35. 不条理な世界
男は椅子に拘束されて座ったまま眠る少女を見下ろした。鋭い眼がハットの下から覗いて少女を射抜く。
病院から少女を拉致することは簡単なことじゃないが、金を払えばなんでもする人間がいる。つい最近沖田時乃から奪った現金をいくらか見せると、彼らは喜んで協力してくれた。
病室前にいる警官は常にひとり。その情報を事前に得ていたので、裏家業を生業にする者であれば特に困難な仕事ではなかっただろう。
そうして上谷沙保里は今この場所で眠っている。
そろそろ彼女はやってくるだろう。目的を果たすために。
警察には不思議な力を持った捜査官がいると聞いていたが、それが二名に増えるとは思っていなかった。
事実、あの一条咲良という刑事は塩田家の前で常人には見えない何者かと話していた。
別に疑ってはいない。自分自身がそういった類の能力を持っているから。
塩田梨花は過去に受けた虐めで人生を狂わされ、同じ境遇の少女と出会ってその娘のために何かしたいと願った。
それが虐めている人間を殺害することだったから心が踊った。梨花を見た瞬間、彼女の中にあるドス黒い感情がこの目に映った。
特殊な能力を持つふたりの刑事なら、すぐに彼女の存在に気付く。梨花に見張りが付くことも想定内だった。
彼らは焦っていることだろう。本命だった被疑者はずっと自宅に籠もっているのに、護衛対象の少女が病院からいなくなった。
そして、この場所を特定する術はない。
住宅地から離れた広大な田畑の中にあるひとつの倉庫。すでに使われておらず、どれだけ声を出しても周囲に人はいない。
車道があるので車は通るだろうが、エンジン音が響く車内に助けを求める声が届くことはない。
万が一、誰かに気付かれたとしても絶対に捕まることはない。
「おや、いらっしゃいましたね」
「計画通り、刑事はいなくなりました。あとはその女を殺して・・・」
黒いパーカーのフードを脱いで、塩田梨花は倉庫に現れた。頬にある大きな傷は、もう隠す必要もない。
椅子に縛られて眠る上谷沙保里は、絶対にこの世から抹殺すると決めた相手だ。
「計画通り、ではないようですね」
男が梨花の後方に視線を向けると、それに合わせて彼女も振り返る。梨花が入ってきた場所に、人影があった。
その人物は梨花と同じような黒い服を着てフードを被っているので、暗くてよく見えないが、それが誰なのか、男はすでにわかっていた。
「あなた誰?」
梨花は身体を反転させて警戒態勢に入った。
「塩田梨花。中学生二名を殺害し、負傷した上谷沙保里をまだ手にかけようとしている。他人のための復讐に自分の人生をかける価値はあるのか?」
一歩前に踏み出した人物は、黒いフードを脱いで顔を見せた。
「私の人生はもう終わってるの。一銭の価値もない人生が誰かのためになるなら、こんなものくれてやる」
姿を現した人物の顔を確認した男は穏やかに微笑んで話を始めた。
「あなたに会うのは二度目ですね。私から会いに行ったわけじゃないのに、私を見付けた刑事はあなたが初めてですよ。二永海渡さん」
「お前に褒められても嬉しくない。俺はお前をなんと呼べばいい? 名前を教えてくれ」
「私はもうこの世にいるはずのない人間なので、名前など必要ないのですよ。そうですね。
その男は自らを九蔵と名乗ったが、それは本名ではない。
すでにこの世にいるはずのない人間。それが何を意味するのか。
三鷹夕月を殺害した犯人。紅音がずっと追い続けた男。ここで決着を付けられたら、紅音はこれからの人生を自分のために生きてくれるはずだ。
それが海渡にできる唯一の恩返し。
「どうして梨花さんが犯人だと?」
「事件のヒントをくれる協力者がいてね。その人を信じたんだ」
その協力者に海渡が会うことはできないが、確かに存在する。もうこの世にいない人なのに。
「あなたが信じるほど優れた人がいるのですか。驚きです。彼女を張っていた刑事がその場所を離れても、あなたは別の場所から彼女の行動を見ていたということですか」
「刑事がいなくなってすぐに家から出てきたから、そこで確信した。それよりも、どうしてお前がこの件に関わってる? お前になんの得がある?」
