42. 無痛

 雪平が拉致されてから十日が経過した。


 裕武がハンドルを握り、サイレンを鳴らす捜査車両が広大な田畑の中を通る車道を時速八十キロで駆け抜ける。助手席に紅音、後部座席には咲良と海渡が座っていた。他の捜査員も各々現場に向かっている。


 咲良は落ち着かない様子で窓の外を見ては身体を揺らす。対照的に隣にいる海渡は目を瞑って何かを考えているようで、その身体は車両の振動でわずかに揺れるだけだった。


 三十分前、一件の通報があった。倉庫で人が死んでいる、と。通報人は自らの名前も告げずに電話を切ったそうだが、女性の声だったという。


 その倉庫は前回の事件で上谷沙保里が監禁された倉庫だ。その場所に九蔵がいたことを考えると、そこにある遺体はおそらく・・・。


 その嫌な予感が咲良の辛うじて保っていた平常心を今にも破壊しようとしていた。


 裕武がルームミラー越しに咲良を確認し、紅音の方を見た。後ろを振り返らなくても咲良の気持ちがよくわかる紅音は何も言わずに頷いた。


 車両は倉庫の敷地に滑り込み、エンジンを止めると咲良がドアを開けて駆け出した。紅音は咲良の腕を掴んで引き留める。



 「通報自体が罠かもしれない。落ち着いて」


 「すみません」



 まずは裕武が扉をゆっくりと開けて中の様子を確認した。昼間でも薄暗い倉庫内は、以前来たときよりは細部まで見ることができた。前回は夜だったので、わずかな月明かりだけが頼りだった。



 「入ります」


 「気を付けて」



 紅音を必ず守ると誓った裕武は先頭を歩いて、その後ろを海渡が進む。紅音は咲良が取り乱したときに彼女を止められるようにさらに後ろでそばを離れなかった。



 「誰もいないな」


 「遺体もないね」



 裕武と海渡が建物内を見回るが、人どころか通報にあった肝心の遺体も見当たらなかった。通報はただの悪戯だったのか。


 だが、確かに腐敗臭がする。遺体が放つ独特の刺激臭だ。



 「九蔵!」



 突然咲良が叫んだ。その声に驚いた裕武と海渡は咲良の視線の先を追って戦闘態勢をとった。


 やはり罠だったのか。



 「雪平くんはどこ?」


 「前にも言いましたが、私にはわかりません」


 「ふざけないで! あなたが殺したんでしょ!」


 「私は殺していません。あの人は痛みに苦しむような人間じゃない。美しくないんですよ」



 この男は一体何を言っているんだ。人を傷付け、痛みに苦しむ姿を見て美しいなどと生命への冒涜だ。


 咲良は紅音が彼女の腕を掴んでいる手を振り払って地面を蹴った。耐えられなかった。この男を一撃でもいいから殴りたい。刑事として間違っていても、後で問題になっても関係ない。


 大切な幼馴染を苦しめた九蔵に罪の意識はない。裁きを受けることですら、この男の心には響かない。この怒りをぶつけたい。



 「止まれ、一条!」


 「お姉さん!」



 裕武と海渡に止められてもなお、咲良は足掻いてふたりの手を振り解こうとした。



 「咲良ちゃん! 落ち着いて!」



 背後から追い付いた紅音が咲良の肩を掴んだ。



 「紅音さんは平気なんですか? お姉さんを奪った男が目の前にいるのに」



 咲良はその両目で九蔵を捉えたまま紅音に思いをぶつけた。誰よりもこの男を恨んだのは紅音のはずだ。どうして冷静でいられるのか、まったく理解でなかった。


 刑事だから?


