45. 決意の夕方

 海渡は綾瀬中央署の休憩スペースでベンチに腰掛けて缶コーヒーを飲んでいた。


 自動販売機にお金を入れてボタンを押したらブラックコーヒーだったことに気付いたのは、それをひと口飲んだ後だった。


 いつもなら吐き出すはずの苦味も、今の海渡にとっては特に驚くものじゃなかった。後味が尾を引くくらいのものだ。せっかくお金を払ったんだから、最後まで飲まないともったいない。そんな言い訳を脳内で再生して苦味に耐えながら口に運んだ。


 あれから雪平は行方不明のまま三週間が経過した。生きているのか亡くなったのか、それすらもわからない。


 だが、海渡の考えは周りの人間たちとは違った。


 雪平は生きている。


 十五年前、夕月が殺害されたビルの跡地で最後に本人から本心を聞くことができた紅音と裕武は、気持ちに区切りがついたと言っていたが、それ以来捜査に対する姿勢が変わった。それも、悪い方向に。


 目標を失ったふたりは、どこか刑事でいることに意味をなくしたように意欲が感じられなくなった。事件が起こったら現場に急行するが、まるで意思をなくしたように淡々と関係者から聴取をし、報告書を書く。


 感情が消えたように。


 そんなことを客観的に思っていた海渡もまた、同じ気持ちでいた。咲良のおかげで十五年前に失った親友ふたりから恨まれていないことを知り、紅音に恩を返すために突き進んできた。


 この手で犯人を逮捕する。


 その目標だけが海渡の原動力だったのに、九蔵は遺体で発見された。これから先、何を追いかけて捜査員を続ければいいのか。根本的な問題が足を引っ張ることになった。


 この状況の中、全力で動いているのは咲良だけだ。


 コーヒーの苦味は、海渡の心を映す鏡。むしろ好んでいるはずの甘味が憎いとさえ感じる。


 休憩スペースがいつもいる場所とは思えない不思議な感覚に陥った。



 「海渡、ここにいたの」



 外見だけ取り繕った紅音が自動販売機でカフェオレを買って海渡の隣に腰を下ろした。顔立ちが整っている彼女はナチュラルメイクとも呼べないほどの薄い装備で実年齢よりも遥かに若く、美しく見える。


 プルタブを引いて口を付けると、「甘い」と言って目を瞑った。海渡とは違う理由で、彼女はカフェオレを選択したようだ。



 「海渡、ブラック飲めたのね」


 「すごく苦い」


 「当たり前でしょ」


 「お姉さんはまだ諦めてないんだね。坊ちゃん警部の幽霊には会ってないんだ」


 「そうね。海渡はどう思う?」


 「生きてるかもしれないし、死んでるのかも」



 それは質問に対する答えになっていないが、紅音は何も言わなかった。もうひと口カフェオレを飲むと、すでにその甘さに舌が麻痺をしたのか二度目は何も言わなかった。


 捜査していた強盗事件は実行犯を逮捕したものの、その裏にあるのは果てしない大きさの組織であることがわかった。すべてを一網打尽にすることは難しい。


 事件はこれからも増えていく。この世から犯罪がなくなることはない。


 捜査員が毎日走り回っても、そこにゴールはない。ゴールのないマラソンをいつまで続ければ、平和な世の中は訪れるのか。


 争いのない世界なんて、ありえない。


 そんなことを考え始めれば、心が折れそうになる。



 「紅音さんも少しは休みなよ」


 「今日は帰れないけどね。海渡はデートでしょ?」


 「そんないいもんじゃない。夜景を見にいくらしいよ。場所はお楽しみだってさ」


 「それはもうデートでしょ。よかったじゃない、うまくいくことを祈ってる」


 「そうだね。うまくいくといいけど」



 今夜のデートは特別なものになる。


 だから、準備を怠ってはいけない。服装はいつも通り、フードが付いた黒のロングジャケットは戦闘服だ。


 美優から連絡があったのは先週のことだった。いつもは彼女がおすすめするカフェで会っていたのだが、突然一緒に行きたい場所があると言われた。どうやら、あまり知られていない夜景の名所らしいが、事前に調べると感動が半減するとかで詳しいことは教えてくれなかった。


