、それも違いますね。佐々木さん、うちのチーフはもともと心臓が、あまり丈夫ではなかった。チーフも天才的な頭脳を持ちながら、寄る年波には勝てず、今回サイボーグ手術を、受けることになったんですよ」

「何…、それは大事じゃないか。サイボーグと云ったら、脳以外はすべて機械化されるという、云わばロボットのようなものじゃないか…」

「それも、だいぶ違いますね。僕の時代では、サイボーグ手術など、日常茶飯事的に行われてますし、佐々木さんが云うほどには、大袈裟なものじゃなくなってるんです」

「オレのいた時代でも、子供の頃『サイボーグ〇〇〇』という、漫画が流行っていたことがあったな…。もちろん、これは漫画の中だけの話しで、実際には夢のまた夢という、話だったんだけどね…」

「そんな昔から、そういう物語があったんですか…。もっともSFとか、そう云ったものは、作家が想像を膨らませて、作ると云われてますから、あっても不思議ではないでしょうがね…。

 ところで、佐々木さんが今回、うちのチーフを呼ばれたの、どのような要件だったのでしょうか。よく聞いてくるようにと、チーフからも云われてますので、何でもおっしゃってください。佐々木さん…」

「うむ…。実は、そのことなんだがね。オレの弟分で、イサクという男がいるんだが、ある時狩りに行って雨に降られたんだ。近くの森に逃げ込んで、大木の根元に空いた穴を見つけて、そこにふたりで飛び込んだんだ。ひと息つきながら、いま来た方向について話していたら、オレはあっちから来たというのに対しして、イサクは『いや、おらはこっちから来た』と、意見が真っ二つに分かれてしまったんだよ。

 イサクは、違う方向から来たと云っても、実際には前を走るオレの後ろ姿を見てるというし、まったく話しがメチャクチャなんだ…。

本当に、こんなことってあるんだろうかと思って、そのことを吉備野先生に聞いてみたいと、思ったのが今回の連絡用ポールだっだよ。そんなことって、実際にあると思うかね…。ヤマモトくん」

「さあ…、僕は単なる警備のほうなもので、そういう専門的なことはどうも…」

「そうか。やはり吉備野博士じゃないと、無理か…」

 耕平は一瞬落胆の色を見せた。

「わかった…。それでは、オレが云ったことはすべて、吉備野先生に伝えてもらえばいいさ。頼んだよ。ヤマモトくん」

「はい、わかりました。それじゃ、チーフにもそのように伝えておきます。それでは、僕はこれで失礼します。機会がありました、またお逢いいたしましょう…。さようなら、佐々木さん」

 そういうと、山本の子孫は耕平の前から姿を消して行った。

「ふふ…、山本徹の子孫にしては、割とまともなほうじゃないか。あのヤマモトという男は…」

 ヤマモトを見送った耕平は、ひとりそんなことをつぶやいた。

『それにしても、オレがいた頃は確かに、山本には子供はいなかったはずだ…。もしかすると、オレがこっちに来てから、出来たのかも知れないな…』

 耕平はそんなことを考えながら、吉備野との連絡ポールを後にして、イナクの待っている家路についた。歩きながら、なおも耕平は考えていた。

『吉備野博士が、サイボーグ手術をしたとか云ってたが、そんなに誰でもが容易にサイボーグ化が、出きる時代って一体いつ頃の時代なんだろう…』

自分がいる時代さえ、はっきりとは分からない耕平にとって、何十世紀も先の吉備野の住む世界など、到底耕平には計り知ることもできなかった。

 山本徹の子孫で、吉備野博士の下で時間警備を担当している、ヤマモトが帰ってから耕平は何故かは知らないが、妙に『山本に逢いたい』と、いう気持ちに駆られていた。

 逢いたいとは言っても、耕平が今いるのは縄文時代で、二十一世紀と違って逢いたいからと言って、すぐに逢えるわけではないことは、耕平自身も充分過ぎるほど分かっていた。まして、耕平も自分のいる時代が「縄文時代の晩期だろう」と、いう曖昧な憶測しか持ち合わせていなかった。だから、縄文晩期といえば紀元前四・五世紀くらいのはずだ。と、いうのが耕平の大体の憶測であった。

 耕平が、この時代に来た時の状況はと言えば、半分以上が捨て鉢な心境であったというのが、偽りのないところでもあったのだろう。

 ただタイムマシンの年代を表す、メモリーの部分が紀元一年までかなく、そこから先に進めるボタンを押しても、年代・月・日・時刻ともにハイフンマークが、並んでいるのに過ぎなかったが、構わず耕平はスタートボタンを押したのだった。

