17. 強く優しく
海渡はひとり石川沿いを北に向かって歩いた。舘岡に捜査車両を放置して行くわけにはいかないと適当な理由を告げて、彼は別行動で北へ向かわせた。
地図アプリを開いて、必ずある場所で待ち合わせをすると約束したため、ずっとついていなくてもいいと課長から許可を得たようだ。
その間に何もなければ、また次の手を打たなければならない。
周囲より低い場所にある川の岸は平坦な河原で、ときどきその上を橋が架かっていた。あるのは民家や会社ばかりで、特に気になるものは何もない。
拷問をするなら人に見られない建物の中が最適だ。すぐ近くは山になっているので、その中の可能性もあるが、屋外では声を聞かれるかもしれない。
拷問を受けたことはもちろんないが、爪を剥がされたり歯を折られたり、痣ができるほど殴られれば声を出さずに耐えることは不可能なはず。
せめて犯行現場の特的ができればトレースができるのだが、遺体がどこで捨てられてどれだけ流れてきたのかがわからない状況では、特定するのは困難だ。
結局歩き始めてから一時間ほどで舘岡と合流する地点に辿り着いた。
「二永さん、何かありました?」
「いや、何も」
口には出さないが、舘岡は「そりゃそうやろ」と表情が語る。海渡の脳内で再生された音声が関西弁だったことに自分でも驚いた。
彼は海渡がトレースを持っていることを知らない。
それを彼に説明したところで信じる可能性は低い。そもそもその能力が役に立たない状況で話すことは無駄だった。
「で、次はどうします?」
「もう今日は疲れたからホテルに行く」
「では、ホテルまで送ります。明日も捜査を続けるんですか?」
「そのつもり。気になることがあるから」
「何がそんなに気になってるんです?」
「沖田時乃が拷問された理由と、なぜ大阪で殺されたのか」
お金を奪ったついでに、暇だから拷問した。
そんなサイコパスが犯人であれば、探すのは非常に難しい。せめて怨恨のためであることを願うが、自殺した黒田以外に繋がりがある人物は出ていない。
「では、連絡先を教えてください」
明日以降も自由にさせるつもりはないと宣戦布告をするためのものだが、それは彼の意思じゃなくあくまで課長である酒井の指示だろう。
海渡はスマホを手に持つと舘岡に電話番号聞いて、その番号を入力して電話をかけた。舘岡のスマホが着信する。
「それが俺の番号ね」
ひとりで大阪に乗り込んで喧嘩を売って帰るつもりはない。海渡が知っていることを大阪府警に知られても困ることもない。
本庁と所轄や、管轄が違うことによる確執は、海渡にとって実にくだらないものだった。
早く解決するなら情報を共有して協力すればいいのだ。謎のプライドが妨げになるほど愚かなことはない。
舘岡は海渡をホテルまで送り届けると、「明日の朝、九時に迎えに来ます」と言って河内長野警察署へ帰って行った。
監視がなくなった今が動きやすいが、早朝に東京からやってきた海渡の疲労は思っているより蓄積されていた。
昨日沖田時乃が殺害されたことを知ってから、ほとんど睡眠を取らずに大阪に来たことも大きい。
予約をしていなかったが、部屋は空いているとのことでシングルのもっとも安価な部屋を選んでチェックインを済ませた。
鍵を受け取り、エレベーターに乗り込むと疲れた身体に重力が襲い掛かった。普段ならなんでもない攻撃が海渡にダメージを与える。
目的の部屋で鍵を回して開錠し、部屋に入るとすぐにシャワーを浴びた。
空腹が気にならないほどに睡魔が強い。トレースを使っていないため、糖分は必要ない。
素早くシャワーを済ませた海渡はベッドに飛び込むと、ほんの二分ほどで眠りについた。
外はまだ明るく、世の中はまだ動いている時間でも、今日だけは許してくれと脳内で許しを乞うてから夢の中へと落ちた。
