40. いつかの償い

 「班長、どちらへ?」



 刑事課を出ようとする紅音に裕武は声をかけた。それも、慌てた様子で彼女がひとりで動こうとすることを阻止するように。



 「課長に呼ばれたのよ。署からは出ないわ」


 「そうですか。出るときは必ず声をかけてください」


 「歳下でも私の方が上司なんですけどねー」


 「知ってます。でも、俺はあなたを守ると約束したので」


 「ちょっと、みんないるんだからそんなこと言わないで」



 三鷹班の捜査員はふたりの掛け合いを見ながら下品な笑みを浮かべた。彼らは紅音と裕武の関係がどうにか進展しないかと様子を伺って楽しんでいるのだ。


 仕事中はしっかり者の紅音は頬を紅く染めて逃げるように廊下を去っていった。


 彼女を見届けた裕武は刑事課にいる咲良のもとへ進む。デスクにいる彼女は雪平の無事を願って他の仕事がまったく手につかない様子だ。その気持ちは裕武にも痛いほどわかる。


 無事を祈って、その結果が最悪の形で足音を立てて近付いてくる恐怖を。



 「一条」


 「はい」



 裕武の声に反応して顔をあげた咲良はいつもより老けて見える。容姿が変わったわけじゃなく、まるで悪いものに取り憑かれたように負のオーラを放っていた。


 咲良の前に現れた九蔵が、雪平はもういないと彼女に言った。それはつまり、雪平はもう殺害されたという意味だ。しかし、彼の遺体は未だ見つかっておらず、九蔵の証言だけで判断することはできなかった。



 「今は信じろ。警部はやるときはやる男なんだろ?」


 「はい、そうですね」



 そんな励ましが咲良の気持ちを劇的に変えることはない。でも、ひとりでずっと落ち込んでいるだけでは、何も変えられない。


 裕武はそれ以上かける言葉が見つからず、自らのデスクに戻って背もたれに腰を預けた。


 本当は、裕武自身が同じ言葉をかけてほしいのかもしれない。あの日の後悔を、誰にも言わずに十五年間心の奥底に閉じ込めてきた。


 もっとうまくやっていたら、夕月は今でも生きていたかもしれない。そして、紅音とふたりで刑事になっていたかもしれない。紅音を十五年間鎖で巻き付けてきた呪縛は、存在しなかったかもしれない。


 この話は、紅音にすら伝えていない。



 先輩が殺されたのは、俺のせいだ。




 八月、頭上から刺す日差しで頭が燃えそうな日。二十三歳の柴田裕武は綾瀬北交番で落とし物を届けにきた小学生の対応をしていた。


 半袖短パンの小学二年生の少年は、友達の家に行く途中で落ちていた百円玉を持ってきたのだった。大人になると百円くらい、と自分のものにする人もいるのだが、まだまだ純粋な心を持っている彼の年代の子供は、いいことをしようと正しい選択を心がける。


 そんな彼の気持ちを尊重するためにも、裕武は正しい手続きをして百円玉を大切に預かった。


 少年は今夜の花火大会をとても楽しみにしていて、友達とりんご飴を食べるのだと常に話し続け、裕武は少し大袈裟に反応しながら職務に当たった。


 自らの行いに満足して笑顔で去っていく少年に手を振って見送ると、裕武は灼熱の道路から交番内に入った。それでも、ただ日陰に隠れることができるくらいで、交番内は決して快適な空間ではなかった。



 「柴田くんは真面目ね」



 裕武の対応を嬉しそうに見ていた女性警官が後輩に労いの言葉をかける。凛とした彼女こそ三鷹夕月、紅音の姉であり、裕武の教育係だった警察官だ。彼女は二十五歳で、妹の紅音とは五歳離れていた。



 「私の妹と柴田くんってなんか似てるのよね」


 「立川にいるんでしたっけ?」


 「そう、まだまだフレッシュな新人警官。私と同じでいつか刑事になりたいって。将来同じ部署になることがあったら守ってあげてね。あの娘すぐ無茶するから」



 そう言って微笑む夕月はとても綺麗だった。大学を卒業して警察学校に入り、まだまだ新人の裕武は彼女に惚れていた。恋愛感情がまったくないわけではないが、どちらかといえば警察官としての憧れが大きかった。