 耕平も今になって見ると、あまり山本のことばかりは言えないなと思った。山本の場合は、正確な場所も分からないまま、先輩の河野の大ざっばな説明を鵜呑みにして、右も左も分からない縄文時代まで来たのだから、山本の無鉄砲さにもほとほと呆れた耕平だった。

 さて耕平の場合はというと、行き着く先がどこであろうとも、まさか死ぬこともないだろうという、気持ちでやって来たのが今いる縄文時代だったのだ。

 そこで出逢ったのが、カイラとウイラの姉妹だった。初めて見る異邦人の耕平に、物怖じする様子もなく、耕平を自分たちの邑に誘ってくれたのが、妹のほうのウイラだったのである。ふたりはいつしか恋に落ち、一緒に暮らすようになり、山本が耕平を探しに来た頃には、息子のコウスケが生まれていたのだった。

 そして、カイラはウイラが耕平と暮らすようになり、自分だけ取り残された思いで寂しさのあまり、急速に山本と親しくなっていった。山本も二十一世に残してきた、奈津実に心の中で詫びながらも、カイラと暮らすようになって行き、そのうちふたりの間には女の子が誕生して、山本はその子にをライラと命名した。

 また、山本は「せっかく縄文時代に来たんだから、オレも縄文土器でも創ってみよう…」と、思い立って土器造りに熱中して行った。山本は土器造りの合間に、土器を焼くための焼き窯造りも始めていた。どれもこれもが山本も初めての経験で、試行錯誤を繰り返しながらも、土器だけにとどまらず茶碗・皿といった、小物類まで作り上げて耕平のところにも持って行った。それらの品々を初めて見るウイラは、歓喜の声を上げたのは言うまでもなかった。

 それからしばらくして、ライラが生まれて一年近く経った頃、カイラは邑の女たち数人と山菜採りに行って、カイラと邑の女のひとりが、人喰い球磨に襲われて死ぬという事件があった。そのうちの邑の女は内蔵を喰い破られて、見るも無残な姿だったという。

 一緒に行った邑の女の知らせを受けて、急いで山本が駆けつけてみると、カイラはうつ伏せに倒れていた。山本は抱きかかえるようにして、静かにカイラを起こしてみると、もうひとりの女と違って、小さな傷は腕とか足のあちこちにあるものの、目立った外傷なく顔も無傷のままだった。

 カイラの埋葬を済ませて、しばらく経った頃に山本が耕平に言った。

「耕平…。オレ、そろそろ向こうの世界に、戻ろうかと思ってたんだ…」

「どうしたんだよ。急に向こうに帰るなんて、何かあったのか…。山本…」

「ん…、どうもしやしないさ。奈津実には何も告げずに、こっちに来ちまっだろう。マシンがあるから、元いた時間帯に戻ればいいんだが、問題は実際の時間のほうが、あれからすでに一年以上も経っていることだ…」

「うーん…。もう、そんなに経つのか…」

「いくら奈津実が鈍感な女だからと、って、一年も経つんだぞ。一年も…、それに奈津実にはできなくても、カイラとの間には子供まで生まれたんだ。奈津実には、顔向けができないことを、オレはやってしまったんだぞ…」

 山本は身を震わせて、耕平には目を背けるように言った。

「山本よ。いまは確かに、お前もつらいかも知れんが、向こうに戻ったら奈津実さんを、大切にしてやってくれよ。オレはお前がどこに行こうと、止めやしないからさ。それで、いつ帰るつもりなんだ…」

「ん…、明日の朝早く行こうと思ってたんだ。お前にもいろいろ迷惑をかけたな。ありがとうな。耕平…」

「だったら、あそこまで送っていくよ…」

「いや、いいよ。オレは元々人から見送られるのって、あんまり好きじゃないんだ。

 送るほうも送られるほうも、お互いに寂しい思いをするだけだし、だから、いいよ。見送りなんてしなくても、ひとりで行けるから…」

「そうか…、それじゃ、止めとくよ。だけど、気をつけて行けよ…」

 その晩ふたりは、明け方近くまで酒を酌み交わし、お互いの健康と異なる世界に移っても、変わらない友情を誓い合いながら過ごした。

 そして、朝が来た。耕平は山本の小屋まで行くと、山本はすでに準備を整えていた。

「耕平…、来てくれたのか。だけど、ここまででいいからな。昨日も云ったように、オレは人から見送られるのって、すごく苦手なんだよ。だから、ここからはオレひとりで行かせてくれ」

