41. ファーストトレース
今回は珍しく海渡が待つことになった。
美優との待ち合わせはいつもどこかのカフェ。とはいうものの、若者向けのモダンなカフェとは違い、レトロな雰囲気を兼ね備えた落ち着きのある空間だ。
彼女は本当にいろいろな店を知っている。それも、映えという言葉が似合うような洒落た場所ばかりだ。
約束の時間はすでに過ぎたが、彼女から事前に遅れると連絡があった。大学でイベントがあって、予定より時間がかかっているそうだ。
雪平が拉致されてから一週間が経過したが、彼に関する情報は何も見つかっていない。咲良の前に現れた九蔵の言う通り、雪平がどこかで生きている可能性は極めて低いと言われている。
咲良は日に日に元気をなくし、本庁の捜査員は動き回っている足に力がなくなってきていた。心の底ではもう諦めているかのようだ。
海渡もさすがに疲労が溜まり、美優から誘われてこの場所に来た。こんな場所にいていいのかなんてことは思わない。雪平の無事を祈っているが、ひとつの物事だけに囚われているわけにもいかなかった。
彼女との時間はひとりでいる時間よりも気分が明るくなる。睡眠をとって休むこととはまた違った効果がある。
待ち合わせをしているからと店員には美優が来てから注文をすると伝えているため、テーブルの上にはおしぼりと水が入ったグラスだけが置かれていた。
思い出すのは、十二年前の事件。海渡が初めてトレースをしたあの事件。
「僕に現場を見せて」
木造のレトロなカフェでそう言った海渡はまだ十歳の少年だった。通り魔事件から二ヶ月、海渡の刺された傷も回復し、退院することを許された。しかし、小学校にはまだ通えていなかった。
あの場所を通ると、あのときのことを思い出す。精神科医は極度のトラウマがもたらすパニック障害だと診断したが、海渡にとってあの光景はただの記憶ではなかった。
はっきりとその目で見える。
あのとき起こったことが、まるで今目の前で再び起こっているかのように再生される。思い出すなどという脳が勝手に作り出すものとはまるで違う。
恐ろしいことに、海渡自身が経験していない出来事ですら見えることがある。
だから、もしかしたら夕月の事件現場でも何か見えるのではないかと、海渡は幼いながらにそう考えた。これがただの幻覚で脳内の記憶が悪戯をしているだけなのか、その場所に残る被害者の想いを受け入れようとしているのか。
それを知りたかった。
だから、海渡は入院中もずっとお見舞いに来てくれた紅音に、大切な姉が殺害された現場を見せてほしいと頼んだのだ。
待ち合わせ場所に紅音は知らない男を連れてきた。彼は柴田裕武といい、夕月の後輩だったらしい。彼もまた、何かを抱えて苦しんでいるように見えた。
「まだ完全に信じたわけじゃないけど、海渡くんの言っていることが本当だとしたら、とても辛い思いをするかもしれない。お姉ちゃんは、ただ殺されただけじゃなかったから」
拷問を受けて無惨な姿で見つかった。その話は海渡も知っていた。彼女がどのように殺害されたのか、もし本当にそれが見えたとき、海渡は目を逸さずにいられるだろうか。十歳の少年には刺激が強すぎる。
「いいよ。僕がこの力を使うことで何かが分かるなら、きっとそのためにこの力はあるんだ」
「そうは言ってもね」
紅音は海渡の申し出に感謝しながらも、彼に事件現場を見せることは本当に正しい選択なのかと思慮している。
若干十歳の少年に向き合わせるには、あまりにも悲惨な事件だ。彼の能力が本当だとしたら、あの場所で起こったことがすべて彼の目の前で再生されることになるのだ。
「柴田さんはどう思いますか?」
紅音は隣に座る柴田に意見を求めた。責任のある選択を自分ひとりで背負うことが怖かった。
自らを卑怯な人間だと恨む。
「警察官としては反対です。関係者以外に現場を見せては問題になる。だけど、この子の話が本当なら、先輩をあんな目に遭わせた犯人をこの手で捕まえたい。その能力で何か手掛かりが得られるなら・・・」
