38. のしかかる重圧

 雪平が拉致された翌日の午後七時、綾瀬中央警察署捜査一課で海渡がソファに座ったまま壁を眺めていた。


 近くには誰もいないのにずっと独り言を話していて、彼をよく知る三鷹班の捜査員ですら不気味に感じるほどだった。紅音が話しかけても返事は上の空で、裕武もこんな状態の海渡は初めて見たと言う。



 「なんで坊ちゃん警部が拉致されたんだろう」



 ずっとその疑問の答えを探しているようだが、それは誰にも辿り着けない目標だ。


 雪平が独自に掴んでいた強盗犯の情報は一体どんなもので、どこから入手されたものだったのか。一緒にいた峯山にすら明かされていなかったそれを知るには、雪平を見つける他ない。


 警察への挑発だったとしても、何も要求がないという説明し難い状況だった。


 咲良は自分のデスクでずっとスマホに着信がないかと期待していた。頼りない印象で抜けているところもあるが、雪平は勉強ができるし、やるときはやる人間だ。


 うまく逃げ出すか、少なくとも自分の居場所の手掛かりを伝える方法を見つけるのではないだろうかと信じた。


 そして、その連絡は誰よりも先に咲良のもとに来るのではないかと。


 まったく足取りが掴めない今、本庁が総動員で動いても手掛かりがなく、三鷹班も昨日から動き続けて捜査員の疲労とストレスが溜まっている。


 拉致された現場で海渡がトレースを行うも、峯山から得られた証言以上のことは何も発見できなかった。


 人が亡くなったわけでもないので、咲良の能力を使う術もなく、唯一頼れる夕月を探しても出会うことはなかった。


 前回最後に彼女と話したとき、紅音をよろしくと言われた。あれは本当に最後の別れの言葉だったのだろうか。影が潜んでいるとは、雪平を拉致した犯人のことを指していたのだろうか。


 何もかもがわからない。


 重い空気が漂う刑事課に、突然空気を大きく変える出来事が起こった。



 「三鷹班長はいるかな?」



 顔を出したその男に、課長が飛び上がって席を立った。すぐに彼のもとへ駆け寄り、普段の数倍姿勢を正して対応する。


 他の捜査員たちもその姿を見ると、一斉に立ち上がった。



 「咲良ちゃん。久しぶりだな」



 威厳を感じさせるスーツ姿の男は室内に入ってくると、咲良のそばに立った。



 「おじさん、じゃなかった。警視副総監、こんなところでどうされたんですか?」


 「かしこまらなくていい。三鷹班長に話があってね」



 普段は所轄に足を運ぶことなどまずあり得ないその男は、四ノ宮冬季ふゆき。雪平の父であり、警視庁警視副総監である彼は、咲良を幼い頃から知っていた。



 「あの、三鷹は私です」


 「少しだけ時間をもらえるかな?」


 「はい、こちらへ」



 紅音は冬季をソファに案内したが、そこには彼の来訪に気付いていない海渡がいた。



 「海渡、席譲って」


 「いや、いい。彼にも同席してもらいたい。噂はよく聞いているよ、二永海渡くん」


 「誰? 偉い人?」


 「警視副総監よ! 失礼なこと言わないで!」



 誰が相手でもまったく対応を変えない海渡に対して紅音が厳しく注意をしたものの、それでも彼はいつも通り緩慢な動きで立ち上がってソファを空けた。


 室内が静寂に包まれ、緊張という名の見えない拘束力が働き始めた。疲労を溜めていた捜査員たちは、それ以上の何かに身体が硬直したように動かなかった。


 咲良と裕武は距離を置いてその様子を伺う。



 「それで、お話とは?」


 「雪平のことだ。知っての通り息子なんだが、拉致されてから何も手掛かりがなくて、もう子供じゃない年齢でも心配でね」



 いくつになっても子供は子供。ましてや犯罪者に拉致されたとなると心配になることは何も不思議じゃない。



 「我々も全力で捜査を行っていますが、何もわからずで、申し訳ありません」


 「違うんだ。責めるために来たわけじゃない。ただ、今まで数々の事件を解決してきた三鷹班と二永くんなら、どうにかしてくれるんじゃないかと思ってね」


 「ひとつ聞きたいことがあるんだけど」



 紅音の隣に座る海渡が口を開いた。その言葉遣いは相手が警視副総監であってもお構いなしだ。



 「強盗犯について警部がどんな情報を持っていたか聞いてない? ひとりだけ犯人に関する情報を持っていて、それを上司に報告せずに策もなく逮捕しようと乗り込むなんて将来を約束されたキャリアの息子さんにしては、違和感のある選択じゃない?」