そこは病室だった。
白い天井に白い壁、窓から差し込む光が眩しい。左腕に点滴が刺さっていて、人工呼吸器に支えられて生命が維持されていた。
海渡はまだ十歳の子供で、身体を動かそうとすると腹が激痛に襲われた。
そうだ。刺されたんだ。でも、生きてる。
学校が終わって、
捕まったのは幼い女の子だった。まだ新品の赤いランドセルが大きすぎて身体が余計に小さく見える。
まだ一年生のその娘は男にランドセルを掴まれて、泣き叫ぶ。その様子を見ていた謙人が女の子を助けようと走り出す。
彼は五年生の割に身体が大きく、運動能力も高い。佑と海渡も彼に続いた。
小さい女の子が泣いている。
困っている人を助けられる強くて優しい人になろう。それが先生の教えだった。
謙人は男に身体をぶつけて隙を見てランドセルを掴む手に爪を立てると、男は反射的に手を離し、謙人は女の子を強く押して「走れ」と叫んだ。
それに腹を立てた男が謙人の腹を蹴った。
男はベルトに刃物を仕込んでいて、それを手に持った。
目の前に銀色の光がちらついて、佑と海渡は動けなくなった。その一瞬で、男は佑の腹に鈍い光を放つ凶器を刺す。
そのすぐそばにいた海渡も男に服を掴まれて、今まで味わったことのない激痛が腹に走った。
温く赤い液体がシャツに吸われて広がる感覚が気持ち悪い。
急激に眠くなって暗くなっていく視界で、蹲っている佑に男が馬乗りになった。
友人に向かって刃物を振り下ろす瞬間、海渡の意識は飛んだ。
その後、男は刺又を持って駆け付けた教員に取り押さえられ、現行犯逮捕された。
走馬灯を見るには短すぎる人生しか歩んでいない海渡が死を覚悟したとき、青い服の女性が涙を流して必死に声をかけてくれたことだけは覚えている。
「謙人も佑も死んじゃったの? なんで僕だけ助かったんだよ! 僕も一緒に死にたかった!」
病室で真実を知って泣き叫ぶ海渡と一緒に涙を流しながらずっと抱きしめてくれたのは、交番勤務だった頃の紅音だった。
現場で声をかけ続けてくれた彼女は、病院にいる海渡に会うため定期的にお見舞いに来て励ましてくれた。
彼女もまた、少し前に姉を失ったと語った。
姉も警察官で、ある事件に巻き込まれたそうだ。だから、大切な人を失った海渡の気持ちがよくわかった。
紅音がいてくれたから、海渡は生きる道を選んだ。
目が覚めたのは、午前三時のことだった。
電気を点けたまま眠りに落ち、カーテンは開いたままだ。窓の外は真っ暗で、早く寝たせいで中途半端な時間に起きてしまった。
疲れているせいか、あの事件を夢に見たのは久しぶりだ。
あの男さえいなければ、謙人と佑は立派な大人になって、今でもよき友人でいられたかもしれない。疎遠になってしまっても、元気に生きていてくれるだけでいい。
十五年の月日が流れて、ふたりはどう思っているだろう。
「なんでお前だけ助かったんだ」
「お前も一緒に死ねばよかったのに」
そう言われないとは限らない。
ふたりの分も頑張って生きる。それが償いになると思っているのは、俺だけかもしれない。
あのお姉さんなら、ふたりが見えるのかな。
だとしたら、羨ましいな。俺はもう二度と会えないんだ。
そんなことを考えていたら、睡魔はどこかへ去ってしまった。
特にやることもない海渡は再びベッドに転がったが、二度寝はできそうにない。
咲良なら、こんなとき幽霊と会話でもして暇を潰すことができたりするのかもしれない。
それが謙人と佑なら、それ以上は何も望まない。
「謙人、佑、いるなら返事してくれよ」
狭い部屋に海渡の声が広がって、彼の耳に戻ってきた。
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