それ以上は言わなかった。
海渡の能力で何かを知ることができれば、夕月を殺害した犯人に少しでも近づくことができれば、そう願ってしまう。
だが、それはまだ幼い少年の心を破壊する可能性がある。自身が辛い思いをした後でさらに凄惨な事件に関わらせるなど、あってはならないことだ。
「やるよ。僕決めたから。いつか警察官になって、悪い人間を捕まえたい。この力は、きっとふたりからの贈り物だから。あのビルはいつ取り壊されるか、わからないんだよね? だったら早くしないと」
結局海渡の言葉に押されてしまった。本心では彼の能力を使って犯人を知りたいと願う気持ちが強かった。
その後、すぐに現場の廃ビルに向かった。入り口は施錠されていて、殺人事件を聞きつけた悪い人間が無断で侵入できないようになっていた。
海渡の話をあらかじめ峯山にしておいて、彼に鍵を持って来てもらうように話しておいた。悩んでいるように装いながらも、心の底では最初から海渡に頼るつもりだった。
紅音と峯山は海渡の事件を通じて知り合った。それまでは、立川の一刑事と交番勤務の巡査として顔を見たことがあるくらいの関係だった。
峯山は顔が広く、他所の管轄であっても土足で入り込む男だった。それなのに、不思議と嫌われていない謎の多い刑事だ。
「無茶すんなよ。子供をこんな場所に入れたと知られたら、俺たち全員ただじゃ済まないぞ」
峯山はそう言って鍵を開けると、廃ビルの中に足を踏み入れる。階段を上り屋上への扉を開けたところで、海渡は目を見開いた。その目には、他の人間には映らないものが見えている。
海渡の呼吸が次第に荒くなった。
彼の視線は左から右へ、右から左へ動き、最終的にただ一点を見つめた。その場所は、夕月の亡骸が屋上の壁に背中を預けて眠っていた場所。
「大丈夫? 無理しないで」
「何が見えたんだ?」
思いの外冷静な海渡に驚いた様子で峯山が訊ねた。彼の台詞からこの場所で何かが見えたことは間違いない。だが、本当に酷い拷問を見たのなら、死体を見ることが一般人より多い刑事であっても吐き気を催すくらいだ。
そう思って海渡を見ていると、彼は今にも吐きそうに両手で口を押さえた。なんとかそれを喉に押し込んで、彼は涙目で紅音を見た。
頑張って我慢しただけのようだ。ある意味で安心した。
「何が見えたかは言わない。だけど、犯人は人間じゃない。悪魔みたいなやつだ。人を傷付けることを楽しんでる」
恨みを持って一思いに刺す。渾身の力で後頭部を殴る。
殺人の動機は人それぞれあるが、殺すことを目的としない殺人はあまり見ない。被害者を苦しめるためにあえて痛みを与えることはあっても、その行為自体を楽しむ人間はいない。
そんなことをする者がいるとすれば、悪魔だ。
海渡が見たのはそんな光景だった。無邪気な子供が悪戯するかのように人の命を弄ぶ。決して許されてはならない行為。
『私には人の痛みが見えるんですよ』
あいつはそう言った。
もしかしたら、九蔵は自分にないものを求めているのかもしれない。
「海渡さん。お待たせしてごめんなさい」
禍々しかった気持ちは天使の一声で浄化された気分だった。急いで来たのか、息を上げ額に汗を滲ませて向かいのソファに掛ける美優はとても魅力的だった。
九蔵には、海渡が美優を見て感じる何かを、苦痛に耐える人間に見るというのだろうか。
そうだ、今日は心を休ませるために彼女に会いにきたんだ。少しばかり事件のことから離れよう。
「今日は何食べようかな」
「ここはタルトが有名なんですよ」
「じゃあ、それにしよう」
「私も同じものにします」
優しく微笑む美優を見ていると、海渡は生きている実感が湧いた。
今はしばし忘れよう。
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