34. 時は来た
「戻りました」
咲良が張り込みを終えて綾瀬中央署に戻ったのは、午後十一時を回った頃だった。三鷹班は交代で被疑者の行動を監視するために張り込みを行っていた。
その人物は塩田梨花。彼女が虐めを受けていた少女と公園で話したという女性だ。名前しかわからなかった彼女の正体がわかったきっかけは、咲良が夕月に出会ったことだった。
その場所で見た塩田という表札がなぜか気になった咲良は、その家に住む人物が事件に関係しているのではないかと考えた。
単なる直感だったが、今までも夕月と出会った場所が事件を大きく動かすきっかけになった。今回もそうなのではないかと思い、調べてみるとその勘は正しかった。
近隣の住民に聞き込みを行い、塩田家には梨花という若い女性がいて、幼い頃に交通事故に遭ったことで顔に大きな怪我を負った。そして、その古傷は消えることなく、学生時代に陰湿な虐めを受けていたことがわかった。
そんな梨花なら、虐められて苦しむ少女の気持ちがよくわかるし、なんとかしてあげたいと思うことも不思議じゃない。
普段は外出することもほとんどないらしく、一度紅音と裕武が彼女の自宅を訪ねたが、会いたくないと言って部屋から出て来なかった。
母親は娘がまともに話せる状態じゃないと遠回しに帰ってくれと言われたので話を聞くことは諦めた。
現状では梨花が犯人の可能性が高いので、捜査員が交代で自宅を張り込みして彼女が外出するタイミングを見ていたが、一度も家から出てくることはなかった。
今回の事件の被害者三名のうち生き残った唯一の少女、沙保里が虐めの主犯格であったことで、これが復讐であればまだ彼女は命を狙われているかもしれない。病室前には常に警官を配置して警備している。
それでも病室に訪ねてくるのは入院している沙保里の両親と教師くらいで、友人はひとりとして見舞いに来ないそうだ。スクールカーストの最上位にいる彼女も、実は本当の意味で信頼する友人はいないということかもしれない。
金や権力で繋がった人間は、こちらの力が弱まったと同時に離れていく。優位に立っていたはずだった人間が堕落する姿は、周囲にとってどれほど痛快だろう。
自分のデスクについた咲良は大きくため息をついて椅子の背もたれに体重を預けた。
「立ちっぱなしは歩くより疲れるよな」
裕武がそばに来てそっと缶コーヒーをデスクに置いた。
「いつもすみません」
「いつも百円で済ませるケチな先輩とは思ってないんだな」
「金額じゃなく、気持ちです」
「伝わってるならよかった」
裕武はクールな性格で感情を表に出すことは少ないが、後輩の面倒見がいい。咲良が落ち込めば慰めてくれるし、成果をあげると喜んでくれる。それは咲良にだけでなく、他の班員に対しても平等に接する。
いわゆる痒いところに手が届く孫の手のような先輩だ。
その表現は失礼か。そもそも、その慣用句があっているかもわからない。
「今日も塩田梨花は閉じこもったままか」
「はい。まったく出てきません。私なら頭がおかしくなります。仕事が忙しいからこそ、休みに家にいる時間は幸せですけど」
「気持ちはわかる。が、心に傷を負った人間はそう簡単に普通の生活ができないことが多い。身体的なダメージより、精神的なダメージの方が治療も大変だと聞く。上谷沙保里が虐めで何をしたのか、聞いただけで怒りが沸いた。あれはもう虐めじゃなく犯罪だ。殺人はしてはいけないし、復讐も許されない。でも、塩田梨花の気持ちはひとりの人間として理解できる」
今回の事件の背景に気付いた記者がいて、徹底的に光正中学校で起こったことについて調べた。その結果、凄惨な虐めがあったことがわかり、世間に公表されることになった。
その虐めで不登校の末に自殺未遂をした少女と、具体的にどのようなことがされていたのかも明るみに出た。
これまでの通り魔に襲われた哀れな少女たちという評価が、自業自得だと非難される立場になったのだ。
