47. 春一番

 雪平の銃口を睨んだ海渡はそっと目を閉じた。



 「なんだ、諦めたのか? 警察庁影の捜査官も所詮はひとりの人間だったということか。残念だ」


 「あんたの言う通り俺はただの人だ。だけど、あんたと違って犯罪者にはならない」



 ゆっくり海渡が目を開け、雪平とは別の方向に視線を向けた。その方向に雪平も目を向けると、彼は顔色を変えた。



 「そこまでよ。四ノ宮雪平」


 「銃を放せ」



 紅音と裕武が拳銃を構えて、廊下から雪平に銃口を向ける。両手で力強く拳銃を持って、鋭い視線が彼を射抜いた。隣には咲良もおり、彼女らの表情は怒りに満ちている。


 咲良と目が合った雪平は口元に笑みを浮かべて目を細めた。彼が持つ拳銃はそれでも海渡から狙いを外そうとしなかった。



 「残念だ。確証がないと誰にも推理を明かさない。それが二永海渡の美学だと思っていたが、お前は俺が思うほど立派な思考を持った人間じゃなかったんだな」


 「確証はあった。だから伝えたんだ。確実にあんたを止めるために」



 刑事に囲まれた雪平は落ち着いていたが、隣にいる女は明らかに焦りを滲ませる。彼女はただ雪平の指示通りに動いていただけの人間で、自らが犯罪に加担した意識はないのかもしれない。


 海渡と楽しくデートをして、ただこの場所で夜景が見えるからと連れてきただけ。



 「雪平くん、どうして? 言ってたでしょ。私たちは法のもとで犯罪と戦わないといけないんだって。どうして殺人なんか・・・」



 咲良が雪平に語りかけるために前に出ようとしたが、裕武がそれを制した。たとえ幼馴染でも目の前にいるのは拳銃を持った殺人犯。咲良といえども何をされるかわからない。



 「司法は犯罪者を更生させようとする。自分勝手に他人を傷付けた人間をなぜ更生させる必要がある? 逮捕しても数年の刑期でまた外の世界に出て、あいつらは同じことを繰り返す。なら、処分してしまう方が早い。そう思わないか?」



 咲良は何も言い返すことができなかった。雪平が言っていることは警察官としては間違っている。だが、理解できないこともない。理不尽に命を奪われた人がいて、その人に家族や大切な人がいて、突然の死に最期の別れを伝えることも許されない。せめて同じ目に遭わせてやりたいと願う気持ちはあるだろう。


 しかし、それを許してしまってはこの世は無法地帯になる。秩序を守るために、司法は必要なのだ。感情論だけでは解決できないことがある。



 「私は、姉を殺した犯人に会ったら、この手で殺してやりたいと思った。それでも、私は刑事だから。姉も憧れた刑事として犯人と決着をつけるつもりだった。なのに、あなたは保身のために九蔵を殺害した」


 「お前がしたことは、すべて自分のためだ。お前がしたことは、お前が処分してきた人間と同じことだ」



 紅音と裕武が拳銃を構えたまま説得を試みるが、雪平はずっと微笑みを浮かべていた。何かを企んでいるかのように。



 「雪平くん、罪を償って。そんなやり方、間違ってる。ずっと優秀だった雪平くんを近くで見てきたけど、これだけはわかる。もうあなたは警察官じゃない」



 咲良が一歩前に踏み出した。



 「警察官じゃない、か。それでも構わない。刑事に向いていないことは自分でもわかってる。だったら俺は、俺のやり方で生きていく」



 雪平は隣にいる女の首に腕を回して身体の前に立たせ、銃口を彼女の顳顬こめかみに付けて人質にとった。


 海渡はその様子をまったく動じることなく見つめる。



 「四ノ宮、その女性を解放しなさい」



 紅音は雪平に向かって叫んだ。


 雪平は女を引っ張りながら窓に近付くと、彼女を突き飛ばして開放した窓から身を乗り出す。ここは二階だから、飛び降りても死ぬことはない。



 「待て、四ノ宮!」



 裕武が急いで窓に駆け寄るが、雪平はすでに飛び降りて地面に着地していた。運動が得意ではない彼はぎこちない動きで受け身をとって、こちらを一瞥すると闇の中へと消えた。


 突き飛ばされ床に倒れた女を紅音と咲良が押さえて確保した。彼女はすでに抵抗する意思がなく、無表情だった。海渡の前で見せていたあの輝かしい笑顔はどこかへ飛んでいったようだ。