「わかってるよ。オレだってここに来る時に、誰かに見られるのがイヤで、公園をチャリで走りながら、始動ボタンを押したんだ。お前の気持ちは、よくわかるつもりだから、見送っりたりなんかしないよ」

「ああ、そうしてくれ。それじゃ、行ってみるよ。さよなら…、耕平」

 そういって山本は、耕平を振り返りもせずに、自分の膝辺りまである草原の中を、耕平が建てた記念碑の立つ場所まで、空になったリュックを背負いながら、山本はひとりどこまでもどこまでも歩いて行った。

 耕平の回想はそこで醒めた。いまとなっては山本のことは、回想することくらいしか、耕平には許されてはいなかった。

『ああ…、何とか山本に逢いたい…。どうして、あの時に山本の子孫に、無理に頼んでも山本のところに、連れて行ってもらわなかったんだろう…』

 そんなことは、いまさら考えたところで、どうなるものでもないことは、耕平自身が一番よく知っていることだった。

 そんなことがあってしばらく経った頃、縄文の里にも秋が深まり野や山は、すっかり色とりどりに衣替えを終えて、北国の厳しい冬の到来を待つばかりとなっていた。

 耕平や邑の男たちは冬に備えて、雪の降る前に冬場を超すために必要な、食料の確保に大わらわなのは例年のことであった。それでも、冬場は冬場でウサギとか山鳥類を、狩って食料にしなければならなかった。秋から夏にかけて蓄えた、獣や鳥・魚介類の干物だけではなく、生の獲物を焼いて食べるというのも、人間としての当然の欲求だったのだろう。

 そんなある日、耕平はコウスケやムナクとともに、しばらくぶりに狩りに出てきていた。

「いやぁ…。コウヘイお父と、こうして狩りに来るのもひさしぶりですね」

「うむ、ホントだな…。さて…、いつぶりになるんだろう。とんと思い出せんが、オレもそろそろ年かな…」

「そんなことはないですよ。邑の長老たちと比べても、お父のほうがずっと若いですし、長老たちのほうがお父より若いのに、もうヨレヨレの年寄りに見えます。おいらが思うに、お父は明日の世界から来たと云ってましたが、明日の世界の人ってお父のように誰でもが、みんながそんなに若いんですか…」

「うーむ…。ムナクに云われても、オレにはハッキリとは分からんが、オレのいた世界ではみんなが年相応な、容貌をしていたし歳だってそうだ。みんながそうではないにしても、八十や九十になればそれなりに、誰でもヨボヨボの年寄りになるんだよ。それが人生というものなのさ」

「ええ…、八十や九十…。それじゃ、お父の住んでいた世界の人は、おいらたちの倍も長生きしているんですか。信じられない…」

「いや、それも平均値でな。中には百歳を超える長寿の人もいるんだ」

「ええ…、百歳もですか…。それは、もう人間ではありませんよ。神様だ…。それでわかりましたよ。邑の人たちが、お父のことを『神さまみたいな人だ』って、云ってた意味が…」

「おい、おい。止めてくれよ。ムナクまで、オレのことを神格化するのは…、オレはみんなと同じ人間なんだから…」

「そうだぞ。ムナク、もしお父が神さまだったら、おいらはお父の息子だから、神さまの子っことになるんだ。どうだ。偉いだろう…」

「こら、コウスケ。バカなことを云うんじゃない。オレは普通の人間で、神さまなんかじ

ゃないってことは、お前が一番よく知っているじゃないか」

 コウスケが、ふざけ半分に言ったのを耕平が咎めた。

「えへへへ…、冗談だよ。冗談…」

 コウスケもコウスケで、舌をペロリと出して胡麻化した。

「さあ、コウスケも、ふざけてばかりいないで、早いとこ獲物を狩らないと、日が暮れてしまうぞ」

「はい、はい。わかりましたよ。お父、みんなで獲物を狩りましょう。さて、獲物はどこかな…」

「ほら、向こうの森の入り口辺りで、何かが動いていたみたいだぞ。コウスケ」

 ムナクが、少し先の森のほうを指して、コウスケに言った。

「どれ、どれ、どこだ。ムナク」

 ムナクに言われてコウスケも、森のほうに視線を移したが、コウスケの眼には動いているものなど、何ひとつとして見えなかった。

「ちぇ…、何だい。何も見えないじゃないか。きっと、ムナクは風で木の枝かなんかが、揺れるのと見間違えたんだよ。きっと、そうに違いないんだ…」

「冗談じゃないぞ。コウスケ、こう見えたってな。おいらは眼だけは、誰にも負けない自信があるんだ。だから、飛んでる鳥だって二羽を同時に、射落とすことだってできるんじじゃないか」

