CASE 7. 初春の吹雪

44. 使い捨て

 九蔵は消えた。


 あいつはなんとも羨ましい体質だった。無痛症というらしいが、まったく痛みを感じない身体を持っていた。


 医学的に言えば、それは大変危険なことだという。怪我をしても気付かない。下手をすれば失血死をするくらいの傷でも気が付かない。痛覚は人間が身体の危険を感知するための防衛機能だ。無痛症の人間は常に気を張っていないといつ命を落とすかわからない。


 だが、俺に言わせてみれば痛みを感じないというのは素晴らしいことだ。死ぬことだって特に怖くない。ただ、痛みは御免だ。


 そんな羨ましい体質のあいつは、痛みを感じたいなどと意味のわからないことを言っていた。


 最後に見たやつは微笑んでいた。胸に穴が開いているというのに、この世界から解放される喜びを噛み締めているようだった。ただ、痛みを知らないことだけが心残りだと言い残した。


 あいつと初めて会ったのは四年前のことだった。突然声を掛けてきた九蔵は、俺の心が酷く痛んでいるなどと訳のわからないことを言ってきた。最初は頭のおかしな人間だと思っていたが、彼は俺が想像するより遥かに狂っていた。


 人を人とも思わず、苦痛に叫ぶ姿を見て興奮する。隣でその姿を見た俺は、心の底からこの男が怖いと思った。しかし、それと同時に、この男をうまく使えば理想が実現できるかもしれないとも思った。


 俺の理想は、他人を苦しめるような人間の屑を消し去ることだった。この国で報復は許されていない。どれだけ遺族が願っても、殺人犯が受ける罰は恐怖の中で死んでいった被害者の苦しみとは釣り合わない。


 だから、俺は九蔵を使うことにした。やつに情報を渡し、屑どもを掃除した。死体はうまく隠して殺人が起こったことすら誰も気付かない。そのために迷宮入りした事件はいくつかある。なぜなら、真犯人はすでにこの世にいないのだから。


 何もかもがうまくいっていたはずなのに、誤算があった。九蔵が勝手に表の世界に姿を見せたことだ。


 ずっと警察に目を付けられないように守ってやっていたのに、大阪にいた九蔵は二永海渡の前に姿を現した。いずれ海渡も消すつもりだったが、あいつが勝手なことをしたせいで俺が目を付けられた。


