第3話

30.

 なんだか、頭が痛い。電車の音にやられたのだろうか。それとも、泣きつかれたからだろうか。

 誰もいない電車は都合が良かった。人の目を気にせずに泣くことが出来る。三か月、三か月待てばまた会える。そう思いたいのに、どうしても気持ちを切り替えることが出来ない。

「次はー、入尾ー、入尾ー」

 車内放送が響く。そろそろ乗り換えの駅だ。ジンジンと痛む頭を引き釣りながら、荷物を纏めて立ち上がる。

 電車を降りて、改札を抜ける。次の電車に乗るには、ここから違う駅まで五分ほど歩かなければならない。


***


 まだだ、まだ痛い。今まで頭なんて年に一度痛くなるかならないかくらいだったのに、この夏は異様に多い。今度病院に行った方がいいかもしれない。

 電車に揺られること三時間、やっと寮の最寄り駅に着きそうだ。寮についたら一度寝よう。そんなことを考えていると、車内放送が電車の到着を知らせてきた。荷物を纏めて電車を降りる。

 相変わらず、人が多い駅だ。頭痛が悪化しそうだ、さっさと出てしまおう。

「……あれ? こっちだっけ」

 なんだか、駅の構造が変わった気がする。いない間に改装でもしたのだろうか、それとも、判断力が鈍っている?

 なんとか目当ての改札を抜けて、寮へと向かって歩くが、どうも違和感が拭えない。

 さっさと寝よう。その一心で早足で歩く。あの角を曲がったら、寮の入り口が──

「……?」

 寮が、なかった。ただのアパートが建っているだけだ。

「あれ、道間違えたかな」

 あたりを見回してみるが、寮の場所以外はいつも通りのままだった。引っ越した? そんな馬鹿な、じゃあ改装でもしたのかな。

 そう思ってアパートの看板を見てみるが、明らかに寮とは思えない建物名が書いてある。

 頭が痛いのに、何も考えたくないのに。どうすればいいの、私。

 次第に痛みが増していく。立っているのもやっとだ。

「あぁ……!」

 どこかで、何かが切れる音が聞こえた。目の前が、真っ暗になった。


***


 目が覚めると、そこは電車の中だった。先程までのひどい頭痛は嘘のように無くなっていた。

「なんだ、夢か……」

 安心して顔を下すと、私の向かいの席に誰かが座っているのが見えた。

「おはようございます」

 目が合った途端、何故か話しかけてきた。

「お、おはよう、ございます」

 なんだか、私に似ている気がする。髪の色も、体形も、顔も、なにもかも似ていた。とはいえ、彼女が着ている服に見覚えはなかった。なんだか、病院に入院している人が着ていそうな服だ。こんな格好で出歩くなんて、ちょっと変わった人。

「どんな夢を見ていたんですか?」

 微笑みながら聞いてくる。

「え……? えっと、おばあちゃん家から寮に帰ろうとしたんだけど、なんか頭が痛くて、しかもあるはずの場所に寮が無くて──って夢」

 何を聞いてくるんだろう、この人。早く駅に着かないかなぁ。そんなことを考えていると、少女はその笑顔をくずさないで言った。

「もっと前の話ですよ」

 何を言っているんだろう、この人。

「ど、どういうことですか?」

「具体的には──そうですね、終業式の日でしょうか」

「ゆ、夢って、そんな長いこと見られるものじゃないと思うんですが──」

「あぁ、まだ気がついていないんですね」

 そういうと少女は、立ち上がって、ふらふらとこちらに歩いてきて、私の隣に座った。

「私の名前は上島ハルカっていうんです」

「え、でも──」

「そして、貴女の名前も上島ハルカ。そうでしょう?」

 ……これもまだ、夢の中なのだろうか。私の名前を名乗る、私にそっくりな少女が、私の手を握ってくる。

「そんなに信じられないのなら、貴女の事を当ててあげましょうか。上島ハルカ、十六歳。十年前に両親が死去。好きなことは絵を描くことで、好きな食べ物はフランスパン。嫌いなものは雷で、好きな人の名前は旭日ハ──」