昔から虐めはあったが、現代のそれは度が過ぎていることがある。病院で守られている沙保里は、今後一生をかけてその罪を背負うことになる。
そして、その事実を隠蔽した学校関係者は責任を負って懲戒処分を受けた。それも、担任であった深田が一番重い罰を背負った。彼女は上からの命令で黙っていたのに、罪を着せられて非難の的となった。
実際に彼女と話した峯山もやりきれない気持ちを押し殺した。どんな組織でも、蜥蜴の尻尾は簡単に切られてしまう。
「大変!」
夜の静かな捜査一課に紅音の大声が響いた。
休憩すると部屋を離れた彼女が随分焦った様子で室内に飛び込む。まっすぐに裕武のもとに走った紅音は急いで走ってきたのか息を切らしていた。
「どうしたんです?」
「上谷沙保里が拉致された! 病室前で警備にあたってた警官が襲われて・・・」
一息に話し切ろうとした紅音だったが、途中で呼吸が尽きてしまった。彼女は大きく息を吸って、残りを付け加える。
「峯山さんと四ノ宮警部が病院に着いたときにはもう遅かったって」
「でも塩田梨花は外に出てないですよね?」
「張り込んでる捜査員に確認したけど、今も部屋に電気がついてるし、外に出る姿は見てないそうよ。捜査員にはすぐに病院に向かうように伝えた」
「塩田梨花が犯人じゃないのか? どういうことだ?」
塩田梨花は事件と無関係だった?
だとしたら、これは復讐じゃなく無差別殺人になる。わざわざ生き残った沙保里の命を狙う必要はないはず。それも警官がいる病室にまで出向いてわざわざ彼女を誘拐するなんてリスクが高すぎる。
それこそ、梨花ほどの動機がない限りそんな選択はしない。
「とにかく、病院に向かいましょう」
「海渡くんはどこに? 峯山さんと一緒じゃないんですか?」
「海渡はひとりで動いてるみたいなの」
海渡なら、何か気付いているかもしれない。それでも彼から連絡がないということは、まだ確証がないということか。
咲良は紅音と裕武を追って廊下を走った。
カーテンを少しだけ動かして窓の外を眺めた。
うまく物陰に隠れてこちらを伺っていた刑事たちはいなくなった。
計画通りだ。
窓ガラスに映る自分の顔を見ると酷い嫌悪が襲う。
横断歩道を渡っていたところに車両が突っ込んだ。飛ばされた私は地面に顔から落ちて大きな切り傷を負った。
運転手はよそ見をしていて、ブレーキが遅れたと語った。でも、その人は誠心誠意謝罪をして、罪を償った。
だから、私は恨んでいない。
顔の傷はできる限り目立たなくすると医者は言った。でも、元通りにはならなかった。
この傷のせいで、私は虐められた。今でもあの三人のことは許せない。あいつらが今どうしているかなんて、知りたくもない。
どうせ楽しくて充実した毎日を送っているから。それを知れば、私はもっと惨めになる。
これは私の復讐でもある。
ふたりは殺したのに、どうしてもっとも憎むあいつだけが生き残ったんだ。生き残ったのが他のふたりなら、心に傷を与えて終わりでもよかった。
公園で話したあの娘は泣きながら学校であったことを教えてくれた。
上谷沙保里。あいつが虐めを主導していた女。
あいつだけは生きていてはならない。社会的制裁を受けたなんてことは言い訳にすらならない。
この世から抹消しなければならない。
あの人が言った通りに。
女は目立たないように黒いパーカーを着て久しぶりに部屋を出た。両親はもう眠っている時間だ。
私のせいでふたりにはたくさん迷惑をかけた。
これは、私が一歩前に進むためのけじめだ。これが終わったら、私は犯罪者として手錠をかけられる。そして、すべてを話す。
そうすれば、興味本位でも誰かがあの三人の罪を明らかにしてくれる。
「いろいろごめんね。本当にありがとう。行ってきます」
両親には聞こえないように呟いて、静かに玄関の扉を開けた。
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