 「確かにその通りだ。私にも雪平が何を考えてそんな行動に出たのか、話を聞いたときは理解ができなかった。残念だが親である私も何も聞かされていない」


 「そっか。それじゃ、何もわからないな」



 いくら特殊な能力を持っていようが、今回ばかりは謎が謎のままで進展しそうにない。



 「どうか、雪平を救ってやってほしい。仕事に私情を持ち込んではいけないとわかっていても、親としてもう一度あいつに会いたい。どうか、頼む」



 冬季はソファに座ったまま深く頭を下げた。向かいにいる紅音が「頭を上げてください。全力を尽くしますから」と恐縮し、その隣で海渡は解けないパズルに頭を悩ませ、課長は再びこちらに駆け寄って「必ず御子息を救います」と宣言した。


 息子を大切に想う冬季の気持ちはよくわかる。警視副総監としての顔と父親としての顔、どちらも本当の彼の顔であり、切っても離せないものだ。そして、どちらのそれも、悲痛に助けを求めている。



 「大変なときに失礼したね。私はこれで。咲良ちゃん、少しだけ話せるかな?」


 「はい」



 咲良が冬季に連れられて刑事課を去った。


 残された捜査員たちは緊張の糸が切れたようにだらりと椅子に座り込んだ。その中でひとり、海渡だけはずっと姿勢を変えずに思考の世界に潜っていた。




 「コーヒーでいいか?」


 「ありがとうございます」


 「できれば、いつも通りに接してほしいな」


 「警察署内ですし、そういうわけには」


 「なら、これは命令だ」



 綾瀬中央署内の休憩スペースに移動した咲良と冬季は自動販売機で缶コーヒーを買ってベンチに腰掛けた。


 幼い頃から知っていた冬季は、咲良にとって頼れるおじさんであり、幼馴染の父親だ。子供の頃はタメ口で親しく話したし、今でもプライベートならそうするだろう。だが、ここは警察署で咲良は新人の刑事。そして、隣にいるのは警視副総監という一介の刑事では直接話す機会すらまず与えられない人物だ。


 命令というのであれば、従わざるを得ない。


 咲良は缶コーヒーのプルタブを引いてひと口だけ喉に流し込んだ。



 「雪平くんはきっと無事だよ」


 「私もそう信じている。あいつにはいつかこの組織を導く人間になってほしい。そう思っていろいろと助けてきたんだが、そのせいでむしろ苦しんだのかもしれないな」


 「そんなことない。おじさんに感謝してるはず。もちろんプレッシャーもあるだろうけど」



 警視副総監の息子というレッテルを貼られた彼は、どこにいても丁重に扱われる。周囲から見れば特別扱い、親の七光だとよく思われないことが多い。それでも、父の期待に応えようと彼は精一杯努力している。そのことを咲良はよく知っていた。



 「刑事には慣れたか?」


 「まだまだかな。班の人たちはみんないい人だし、いろいろ経験させてもらってるけど、壁にぶつかることばかりで」


 「最初はみんなそうやって足掻きながら成長するんだ」


 「おじさんも?」


 「もちろん。失敗も数えられないほどしてきた」



 キャリア組も大変なんだな。


 一握りのエリートが上がることのできる階段があり、その資格を得たからといって必ず順調に一段ずつ上っていけるわけじゃない。途中でその階段から突き落とされて二度と上がって来られないことだってある。


 だから雪平は苦労しているのだ。父親が上がっていった道を追っているから。それは決して容易いことじゃない。



 「それじゃ、私はそろそろ帰るよ。妻も落ち込んでいて、今はそばにいてやりたい」


 「そうだよね。おばさんにきっと大丈夫だって伝えておいて」


 「ありがとう。また近いうちに食事でも。そのときは雪平も一緒に」


 「うん、必ず」



 なんとしても雪平を無事に見つけないと。


 咲良は一息に缶コーヒーを飲み干すと缶を力強く握った。潰れた空き缶をゴミ箱に投げ入れて、刑事課へ引き返した。

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