「わかった、分かったから」

 慌てて少女の口を塞ぐ。どうやらここは夢の世界で、この少女は本当に私であるようだ。とは言え、私の口からと言えど好きな人の名前を聞くのは恥ずかしい。

「ここ、夢の世界なんでしょう?」

「夢──そうですね、確かにここは夢の世界です」

「なんだ」

 肩の力が抜ける。夢ならば、放置すれば目が覚めるだろう。

「……まだ、気がつかないんですか?」

 少女が不思議そうな顔でこちらを見てくる。

「気がつくって、何に」

 周囲の温度が少し下がった気がした。電車の外では雨が降り始めたようだ。

「本当の貴女は、今病院のベッドに居るんですよ」

「……は?」

「交通事故に会って、生と死の狭間を彷徨っているんですよ」

 意味の分からないことをほざく少女に、私は少しの苛立ちを覚えながら返す。

「何を言って……うっ」

 突如襲ってきた頭痛とともに引き起こされる、生々しいほどの全身への鈍痛。……あぁ、確かに私は車に引かれたんだ。

「思い出しましたか?」

「な、なんとなく……」

 まだ、まだだ。いつ、どこで引かれたかが思い出せない。

 電車の中に居るはずなのに、そとの風景が流れ込んでくる。

 寒い。雨が降っているようだ。私は地面に倒れこんで、聳え立つビル達の眺めている。一人の少女が私のことを見下ろしている。これは──

「ハル……」

 何かを叫んでいるようだが、全く聞こえない。そもそも、なんでハルがこんな都会に──

「そろそろ、思い出すんじゃないんですか」

 もう一人の私が冷たい声で言った。喉元にナイフを当てられるような寒気が走る。

「本当の貴女は、確かに寮で暮らす学生だった。好きな人の名前も旭日ハル。でも、旭日ハルは田舎で暮らす少女なんかじゃなかった」

「……やめて」

 痛い。頭も、身体も、心も、何もかも。

「同級生である旭日ハルを好きになった貴女は、友達への恋愛感情という決して口にしてはいけない想いに打ちひしがれながら日々を過ごしていた」

「……やめてよ」

 聞きたくない。聞きたくないのに、私の声でどんどん記憶が蘇ってくる。

「きっかけは分からない。ただ、貴方はふと自分の状況に嫌気がさしてしまった」

「やめてってば」

 寒い、寒いよ。

「それでも優しく接してくれるハルを心の支えになんとか生活していたものの、七月三十日、私は──」

「やめてって言ってるじゃない!」

 電車から飛び降りる。後ろから何か声が聞こえた気がしたが、もう気にしない。

 改札を抜けて、がむしゃらに走り出す。駅までの道のりが、無限にも思える。

 ふと我に返って顔をあげると、赤信号が見えた。飛び出した私の身体は止めることが出来ない。右隣にトラックが見える。


***


それは突然の出来事であった。

轟音が身体を貫いた。どこからかサイレンの音が聞こえてくる。

 地面が冷たい。冷たいのに、何処か熱い。変な感覚だ。

 沢山の足音が、振動となって私の身体に伝わってくる。先程の轟音で耳がやられてしまったのか、何も聞こえない。

 ちくり、ちくりと身体に何かが突き刺さっていく。雨だろうか。

 思い出した。麻痺だ。血流が悪くて四肢の一部が麻痺していく、あの感覚。それが全身を駆け巡っていくのが分かる。

 これが死の実感。何故か冷静になった頭でそう考えている間にも、自分が世界から隔絶されていくのが分かる。音も、温度も、光も、全てが失われていく。

 そして私は全てを覚悟した。

 

1.

「おーい、いつまで寝てんだ?」

「……ん」

 誰かに身体を揺すられている。何してたんだっけ、私。

「あ、起きた。うちがトイレに行ってるほんのちょっとの間に爆睡しちゃうなんて、寝不足なんじゃねーの?」

 顔を上げてみると、世界で一番大切な人の顔がそこにはあった。どうやら、保健室の机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。……寝ていた? 本当に?

 おばあちゃんちの近くで過ごした、ハルとの一か月。そして、薄気味の悪い結末。どれも夢のように突拍子のない出来事なのに、やけに現実感があって、つい先ほどまで私は本当にそのことを経験していたかのように思える。

「おーい、起きてるか?」

「わかんない……」

 本当に分からない。ただ、保健室の様子も、そこにいることにやけに馴染んでいる制服姿のハルの様子も、私が知っている「現実」通りで、それが余計に状況の分かりづらさを加速させている。

 机の上に置かれたデジタル時計を見てみると、七月一日と表示されていた。私が死ぬといわれたのは三十日。……どういうこと?