 海渡は女を見下ろすが、何も言うことはなかった。


 奥寺美優はまったくの別人で、彼女は自分の人生を前向きに歩んでいる。この女が誰であろうと、その事実は変わらない。


 ただ、ほんの少しだけこの人が本当に奥寺美優で、海渡に対して偽りのない愛情を向けてくれることを願った彼もいた。


 実に哀れだが、それが人間としての感情だ。



 「海渡、追いかけなくていいの?」


 「ああ、あとは任せよう」



 海渡は開け放たれた窓から遠く光る綾瀬の街を眺めた。




 雪平は暗闇を駆けた。


 もうもとの場所に戻ることはできないが、九蔵のように生きていけばいい。散々使い物にならないと馬鹿にしてきた刑事たちを苦しめる犯罪者として生きていくのも悪くない。



 「果たしてそれがあなたにできるでしょうか?」



 突然耳元で囁かれた言葉に雪平は足を止めた。左右を見るがそこには誰もいない。


 気のせいか。



 「あなたは刑事としても、犯罪者としても無能ですよ」



 続く言葉は、はっきりと聞こえた。


 そして、雪平の進む先に人影があった。



 「九蔵か?」



 そんなはずはない。あいつは死んだ。俺がこの手で殺した。遺体は間違いなく発見された。ここにいるはずがない。



 「別に恨んではいません。あなたのおかげで楽しい思いができました。ですが、あなたはここまでです」


 「ふざけるな。お前を操っていたのは俺だ。お前は俺ので自由に生きてきたんだ」


 「そうですね。しかし、逆も然りですよ。私がいたから、あなたも生きてこられた。あなたひとりの力など、微々たるものです」


 「黙れ! お前はもう死んだ。死んだ人間に何ができる」



 雪平は道を塞ぐ人影に拳銃を構えた。



 「無様な。死んだ人間に拳銃など無意味ですよ」



 引き金を引き、反響した銃声が幾度にも重ねって耳に突き刺さる。そこにいたはずの人影は見えなくなった。


 何が無意味だ。いなくなったじゃないか。


 雪平は拳銃を仕舞って再び道を歩き出した。この先には自由がある。父親の期待も、周囲からの重圧も、何もないひとりだけの世界がある。



 「俺は負けない」


 「いいや、もう終わりだ」



 今度は別の方向から声がした。雪平は左に顔を向け、何度も聞いた嫌な声の主を視界に捉えた。



 「なんでここに・・・」


 「お前を止めるためだ」



 顔はよく見えないが、その人物は雪平に向かって冷静に語りかける。



 「俺を殺すため、だろ?」


 「どれだけ火消しをしてやったか、お前はわかってるのか? これ以上は手に負えない」



 その人物は懐から拳銃を取り出した。


 長く見えるシルエットは取り付けられたサプレッサーによるものだ。サプレッサーは銃声を大幅に軽減する効果がある。



 「残念だ」



 引き金にかかる指に力が加わるが、雪平に向けられた銃が火を吹くことはなかった。



 「そこまでです」



 突然現れた峯山がその男の手首を取って拳銃を取り上げた。それと同時に本庁の刑事が続々と現れて雪平を地面に押さえつける。


 峯山が捕らえた人物も数名によって確保された。



 「なぜだ・・・」


 「あなたが言っていた通りですよ。警察庁の影の捜査官、二永海渡は優秀なんです。あなたが思っていたよりずっとね」



 取り押さえられた男は表情を歪めた。


 雪平もまた茫然と峯山を眺めていた。何が起こったのか理解が追い付いていないらしい。


 峯山はスマホをジャケットの内ポケットから取り出して海渡に電話をかけた。すぐに電話を取った海渡は「終わった?」と訊ねた。



 「ああ、終わった。四ノ宮冬季と雪平を確保した」



 そう話した瞬間、峯山の視界の隅を何かが通った。


 青い制服を着た警察官のようだったが、この場にはスーツ姿の刑事しかいない。


 見間違えだと自らに言い聞かせながらも、もしかしたら事件が解決する瞬間を彼女が見にきたのかもしれないと考える峯山がいた。

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