36. それぞれの関係

 雪平は幼い頃からロマンチストだった。咲良を喜ばせようとサプライズをすることもあった。


 交際したことは一度もないが、それだけふたりは距離が近かった。


 そんな彼とふたりバーで酒を酌み交わしていると、時の流れを感じる。


 落ち着いた空間の酒場は、メインの通りから細い路地に入ったところにあり、階段を下りた地下に入口があった。


 黒髪をオールバックにジェルで固めて白いシャツにベストを重ねた中年男性が注文された酒を作っては客に差し出す。


 咲良と雪平はカウンターに並んで座り、少しずつ酒を飲みながら話していた。



 「三鷹班には慣れた?」


 「刑事の仕事は大変だけど、紅音さんや柴田さんはいい上司だから充実してるよ。けど、事件を解決してもなんだかスッキリしなくて」


 「それは仕方ないよ。人が亡くなってるんだから」



 そう、彼の言う通り。すでに人が亡くなってから捜査は始まる。時間を巻き戻して被害者を救うことができたらどれほど素晴らしいか。


 絶対に不可能なことを望んでしまう。


 だが、今回の事件のように別の被害者のために殺人を犯す人物がいて、ひとりの人間としては自業自得の被害者への怒りが大きくなることもある。


 逮捕された塩田梨花はすべてを包み隠さず話した。


 幼い頃に事故に遭い、顔に傷ができたことで虐めを受けてきた。そんな自分とよく似た境遇の少女と会い、彼女を救いたいと思った。


 虐めをする三人を排除することと、梨花自身を虐めたやつらへの復讐を重ねたのだ。


 予定外だったのが、主犯格としてもっとも憎んだ上谷沙保里のみが生き残ったこと。そんなときに近付いてきたのが九蔵だったという。


 警察が梨花を疑い始めた頃、九蔵は沙保里を病院から拉致することで警察を欺くことを提案した。彼の狙い通りにことは進んだが、海渡によって最後の目的は阻止された。


 不思議なのは、九蔵の行動だ。なぜ警察よりも早く梨花に接触できたのか、なぜ彼は梨花に協力したのか。


 結局彼は応援が駆けつける前に逃走し、現在も行方はわかっていない。



 「犯罪なんてこの世からなくなればいいのに」



 咲良がふと思ったことが、自然と口から漏れ出した。



 「命を奪った人間は、命によって罪を償う」


 「え?」



 死には死を。そう語る雪平の視線は、うつろだ。



 「遺族なら、そう望むのかなって。刑事として報復を許すわけにはいかないけど、気持ちがわからないことはないだろ?」


 「そうだね。でも、私たちは法のもとで犯罪と戦わないと」


 「ああ、被害者の思いを遂げられる刑事でありたいな」



 咲良は暖かくなった喉に少量の酒を流した。





 紅音と裕武は行きつけの大衆居酒屋で乾杯した。始まりはいつも生ビールだ。


 周囲で老若男女が明るく賑やかに盛り上がっている。



 「一条は今頃四ノ宮警部とお洒落なバーにいるんでしょうね」


 「私たちはこっちの方がお似合いなのよ。私と一緒ならどこにいても幸せでしょ?」


 「ええ、そうですね」


 「感情込めて言ってよ」



 交際しているわけじゃないし、関係はただの職場の上司と部下。それでも、このふたりの間には特別な何かがあった。


 紅音と裕武が出会ったのは十五年前。きっかけは忘れたくても忘れられない辛い事件だった。



 「結局今回もお姉ちゃんに助けられたのね」


 「一条の話では、先輩は影に気を付けろと言っていたそうですが、九蔵のことなんでしょうか?」


 「うーん、そうだと思うけど」



 紅音は咲良と海渡から受けた報告のみで事件の概要を知った。班長として何も役に立たないようで悔しかったが、どれだけ願っても姉に会うことはできないし、トレースもできない。