「だったら、どこに獲物がいるって云うんだい…。ムナクが云ったは辺りになんか、どこを見たって何も見えないじゃないか…」

「これ、ふたりともいい加減にしなさい。そんな暇があったら、一匹でも一羽でもいいから、獲物を獲ることに専念しなさい。もうすぐ雪の降る厳しい冬が来るんだぞ。だから、少しでも多く獲物を、確保しておかねばならんのだ。お前たちだって、充分わかっているはずだぞ」

 耕平は、コウスケとムナクがつまらないことで、言い争っているのを見て、ふたりを軽くたしなめた。

「とにかく、あの森に行ってみようじゃないか。そうすれば、ムナクが云ったことが、本当かどうかハッキリするんだから…」

耕平も、ふたりの気持ちを害しないように言うと、自らが先頭に立ってゆっくりと歩きだした。

三人が森の入り口まで辿りつくと、確かに入口の木の枝が何かに喰われたような、あちこち千切れているのが見えた。

「うーむ…。確かにムナクの視力は、われわれよりずば抜けていいようだな。しかも、あの距離から何かが動いているのが、見えたというのは相当なものだぞ。ムナク」

 耕平がムナクの千里眼とも言える、抜群の視力の良さを褒め称えた。

「へぇー、そんなに凄いんだぁ…。ごめんよ。ムナク、おいらお前のことを、嘘つき呼ばわりしてしまって、謝るよ。このとおりだ…」

「なーに、構いやしないさ。誰だって特技や特徴があるんだから、誰もコウスケのことを、嘘つき呼ばわりしたなんて、思っちゃいないから安心しなよ」

「さあ、さあ。ふたりとも、お互いに分かり合えたところで、そろそろ狩りを始めないと、すぐ日暮れになってしまうぞ」

 こうして、耕平たちは獲物を求めて、森の中へと分け入っていった。いままで入ったことのない、森の奥深くまで入って行った。それから、またしばらく行くと、こんもりと生い茂った木立の切れ間より、太陽光を受けてキラキラと光り輝くものが、木の葉のかすかな合間から、見え隠れするように三人の眼に飛び込んできた。

 何だろう。と、思った三人は茂みを掻き分けて、そうーと首だけ出して覗いてみた。

 三人の眼前に広がっていたのは、これまでに一度も見たことのないような。とてつもなく大きな湖だった。

「こんなところに、これほど大きな湖があったとは…」

 耕平は自分の記憶をまさぐってみた。いくら考えてみても、この辺りで自分の記憶と合致するようなものは、何ひとつとして思い出すことはできなかった。

「それにしても、こんな邑里からもかなり離れた、森の奥深くにこれほど大きな、湖があったとは誰も知らんだろうな…。しかし、何ンという広さなんだ…。この湖は…」

 耕平が驚くのも無理はなかった。永い時間をかけて地形は変わるというが、少なくても耕平がいた時代には、この辺りに湖があったという、記憶自体がどう考えてみても、耕平の中で結びつかなかった。

「どうしたんです…。コウヘイお父、さっきから随分難しい顔してますが、何かありましたか…」

「ん…、ムナクに云っても分からんだろうが、オレがいた明日の世界には、この辺りと思われる場所には、こんな湖なんかなかったんでな。これは、どうしたものだろうと思って、考えておったところなんだよ」

「なるほど…、お父のいた明日の世界の、同じ場所と思われるところには、こんな湖なんかはなかったと云うんですね」

「これは絶対に、オレの思い過ごしじゃないという、自信は持っているんだがな…。とにかく、早くこのやぶから抜け出そう。虫に刺されてかなわん…」

 耕平が小枝を掻き分けて、藪の中から抜け出ようとした時だった。いきなり、どこかでバシャーンという、水飛沫の音が聞こえてきた。三人は音のしたほうに視線を移した。すると、湖面の中ほど近くに大きな波紋が、ひとつ広って行くのが見えた。