 あまり知られていないなら調べてもわからないのでは、と食い下がってみたものの、刑事をしている海渡は一般人より調べることに慣れているから不安だとうまく回避された。


 彼女は海渡に好意を抱いている。そして、それはすでに彼女の口から告げられている。女性からあんなことを言われたのは生まれて初めての経験だった。喜びより驚きが勝った。


 美優となら、特別な関係になってもうまくやっていけるかもしれない。そう考えた自分にも驚いた。


 ふたりで夜景を見る。


 恋愛ドラマや映画で見るような素晴らしい時間が待っている。


 だから、海渡はそれに応えなければならない。彼女を落胆させるようなことだけは、してはいけない。



 「班長、探しましたよ。海渡と一緒だったんですね」



 海渡と紅音がベンチに並んで座っていると、裕武が休憩スペースにやってきた。彼は自動販売機で缶コーヒーを買うと、別のベンチに座って身体をこちらに向ける。


 彼は微糖の缶コーヒーを選んだ。三人いてそれぞれが別々の商品を選ぶなんて、息が合っているのか否か。



 「どうしたの? 何かあった?」


 「いえ、ただ班長が見当たらなかったので探していただけです」


 「なんだよそれ。カップルかよ」


 「パートナーだ」



 海渡の指摘に顔色をまったく変えることなく、裕武は言葉を訂正した。


 夕月の事件が不本意な形で決着し、裕武は常に紅音の様子を伺っていた。よく話しかけるかと思えば、あえて距離を取ることもあった。それが彼なりの気の遣い方だったのだろう。



 「一条は今日も動いてますよ」


 「警部のことで頭がいっぱいなのよね。早く解決しないと」


 「お姉さん、もし警部が見つかったら、俺たちみたいになっちゃうのかな」



 ここにいる三人は、それぞれの目的が果たされたことで虚無感に包まれた。今の咲良は雪平のことで頭がいっぱいになっていて、周りが見えていない。だが、それは悪いことじゃなく、集中しているとも言える。


 問題は、彼女が目的を果たしたとき、彼らと同じように次の目標が見つけられずに気持ちが沈んでしまうのではないかということだ。



 「それでも、早く見つけないと。一条が倒れるぞ」


 「まあ、そうなんだけどさ」



 咲良の記憶にある雪平は、いつでも純粋でまっすぐで、ちょっとだけポンコツな憎めない幼馴染だ。幼い頃から一緒にいて、家族ぐるみで仲がよくて、そんな関係だから余計に熱が入る。警視副総監である雪平の父親だって、彼女にとっては昔からよく会っていたおじさんだ。



 「じゃあ、俺はそろそろ行くよ」


 「頑張って」


 「デート、楽しめよ」



 海渡がベンチを立つと、紅音と裕武がわざとらしく拳を突き上げて彼を見送った。


 応援団がいて心強い。


 海渡がコーヒーを飲み終えた空き缶をゴミ箱に捨てると、いつも鳴る缶同士がぶつかる音はしなかった。中のポリ袋を取り替えたばかりらしい。


 これは、幸先がいいと捉えるべきだろうか。


 休憩スペースを去った海渡が見えなくなっても、紅音と裕武はその場所から視線を動かさなかった。


 彼の後ろ姿は、戦に赴く侍のように大きかった。



 「一条はどうするんですか?」



 裕武はさっと海渡がいなくなった紅音の隣に席を移して訊ねた。



 「これ以上は駄目よね。まだ確証はないけど・・・」


 「そうですね」



 本庁と所轄が総力を上げても見つからない雪平。


 咲良ひとりがどれだけ努力してもそう簡単に見つかることはない。


 今夜、すべてが終わる。


 そう信じて、紅音と裕武は缶に残った液体を一気に飲み干した。

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