 だから仕方なく俺も姿を消すことにした。九蔵を消すために。


 そして、目的は達成した。だが、まだやることがある。これまでうまく使っていた九蔵が死んだことで、俺の駒がなくなった。


 九蔵がいなくなれば警察はそれ以上捜査をしなくなる。だが、たったひとり、九蔵が死んだことでさらに俺への疑いを強めた捜査官がいる。


 それが二永海渡だ。


 彼は本当に厄介な存在だ。過去に自らも友人を失った被害者なのに、どうして殺人を犯すような愚かな人間を消してしまいたいと願わないのか。


 俺の次の目的は、彼を消すこと。そして、拉致事件の被害者として保護され、表の世界に戻る。


 海渡は事件の捜査中に不運の事故に巻き込まれて死亡。いや、独自の捜査で裏の世界に首を突っ込んだせいで見せしめに殺害された。それがいい。



 「お待たせしました」



 誰もいない廃墟、コンクリートでできたその建物は、身を隠すにはもってこいだ。薄暗いその場所に呼び出していた人物が姿を見せた。


 彼女はこの計画に欠かせない。



 「うまくやっているじゃないか。二永海渡は随分君に気を許しているようだな」


 「そうかもしれませんね」


 「それにしても、あの倉庫に警察が来るのが異様に早かったのは、なぜだろうな?」



 いずれ九蔵は発見されなければならなかったのだが、ここまで早く遺体が発見されるとは思っていなかった。



 「さあ、なんのことでしょう」


 「まあいい。君にはもう一仕事してもらう」


 「もう、終わりにしませんか?」



 女は恐る恐る提案した。その表情はよく見えず、どんな感情をしているか測ることはできなかった。



 「そうはいかない。最後の目的を遂げるまで、止まるわけにはいかないんだ。それに、君だって俺と同じ志を持っているだろう?」



 女は視線を足元に落とした。


 男の言うことに偽りはないが、迷いがあることも事実だった。



 「二永海渡と連絡を取って、この場所に連れてこい。君なら簡単だろう。ここで、決着をつける」



 この廃屋に人が寄り付くことはない。つまり、ここに連れて来られれば誰にも邪魔されることなく海渡を消し去ることができる。


 ここでやめるなんてことは許されない。



 「いいか? 俺たちの理想を実現するためには必要なことだ。失敗は許されないぞ」


 「わかってます」


 「わかってるならいい。連絡を待ってる」



 女は大きく息を吐いてその場を離れた。薄暗い屋内を離れていく彼女の背中はすぐに見えなくなり、足音だけが視認できる世界の外から響いて耳に届いた。


 男は目を瞑ると、嫌な記憶が蘇った。


 四年前。



 「二永海渡。彼は優秀な捜査官らしいな」



 父はそう言った。その言葉はまるで、お前は海渡より劣っていると心を抉る刃物だった。


 しかし、それは事実だった。迷宮入りしそうなほどに難解な事件でも、海渡が関わると必ず解決する。


 トレースなどという能力を使って現場であったことが再生されるなんて、そんなギフトを受け取った彼に勝つことはできなかった。


 父のせいで俺はいつも無駄な期待をされて、最終的に「父親とは違って使えないな」と言われる。勝手に期待して勝手に落胆して、俺にどうしろと言うんだ。


 そして、俺は九蔵と出会った。あいつが言うには、俺の心は酷く痛んでいたらしい。最初は意味がわからなかったが、それは間違いじゃなかった。


 だから、俺は九蔵に言った。



 「お前のことを守ってやる。だから、俺の指示通りに動け」



 九蔵は「悪くないですね」と不敵な笑みを浮かべた。刑事としては使い物にならないと言われた俺だったが、九蔵を使って犯罪者を消す才能には秀でていた。


 二永海渡の捜査状況を把握し、彼が犯人に目星を付けるとこちらが先に動く。そうすれば、真犯人はすでにこの世におらず、海渡はその結果に自分を責めた。


 それがこの上ない快感だった。


 彼にトレースがあるなら、俺には九蔵がいる。


 それなのに、九蔵は調子に乗って勝手に行動し始めた。沖田時乃を拷問して殺害するまではよかったのだが、あろうことか川に遺体を投げ捨てるとは。


 遺体が見つかっては殺人事件として扱われる。さらに大阪にいた海渡の前に姿を現した。自分が犯人だと宣言して。


 十五年前、九蔵が三鷹夕月を殺害した廃ビルの跡地で彼を射殺した。そして、遺体をビニールに入れて倉庫に移動した。そうしないとトレースによって九蔵が殺された状況が知られてしまう。


 それでも、結局殺害現場は知られてしまった。海渡に捉われるあまり咲良の能力を忘れていた。できることなら彼女も消してしまいたいが、それはできない。俺だってまだ人間の心を残している。


 それに、幸いなことに彼女は海渡ほど優秀な刑事じゃない。彼さえ消えれば、咲良とはこれからもうまくやっていけるだろう。


 海渡は疑いの段階で自分の考えを他人に伝えることはしない。まだ確信がない状況で、他の誰も彼の思考を知らされていない。


 これが終われば、俺は現場を離れて組織を動かす側の人間になる。その方が俺の力は発揮される。


 適材適所。今いる場所が俺に適していないだけだ。


 あの女をうまく使えば目的は果たされる。



 「楽しみにしている。二永海渡」



 雪平は目を開けて、誰もいない空間を見渡した。


 その場所にいるはずのない九蔵が一瞬視界に入ったが、それはきっと気のせいだ。俺に咲良のような霊感はない。


 理想の世界を作るためには犠牲が伴う。それを理解した者こそが、真の理想に辿り着くことができる。


 ようやくここまで来た。あと一歩だ。

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