海渡はこの場所に来るまで九蔵が関わっていることを知らなかった。梨花にとって意味のある犯行でも、彼にはそれを手伝う理由がない。
「人が痛みに苦しむ姿を見るのが至福なんですよ。あなたには理解できないでしょうが。恨みを持った殺人なんかは大好物です。私自身が殺せるなら尚更いいですが、梨花さんがどうやって殺すのか。それを見たい。それだけです」
九蔵の考え方は概念が違う。理解ができるかできないかという次元の話ではなかった。
沙保里を殺したい梨花と、苦しむ姿を見たい九蔵。目的は違っても、彼らの利害は一致したのだ。
「俺は捜査官として上谷沙保里を守る義務がある。そして、お前たちを逮捕する」
「そう焦らなくても、梨花さんはこの少女を殺したら大人しく逮捕されるつもりでいますよ」
「ふざけるな。目の前で命が奪われるのを見過ごせるわけないだろ」
梨花が九蔵のそばにあるテーブルから刃物を手に取った。
「邪魔をしないで。こいつには生きる資格がない。あなたもこいつがしたことは知ってるんでしょ? どうして顔がいいだけで他人を苦しめる権利があるの? あの娘が自殺しようとしたことを知ってこいつは笑ったの。『あいつ死のうとしたんだって。まじウケる』って言ったのよ!」
「虐めなんて絶対にしてはいけないことだ。それは認める。上谷沙保里はこれから苦しみながら生きることになる。だから、もうやめよう。死んだって罪は消えない。生きていないと、償いはできないんだ」
「そんなの綺麗事じゃない。人の命を弄んだ人間は、その命で償うしかないの。生きていたって、いつか普通の生活に戻るんだから!」
説得を試みようとした海渡だったが、梨花の言うことは間違っていなかった。
過ちを犯した人間はやり直せる。そんなことは綺麗事だ。自分が犯した罪と同等の罰は与えられない。
すでにふたつの命を奪った梨花に待つのは、死による償いだ。
「ん・・・。ここは?」
最悪のタイミングで上谷沙保里が目覚めた。まだ不明瞭な視界の中で、会ったことがない男と女が立っていて、女は刃物を手に憎しみを込めた瞳で彼女を睨んだ。
「目が覚めたのね。これから私はあんたを殺す。あの娘がどれだけ苦しんで死のうとしたか、自分がしたことを反省しながら死になさい!」
「いや、やめて。お願い。謝るから! もうしないから!」
「そんな言葉、信じるわけないでしょ!」
梨花が沙保里の前で刃物を振り上げたとき、海渡が彼女の手首を掴んだ。梨花が沙保里に気を取られている隙に距離を詰めることに成功した。
高身長でも細身の梨花は海渡の力に敵わず、刃物を手放した。
それでもまだ暴れようとする梨花を地面に押さえ込み、海渡は九蔵を見上げた。
九蔵はスマホの画面を確認すると、ため息をついてそれをポケットに入れる。
「あと少しだったのに、残念だ」
「逃げるのか?」
「ええ、私は捕まるわけにいきませんから。また会いましょう」
九蔵は倉庫の裏口から逃げた。
海渡は梨花に手錠をかけて、動けないように体重を乗せて地面に伏せさせたまま、放心状態の沙保里を睨んで言った。
「上谷沙保里。自分がしたことを背負って生きろ。お前のせいで人生を壊された人がいることを絶対に忘れるな。そして、その人のために自分を犠牲にしようとした人がいることも」
沙保里は身体を拘束されて、溢れる涙を拭うこともできなかった。恐怖のせいで惨めに失禁したようだが、そんなわずかばかりの辱めが彼女の行いを浄化することはない。
身体を押さえられた梨花の目から落ちる涙が地面に小さな染みを作った。
「海渡!」
紅音の声がして振り返ると、彼女はパートナーの裕武と一緒に倉庫に飛び込んできた。
「塩田梨花を確保。上谷沙保里は無事だよ」
「よかった」
これで事件は幕を閉じたが、九蔵は取り逃した。
ここであったことは、後で報告しよう。
事件を解決したはずなのに、心の中は曇ったままだ。
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