18. 蘇る記憶
「おはようございます!」
「朝から元気だね」
午前九時、昨日の約束通りホテル前に捜査車両を停めて海渡を待っていた舘岡が大きな声で挨拶をした。
三時に目が覚めた海渡はそのまま朝までベッドの上で眠ることなく朝を迎えた。眠りから覚めて時間が経ったが、朝から大きな声は脳に響く。
海渡は助手席に乗り込むと、舘岡はシフトレバーに左手を乗せた。
「本日はどちらへ?」
「山」
「山?」
「川上から流されたと言っても、流れは早くないし、そんなに長い距離を流れてきたとは思えない。人ほどの大きさなら、浅い場所で岩に引っかかることもあるし」
「それはそうかもしれませんが、なんで山へ?」
「ああもう、鬱陶しいから敬語いらない。舘岡さんの方が歳上でしょ」
「しかし、二永さんは警察庁の方ですので」
「警察庁所属の俺がやめてって言ってるの」
咲良のときもそうだったが、海渡は敬語を聞くと気持ち悪くなる。彼は基本的に誰に対しても敬語を使わない。そのせいで相手が怒って話が進まない経験があるので、最近は初対面の人に大して適度に敬語を使うようにしている。
「では、遠慮なく。山っていうのはどこの山?」
「馬鹿なの? 遺体発見現場の近くの山に決まってんじゃん」
「馬鹿って・・・」
「そっか。関西だとアホって言った方がいいのか」
関西では馬鹿という言葉は強い侮辱に当たると聞いたことがある。もちろん、関東でも侮辱になるが、こちらでは謎のノリのせいで「アホ」は許されるらしい。
「いや、そこやなくて。まあ、ええか。とりあえず、山まで運転するわ」
敬語をやめた舘岡は、関西弁が色濃く出るようになった。それでも、敬語で話されるよりはマシだ。
捜査車両は安全運転でホテルの敷地を出て、昨日訪ねた現場に向かって走り出した。
山の中に小屋があって、そこで犯行に及んだ可能性があるかを調べたい。小屋があるかも定かではないが、たとえ女性でも人間の身体を運ぶことは重労働だ。長い距離を担いで移動するのは大変で、特に力の入っていない人間は実際の重量より遥かに重く感じる。
力のある男が犯人だとしても、海渡たちが歩いても疲れない範囲に何もなければ、その外から運んできたとは考えにくい。
車両を使ったのだとしたら、もう特定することはできない。何か偶然で有力な情報が入らない限り、この事件は迷宮入りすることになる。
昨日の住宅街とは違う道から入り、橋を渡って川の向こう側の山道へと入った。
空き地に車両を停めて外に出ると、木々の間に細い道があった。舗装されておらず、両側は腰の高さまで生えた雑草で覆われていたが、人が通れるだけの幅がある。
「この奥に何かないかな」
「行ったことがないからなんとも」
「じゃあ、行ってみよう」
海渡は迷うことなく草が生茂る狭い獣道に足を踏み入れた。背後を付いてくる舘岡はスーツ姿なので服が汚れるのは嫌うだろうが、課長の指示で海渡をひとりにすることは許されない。
獣道を進むこと十分、木に囲まれたその場所は空から発見できないので衛生画像には映らないだろうが、カムフラージュするためか緑色に塗装された小屋があった。
木製の簡素なものだったが、大きさは車両が入るガレージほどはある。
「こんなところにこんなもんがあったんか。知らんかった」
普段から河内長野で刑事をしている舘岡の方が、この光景に驚いていた。管轄内であっても事件がない限り、こんな
「この中なら、人を殺すこともできるよね。周囲は人なんて寄り付かないだろうし、多少の声が漏れても動物が鳴いた程度にしか思われない」
海渡が扉の前まで近付くと、それは南京錠と鎖で施錠されていた。この扉は開きそうにない。小屋の外壁に沿って時計回りに他の出入口はないか探してみたが、一周して正面に戻るのみだった。
「中には入られへんな」
この中に入ることができれば、トレースで犯行現場かどうかが判明するのだが、外から見ていてもわかることは何もなかった。