 身体は華奢でまだ幼さが残る若い女性だが、内に秘める強固な信念と決して折れない軸のようなものが備わっていた。


 裕武が一息つこうとすると、ひとりの老人が交番の外から彼に声をかけた。夕月が対応すると言ったのだが、声をかけられた手前無視をしたようで気持ちが悪い。裕武は申し出を断って男性の対応を開始した。


 このあたりでは見たことがない人で、話を聞くと知人の家を訪ねたいらしい。電話で住所を教えてもらって調べてから来たが、実際に来てみると途中でよくわからなくなったそうだ。


 裕武はその住所を書いたメモを見せてもらい、詳しい場所を調べた。交番からあまり遠くないので、歩いて五分ほどの場所だと説明した上で、メモ用紙に簡単な地図を書いて渡した。まっすぐ進んで飲食店がある交差点を右折するだけの簡単な道順だ。


 その男性は非常に感謝して裕武にお礼を伝えると、元気な足取りで教えられた道を進む。彼を見送っていると、交番内で夕月が電話を取った。


 裕武が再び交番に戻ると、夕月は喧嘩があったそうだと呆れた表情で裕武に言った。



 「見てきましょうか? 場所はどこですか?」


 「ううん、私が行ってくる。女性同士の喧嘩らしいから。すぐそこだし、留守番お願い」


 「わかりました」



 夕月は交番前にある自転車にまたがって、勢いよく漕ぎ出した。


 女性同士でも喧嘩をすることはあるだろうが、警察を呼ぶほどとなると暴力沙汰に発展しているのかもしれない。そんな場合でも、男性警官が対応すると身体を触られただのトラブルになることがあるので、今回は夕月が対応すべきなのだろう。


 夕月が交番を出てから一時間が経過したが、彼女から連絡はなかった。もしかしたら、争いが拗れているのかもしれない。裕武は夕月に電話をかけてみたが、応答はなかった。


 留守番を頼まれたので交番を離れることもできず、そういうときはなぜか来客がある。裕武と同じ歳頃の男性が交番に入ってきた。



 「どうされました?」


 「これが落ちてたんですけど」



 そう言ってカウンターに置かれたのは、夕月の警察手帳だった。あの先輩が警察官としてもっとも大切なものを落とすとは考えにくい。


 何かあったのか。


 裕武の中に嫌な予感が広がっていく。



 「これはどこに?」


 「すぐ近くです。大切なものだと思ったので」


 「ありがとうございます。持ち主の警官は見ませんでしたか?」


 「いいえ、見つけてたら直接渡したんですけど」



 確かにその通りだ。焦りのせいで冷静な判断ができなくなっている。



 「あの、もう行ってもいいですか? 予定があって」


 「ああ、すみません。ご協力感謝します」



 男性は急ぎ足で交番を去った。


 裕武は急いで上司に報告を行った。夕月をよく知る上司も何かあったのかもしれないと慌てた様子で夕月の捜索が始まった。


 しかし、その日夕月が見つかることはなかった。花火の音すら耳に入らないほど、裕武の脳内には彼女だけがいた。


 翌朝、彼女は解体予定だった廃ビルの屋上で発見された。見るも無惨な痛々しい姿で。


 あのとき、夕月じゃなく裕武が喧嘩の現場に向かっていれば。


 裕武に責任はないとみんなが言った。確かに、あの状況で先輩に歯向かってまで裕武が交番を出る選択肢はなかった。こんなことになるなんて知る由もなかった。


 その数日後、裕武の前に警察手帳を届けたあの男が現れた。


 そして、彼は言った。



 「あのビルの屋上から見た花火はとても綺麗でした。あなたにも見せたかった。三鷹さんの姿を」



 こいつが犯人だった。


 俺は、犯人が目の前にいたのに何もしなかった。あのとき、交番にこの男がいたとき、先輩はまだ生きていたのに。




 「柴田くん!」



 意識が飛んだように過去の記憶に潜っていた裕武は、紅音の声で現実世界に引き戻された。



 「どうしたの?」


 「いえ、ちょっと疲れが」


 「無理しないでね」



 無理をしないわけにはいかない。


 あなたを守ることが、俺にできる唯一の先輩への償いだから。

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