 彼らの特殊な才能の前では、紅音も裕武も平凡な刑事だと思い知らされる。


 夕月が咲良に伝えた影が九蔵だとしたら、彼は何かを企んでいることになる。紅音が彼を憎むのは当然だが、どうして彼がこちらに執着するのだろうか。その理由はわからない。


 大阪にいた海渡の前に九蔵が現れたときから、すでに何かが始まっていたのかもしれない。



 「九蔵が何をしようと、班長のことは守りますよ」


 「そんなかっこいいこと言っちゃうんだ。惚れちゃうかも」


 「もう惚れてるかと思ってました」


 「もうちょっとかな」


 「頑張ります」



 こんな会話をする時間がどれだけ平和で愛おしいものか、幾度となく危機を乗り越えてきたからこそ実感する平凡な幸せだ。



 「九蔵が向こうから来てくれるなら、むしろ歓迎するわ。お姉ちゃんの仇は絶対にとる」


 「相手は人を殺すことをなんとも思わないシリアルキラーです。もしものときは、自分の命を最優先に考えてください」


 「それは、柴田くんも同じ」


 「いいえ、何があっても、俺は班長を守ります」



 こんなに意思の固い裕武は初めて見た。酒に酔うにはまだ早すぎる。彼は本心から言葉を放っている。


 だけど・・・。



 「もう酔ってるの?」


 「はい、今日のビールはいつもよりアルコールが強いようです」



 今はまだ、そういうことにしておこう。夕月に犯人を逮捕したと報告するまでは、本当の幸せなんて手に入らないから。





 海渡はカフェに到着した。今日はデートだということになっているそうだが、そういうものは苦手だからあまり意識しないことにした。


 先に入っていた美優が海渡の姿に気付いて手を振る。店員に待ち合わせだからとまっすぐその席に向かった。



 「お待たせ」


 「私も今着いたばかりです」



 海渡は美優の向かいのソファに座った。


 やってきた店員に注文したのは、パイ生地にアイスクリームが乗ったスイーツとココアで、美優も同じものにした。



 「事件、解決したんですね」


 「美優の目撃証言のおかげで」


 「役に立ててよかった」



 殺人の現場を目撃して酷くショックを受けた美優は、すでに元気になったようだ。過去のトラウマを思い出して、また精神的に落ち込むようなことがなくて本当に安心した。



 「海渡さん、ちょっと疲れてるみたいですね。今日お誘いしたのは迷惑だったかな」


 「そんなことないよ。お礼を伝えたかったし、君と一緒にいるとなぜか心が落ち着くんだ」


 「それならよかったです。私も海渡さんといるとすごく楽しいです」



 注文したアイスクリームとココアがふたつずつ運ばれてきた。濃厚なバニラと甘いココアの組み合わせは最高だ。


 この歳になっても、アルコールより甘いものの方が好きだ。きっとどれだけ歳をとっても、それは変わらないだろう。


 幸せそうにアイスクリームを食べる美優を見ていると、なぜか海渡まで嬉しくなる。今まで経験したことのない不思議な感覚だった。



 「あの、失礼かもしれませんが・・・」


 「ん?」


 「海渡さんは、誰か気になっている人はいますか?」


 「気になってる人?」



 海渡の脳内に浮かんだのはある人の顔だったが、それは決してポジティブな理由じゃなかった。



 「気になっている女性という意味で」


 「ああ、そっちか。それはいない」



 常に仕事と結びつけるのは悪い癖だ。プライベートの時間くらいしがらみに縛られず生きたいものだが、それがなかなか難しい。


 恋愛には今まで縁がなかった。きっとこれからも関わることはない。


 仕事で会うのは紅音と咲良くらいのものだし、彼女たちはそれぞれ想う人がいる、はずだ。多分。



 「じゃあ、私が彼女に立候補してもいいですか?」


 「ふぇ?」



 ココアを飲みかけた海渡は突然の言葉に普段発しない声が出た。



 「本気です。海渡さんといる時間はとても楽しくて、もっとたくさんあなたのことを知りたいと思いました。すぐに答えを出してほしいわけじゃありません。ただ、彼女の候補として考えてくれるかだけ知りたいんです。そもそも私のような人が苦手なら期待するだけ無駄ですから」



 どう答えたらいいものか。


 突然のことに思考が停止した。どんな事件よりも捜査が難しい。自分の心なのに、答えがわからなかった。


 でも、美優との時間が楽しいことは事実だ。



 「恋愛のことはよくわからないけど、美優のことは好きだよ。人として」


 「そうですか。それだけわかれば今は満足です」



 美優は笑顔でまたアイスクリームに手を付けた。


 その後、あれだけ美味しかったアイスクリームとココアの味が薄くなった気がした海渡だが、不思議とそのことに不満はなかった。

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