舘岡は今すぐにでも引き返したい様子で、土が付いて汚れた革靴を見下ろした。
「うーん、お姉さんなら、何か見えるのかな」
この場所で沖田時乃が殺害されたのだとしたら、咲良は何か感じるかもしれない。現場の状況から映像を再生するトレースとは違って、彼女の能力はその場所にいる魂を映す。
意思を持った存在は、犯行現場から出て咲良に何かを訴えることがあるのかもしれない。
こんな場所で咲良がいてくれれば、と思うことになるとは。
「お姉さんって?」
「いや、なんでもない。戻ろう」
なんの確証もないのに鎖を切って中に入ることはできない。無関係の場所なら刑事が器物損壊を犯すことになる。
それでも、入れてもらおうじゃないか。
「舘岡さん、先に車に戻っててくれない?」
「なんで? 二永さん戻らんの?」
「ちょっと電話したいんだけど、ほら、聞かれるわけにはいかないからさ。舘岡さんなら事情がわかるでしょ。ちょっと長くなるかも」
彼は「あーね」と納得して先に戻っていると言って獣道を進んだ。一刻も早くこの場所から離れたかった彼にとっては、ありがたい提案だったことだろう。
所轄が違えば情報を渡さない。
海渡が理解できない暗黙の了解を、所轄の刑事はよくわかっている。特に警察庁の話となれば、秘匿性が高いことが多い。
海渡は大きく息を吸ってゆっくりと吐き出すと、再び小屋の扉の前に立った。
南京錠が付いている鎖は錆びて壊れかかっている。海渡が力を込めて鎖を引くと、それは簡単に崩れ落ちた。
舘岡の前でこれをやると厄介なことになるかもしれない。だから、彼をこの場所から排除する必要があった。
開いた扉の中を覗くと、海渡の脳がその働きを開始した。
柱に固定された椅子に座らされて後ろ手で縛られた被害者。
犯人はその悲鳴を楽しむかのように暴行を加える。顔を殴っては歯が折れ。腹を蹴っては血を吐く。何かペンチのようなもので爪を剥がし、満足した犯人は刃物で腹を刺した。
その一連の様子を見た海渡は扉を閉めて小屋に背中を向け、大きく深呼吸をして空を仰いだ。
そうしなければ、腹の底から胃酸が上がってきそうだった。
こんなシーンは滅多に見ることがない。
犯人は正真正銘のシリアルキラー、サイコパスと言うべきだろうか。殺人を楽しみ、人が苦しむ様子に興奮する倒錯した欲望を持つ人物。
海渡はある事件を思い出した。
人生で初めてトレースを使った事件だ。
あの日見た場所の記憶は一生忘れることはない。
「まさか。そんなことないよな」
海渡の脳裏をよぎったひとつの可能性は、信じたくないものだった。なんとなく彼の感覚がそう訴えるだけなのに、それは限りなく真実に近いと思わせる。
その感覚が事実だとすれば、海渡は必ずその犯人を捕まえなければならない。
恩人のために。
周囲を見渡してみたが、誰もいなかった。
当然だ。舘岡は獣道を出る頃、この場所に海渡以外の人物がいるはずがなかった。
それなのに、誰かに見られているような気持ち悪さが彼を襲う。
「いるなら姿を見せろ」
警戒しながらいるかもしれない何者かに話す海渡。
風が木々の間を駆け抜けて、葉っぱを揺らす。
だが、海渡の言葉に応えるものはいなかった。
気のせいか。
これは、厄介なことになった。
気持ち悪さに襲われて遥々大阪にやってきた海渡の嫌な予感は現実になりつつある。
幸い何も起こらず捜査車両まで戻った海渡は助手席に乗り込んだ。
「話はできたん?」
「ああ、ちょっと困ったことになった」
「そうか。キャリアも大変なんやな」
登ってきた道を引き返す車両、スマホでニュースを確認した海渡は、綾瀬中央署館内の公園で遺体が発見されたことを知った。
「向こうも大変そうだな」
我々のことなどお構いなしに窓の外を流れる景色は、どこまでも
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