 それ以前に私は人間だ。



 「お姉さん! 九蔵はここにいない!」


 「そこにいるでしょ? 今も笑ってるじゃない!」


 「九蔵が見えてるのはお姉さんだけだ」


 「え?」



 海渡の言葉に咲良の身体から力が抜けた。こんなにはっきり見えて、会話までしているのに、他の三人には見えていないというのか。


 こんなに近くにいるのに、何もできないなんて。



 「そういうことです。私はもうこの世にいない」



 そう語る九蔵のそばに大きな木の箱があった。裕武は紅音と目を合わせると、その箱に近づいていき、ゆっくりと蓋を開けた。


 密閉されていた箱の中から鼻を突く臭いが倉庫内に広がっていく。耐えられずにその蓋を閉めると、裕武は箱から離れて全員で建物の外に出た。



 「ありました。九蔵の遺体が」



 十五年ぶりに見た九蔵はあの頃の若さはないものの、その姿は裕武の記憶にある九蔵と同じだった。正方形の箱の中で体育座りの体制で腰を曲げて押し込まれた彼からもう狂気は感じなかった。臭いが漏れないように身体にビニールの包装がされていて、まるで海外から輸入してきた商品のようだ。



 「なんで九蔵が?」


 「現場はここじゃない。トレースはできなかった」


 「殺されてここに運ばれたということか」



 前回この倉庫で海渡が九蔵と対峙したとき、彼はまだ生きていた。でなければ、海渡に彼の存在が見えることはない。


 紅音は署に報告し、鑑識を手配した。その結果、九蔵は殺害されてから一週間以上が経過していることがわかった。心臓を拳銃で撃たれて即死だったらしい。


 なぜ九蔵が殺されたのか。誰に殺されたのか。すべてが九蔵の仕業だと考えていた三鷹班や本庁にとって激震が走る結果となった。



 「紅音ちゃん」



 倉庫の外でひとり空を見上げていた紅音に声を掛けたのは峯山だった。雪平が拉致されてから彼はひとりで単独行動をしており、課長から問題視されていたようだが、彼にとってそんなことはどうでもよかった。


 発見されたのが雪平じゃなかったことに安堵した一方で、今回の拉致事件の真相が暗闇に消えた。



 「自分でもよくわからないんです」


 「複雑だろうな」



 紅音は峯山を一切見ずとも声だけで彼だと気付いた。聞き慣れたその声は、荒んだ心を落ち着ける効果があった。



 「お姉ちゃんを殺した犯人をこの手で捕まえることだけを目標に刑事を続けてきたのに、こんな形で犯人が死んでしまうなんて。この十五年間はなんだったんだろうって」


 「無駄じゃない。望んだ結果じゃなかったかもしないが、紅音ちゃんの気持ちはちゃんと届いてる」


 「だといいんですけど」



 空を見上げる紅音の目には夕月の記憶が映っているのだろう。


 いつもお節介で優しくて、笑っていた綺麗な姉の姿が。



 「峯山さんの噂はこっちまで届いてますよ」


 「ハンサム刑事の活躍ってか?」


 「単独行動の問題刑事」


 「今に始まったことじゃない」


 「威張らないでください。周りにも迷惑かけてるんですから」



 雪平を救うために焦る気持ちはわかるが、そのために組織の輪を乱すことは許されない。



 「結局警部殿は見つからないままか」


 「何がなんだか。どうして九蔵が殺されたのか、誰に殺されたのか。何もわからなくなりました」



 咲良は九蔵の記憶を覗くことができなかったと言った。殺害現場じゃない場所で見つかったことで、海渡のトレースを使うこともできない。


 能力があっても今回は役に立たないとふたりとも無力を嘆いた。仕方のないことだ。そもそも、そんな能力を持っていることがありえないのだから。


 紅音が気になることはひとつだけだった。この結末を姉はどう思っているのか。きっと夕月のことだから、紅音はよく頑張ったと笑って褒めてくれるに違いない。


 だけど、そうであれば余計に辛い。誰よりも納得していないのは命を奪われた彼女だから。



 「紅音さん」



 咲良に名前を呼ばれて振り返ると、彼女の姿が一瞬夕月に見えた。それはただの見間違いで、彼女と姉はまったく似ていない。赤の他人なのだから当然だ。



 「どうしたの?」


 「一緒に来てほしい場所があるんです」


 「署に戻らないと。九蔵は犯罪者だけど、それでも殺人事件は捜査する義務があるし」


 「班長、行きましょう。みんなには先に署に戻るように伝えました」



 咲良だけでなく、裕武まで紅音を説得する。その後ろには海渡がいて、彼もふたりに同意して頷いた。



 「どこに行くの?」


 「乗ってください」



 裕武は捜査車両の助手席側のドアを開けた。


 きっと何か意図があるはず。紅音は彼らの言葉に従って助手席に座った。

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