「いまのは一体、何だったんですかね…。お父」

 と、ムナクが耕平に問いかける。

「湖面に波紋が生じたんだから、この湖に棲んでいる生き物なんだろうが、あの波紋の大きさから想像すると、相当大きな生き物とみていいだろう…」

「うん。おらも見たけど、あんなおっきな波紋だと、人間でも飛び込まない限り、あんな波紋は出きっこないよ。お父…」

「バカだなぁ。コウスケは、第一人間が飛び込んだのなら、すぐに浮かび上がってくるだろう。人間はそんなにも水の中には、潜っていられないんだからな…」

 ムナクはコウスケの、単純な発想を茶化すように言った。

「そうよな…。オレたちは、何かが飛び込む水音と、その波紋だけしか見ていない…。だから、はっきりとしたことは云えないが、この湖には魚以外の別な生き物が、生息していることはまず間違いない。しかも、あの波紋の大きさから見ても、かなりの大きさがあるとみていいだろう…」

 耕平は、得体の知れない生き物を思い描いて、思わず知らず体の奥のほうで、何かしらゾクっとするものを感じていた。

「大丈夫ですよ。コウヘイお父、例えなにが出てこようとも、おいらのこの二本弓でもって、どんなものでも倒して見せますから、安心してください…」

 それからしばらく、湖畔に佇んで湖面を見つめていた、三人だったが湖面には波ひとつ立たず、静けさだけが漂っているだけだった。

「オレたちがここにいるから、何者かは知らんが奴も用心して、姿を表さないのかも知れんな…。よし、もう一度、さっきの藪の中に隠れて、しばらく様子を見てみよう。人間を始めとして、動物はみな警戒心が強いからな。ここで、しばらく見ていよう」

 耕平たちは、茂みの中に隠れてひっそりと、湖面のほうを覗き見しながら、しばらく間雑談を交わしながら過ごした。時間にすると四・五時間だったろうか。

「おっと…、もうだいぶ日が傾いてきたな。きょうは特別邑から遠くまで、来たんだから早いとこ帰らないと、日暮れまでには下手をすると、邑へ戻れなくなってしまうぞ…」

 耕平がいうと、ムナクも立ち上がりながら、

「だけど、コウヘイお父。さっきの水飛沫の音と、あの大きな波紋は一体、何だったんでしょうかね…」

 と、自分で抱いた疑問を、耕平に問いかけてきた。

「うーむ…。三人とも水飛沫の音と、あの大きな波紋だけしか、見聞きしていないと云うんだから、どうしようもないな。せめて、ひとりだけでもいいから、あの生き物の後ろ姿を、チラっとでも見ていさいすれば、もう少しはいまよりもスッキリと、していたはずなんだがな…」

 耕平もいまひとつ、歯切れの悪い言い方をした。

「さて、そろそろ帰らないと、本当に日暮れまでに戻れなくなるぞ」

「ねえ、お父…。きょうは帰るけど、明日はどうするんだい。このままじゃ、何となくスッキリしないしさ。何とかして、あの波紋を起こした主を、おいらたちの手で調べてみようよ。ねえ、お父…」

 コウスケも波紋の正体を、このままにしておくのは、自分としても不満らしかった。

「うーむ…。やっぱりそうか、実はな。オレも本当のことを云うと、喉の奥に物が引っかかったようで、気持ちが悪くてしょうがなかったんだ。

 だからな。明日はイサクも誘って、もう少し朝の早い時間から、調べに来ようと思っていたんだ…」

「本当かい。お父…、さすがはおいらのお父だ。やったぁ…、これでスッキリするぞ…」

「だけどですよ。コウヘイお父、おいらたちがあんなに長い時間、藪の中に隠れて見張っていたんですよ。それなのに一度も姿を見せなかった。

これは、よほど用心深いか臆病かの、どっちかだと思うんですよ。ですから、明日もあまり大勢で来るのは、どうかと思うんてす。特にイサクの、バカでかいダ三声を聞かされたら、どんな動物だって逃げちゃいますからね」

「まあ、そう云うなよ。ムナク、イサクはああ見えても、気が小さくてな。

カミさんが死んだ時だって、住処でただオロオロしてただけなんだ」

「へぇー、そうなんですか…」

 ムナクは、それ以上は何も言わなかった。

「うーむ…。あの水飛沫の音と、あんなに大きな波紋か…、まるで人間が飛び込こんだみたいだ…。まさか、そんなバカな…」

 耕平は口にはしたものの、あまりにも突拍子のなさに、自分でも慌ててその考えを打ち消した。

「どうかしたんですか。コウヘイお父、何か慌ててたみたいでしたが、何かあったんですか…」

「い、いや…、何でもないんだ。ただの思い過ごしだ…。さあ、暗くならないうちに、早いとこ邑に着かなきゃいかん。みんな走って帰るぞ。それー…」

 耕平の号令の下、三人はすでに夕闇が迫りつつある、草原の中を西の邑を目指して、一斉に走り出して行った。東の空には一番星が光り始めていた。

                          



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