CASE 1 破壊された精神
1. 見える
とうとうこの日がやってきた。
スーツスタイルの女性が警視庁綾瀬中央署の刑事部捜査第一課の扉を開く。
「本日よりこちらに配属になりました。
彼女は元気に挨拶をしたものの、室内には誰もいなかった。出勤初日で何も連絡を受けていない咲良は、この状況をどう理解すべきか悩んだ。
何か事件があって出ているのかもしれない。だとすれば、どうすべきだろうか。
数秒考えた後、バッグに入れているスマートフォンに着信があった。その番号は登録にないものだが、このタイミングなら出ておいた方がよさそうだ。
それを耳に当てて「はい、一条です」と着信に応えると、「綾瀬中央署捜査一課の
咲良は至急この場所に来てほしいと住所だけを伝えられると、その電話は切れた。
事情は不明だが、呼ばれたからには動かなければならないのが刑事だ。
咲良はすぐに部屋を出て、目的の住所に向かう。地図アプリで調べると、その場所には賃貸アパートがあった。いかにも何か事件が起こりそうな場所だと考えたものの、そういった偏見はよくないとすぐに反省する。
タクシーを捕まえてアパートの前に到着すると、路上にはパトカーが並んでおり、規制線の外側で近隣の住民が野次馬になっていた。
咲良はタクシー運転手に料金を支払うと、規制線に早足で近付いて見張っている制服警官に警察手帳を示して中に入った。
そのアパートは二階建てで二階への階段は屋外に付いており、各階に四部屋ずつ、合計八部屋の小さい建物だった。築年数は二十年を超えており、決して綺麗とは形容し難い外観をしている。
咲良は話し声がする二階へと外の階段を上り、一番手前の部屋の扉が開いているので、顔を覗かせた。
すると中からスーツ姿の女性が出てきて、「あなたが一条さん?」と訊ねる。
「はい、一条咲良です」
「咲良ちゃんか。私は三鷹
まさにクールビューティーと表現したくなるような綺麗で鋭い顔つきをした女性で、年齢は三十代半ば。咲良は事前に自分が所属することになる班の情報を聞いていたが、彼女がこれから直属の上司になる敏腕刑事だ。
まだ男社会が根付いている警察の世界で、確たる実績を上げて捜査第一課の班長を務める彼女は、咲良がこれから目標として背中を負う存在になる。
「初日からこんな事件が起こるなんていいことじゃないけど、経験は積まないとね。若い女性が首を吊ったの。咲良ちゃんはご遺体を見ても大丈夫な人?」
紅音の質問の意図は、遺体を見て吐かないか、ということだ。首を吊ったということは、出血をしていたり無残な状態ではないということだが、それでも初めてであれば平気でいられるわけがない。
「はい、ご遺体は大丈夫です。ただ・・・」
「ただ?」
「いえ、なんでもありません」
咲良は口から出ていきそうになった言葉を慌てて飲み込んだ。これを言ったら、第一印象から咲良はおかしい人間だと思われてしまう。
きっと、この場所にもそれはいるはずだ。
咲良は現場を荒らさないようにシューズカバーと手袋を装着して、廊下で鑑識が作業をするそばを静かに通り過ぎた。
間取りはワンルーム。玄関から入って、廊下にキッチンと反対側にトイレと浴室が別にある。廊下の奥に部屋があり、部屋の一番奥にベランダへ出る窓があった。
部屋に足を踏み入れた瞬間、咲良は目を背けた。
首を吊った女性の遺体はすでに床に寝かされているが、ベランダへと出る窓の手前に、亡くなって横たえているはずの女性が立っていた。
彼女はひどく恐ろしい表情をしていて、壁を睨みつけていた。その視線の先は白い壁があって、何かが貼られていることもないただの壁だった。
「大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
咲良は視線を落として、遺体に手を合わせた。
「亡くなったのは
自殺だと断定されたら、警察は捜査をしない。捜査第一課が動くのは、あくまで事件性があるときだけだ。
この女性が何を思って、どうして人生を終える選択をしたのか、わからないままなのだ。不憫ではあるが、自殺をした理由を探るのは警察の仕事じゃない。
「班長、
三鷹班の男性刑事、
その後ろから、警察関係者とは思えないカジュアルな服装をした若い男が部屋に入ってきた。
フードが付いた黒いロングジャケットを着た男は、室内をうろうろと歩き回っては、特に何かに触れるわけでもなく室内を眺めた。
「通報したのは被害者、白山未来さんの友人の
紅音が訊ねると、彼は「明らかに自殺でしょ」と言って、ベランダの窓の前に立つと室内に振り返った。
彼の視線は、まるで何か動いているものを追っているかのように動いているが、その方向を見ても咲良の目に映るものは何もなかった。
咲良の視界では、海渡が立っているすぐそばにずっと被害者が立っていて、彼女は壁を睨み付ける。夢に出そうなほど憎悪を感じさせる目は、視界に入るたびに目を逸らしてしまうほどに恐ろしい。
そのときだった。海渡の両腕にしがみつく小さな手が見えた気がした。それは黒くて、彼の両腕を掴んで放さない強い力を持っているようだったが、瞬きをすると消えた。
気のせいかな。
「紅音さん、この件、俺が勝手に調べていい?」
何かが終わったのか大きく息を吐いた海渡が紅音に訊ねた。
「自殺なら私たちは動けないから、それは構わないけど。ただの自殺じゃないの?」
「それを調べたい。この部屋で何かが起こったのは事実だ」
「わかった。そうだ、調べるなら咲良ちゃん連れて行って。今日から配属になった新人刑事なの」
「三鷹班なんでしょ? 事件性がないのに捜査に出していいの?」
「経験よ。殺人なんてそうそう頻繁に起こるものじゃないし、捜査の基本は学べるでしょ」
「俺に教育はできない」
「同行させてもらうだけでいいの。またパフェ奢るから」
「なら、いいけど」
そう言うと、海渡は部屋を出て廊下を去っていく。
紅音に彼を追うように指示された咲良は、わけがわからないまま置いていかれないようにその背中を追った。
シューズカバーを外して階段を下りると、海渡はすでに規制線の外にいた。
「あ、あの。一条です。よろしくお願いします」
「俺は
敬語がいらないなら楽でいいが、彼の方が歳下なのに気を遣う素振りはない。別に少しの年齢の違いで敬ってもらおうとは思わないが、警察という組織にいる限り彼の方が刑事の先輩であることに変わりない。
規制線の外に出たが、彼は離れた場所からアパートを眺める。野次馬を観察しているのだろうか。
「自殺なのに、捜査するの?」
「白山未来の爪に血が付いてた」
「え?」
「彼女が自殺する前に別の何かが起こってる」
どうしてそこまでわかるのだろう。鑑識が調べた結果ならまだしも、彼はただ室内を眺めていただけだった。
彼はアパートの二階を見た。そこは遺体が見つかった隣の部屋の玄関で、紅音と裕武が住人の男に聞き込みを行なっていた。距離があるので、顔はよく確認できない。
「お姉さんさ、何を見たの?」
「え?」
「窓のところ、ちらちら見ては壁を見て、視線を逸らしてた。まるで怖いものでも見たように」
たったあれだけの時間で、海渡は咲良の視線の動きを観察していた。
彼は一体何者だ。
咲良は彼の質問に答えることを忘れて、自身に芽生えた疑問と対峙した。
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