「さてと、帰りますか」

「……そうだね」

 鞄を持って歩き出したハルを慌てて追いかける。状況は分からないけど、ここはハルについていった方がいい気がする。

 私たちはいつも午後四時前後に下校していた。この時間だと、部活のない人はとっくに帰っていて、部活のある人は活動中だから、人に会わずに帰ることができる。保健室登校のハルのためにこの時間に帰ることになっていたのは覚えている。だから今回も人目につかずに学校を抜け出すことができた。

 ハルは歩きながら私に今日読んだ本の感想を話している。そういえば、ハルの保健室での暇つぶしは読書だった。養護教諭の先生が図書館から持ってきてくれた小説を読んでいるらしい。私はそういう方面のことはさっぱりだから、適当に相槌を打つしかない。

 そうして歩いていると、寮に到達してしまった。私は寮に、ハルはその先の孤児院に住んでいるから、ここでお別れなのだ。

「じゃ、ばいばーい」

「うん。また明日」

 ハルを見送ってから、寮の扉を開いた──。


2.

「あれ?」

 目の前に広がっていたのは保健室だった。慌てて振り返ると、そこにはさっきまで歩いていた道はなく、ただ廊下が広がっているだけだった。まだ寝ぼけているのだろうか。

「よっ。なんでそんなところで突っ立ってるんだ?」

 ハルが読んでいた本から顔を上げて挨拶してくる。

「う、うん」

 状況は相変わらず分からないけれど、とりあえずいつもの椅子に座る。

「どうしたんだ? そんなキツネにつままれたみたいな顔して」

「よく分かんない……」

「は?」

 辺りを観察してみると、私の知っている保健室と何も変わらなかった。卓上の時計には七月二日と表示されている。日付も変わってる?

「ハル、今日って何日だっけ」

「ん? 二日だけど」

「昨日って私たちどうしてた?」

「どうしてたって……。いつも通りここで駄弁ってから、いつもの時間で下校して、いつもの場所で別れたけど」

「そっか……」

 ということは、昨日別れてから私が寮の扉を開いた途端、私は今日の保健室にやってきたことになる。もしこれが本当なら、この世界が現実ではないという何よりの証拠となってしまう。

「どうしたんだー? そんな深刻な顔して」

 本当に私は夢の世界に閉じ込められているのだろうか……?

「うん、ちょっとね」

 この後、またハルとの帰宅途中に保健室にやってきてしまったら、そのときは確定だろう。だからその時までは、普通に過ごそう。

「今日は何読んでるの?」

 ハルは嬉しそうに今読んでいる本のあらすじを教えてくれる。楽しそうに本の内容を語るハルの瞳を見るの好きだったことを思い出した。頬杖をついている私も、きっと幸せそうな笑みを浮かべていることだろう。

「──っていう訳でさ、今は主人公の楼宴くんが家族を守るために必死に闘っている訳ですよ」

「そっか」

 少し開かれた窓から吹く穏やかな風が、保健室の真っ白なカーテンを揺らしている。私とハルだけの平穏な空間だった。冷静に考えてみれば、本来いるはずの養護教諭がいない時点でおかしい訳で。もしもこの世界が私の見ている夢だとしたら、ハルと別れた途端に次の日の保健室に辿り着くのも、養護教諭がいないのも、全て「私とハルだけの平穏な空間」を創り出すためと思えば納得できる。というか、そうとしか思えない。

「ハルカも読むか?」

「ううん、私はいいや」

 うん、いいんだ。

「そっかー、面白いのになー」

 ここにいられれば、多分私はずっと幸せでいられる。それでいいと思う。私が創り出した夢の中のハルなら、きっと私のことを拒絶することはないだろう。

「で、ハルカはどうだ? クラスでうまくいってるか?」

 クラスでのこと──もう遥か昔のことに思える──を思い出しながら、適当に想像を織り交ぜて話す。ハルは相槌を打ちながら笑顔を向けてくれていた。

「そっか。うまくいってて良かったよ」

 私が話に出している人の中には、もしかしたらハルのいじめに関わっている人がいるかもしれない。でもハルは嫌な顔一つせずに聞いてくれる。私の学園生活に悪影響を与えないようにしてくれている、ハルなりの配慮だと私は感じていた。その優しさに甘えてしまっているのは自覚しているが、今更やめることは出来なかった。

 ハルは読書を再開したようだった。こういう時、私は自分の宿題をやっていた気がする。そう思って鞄の中を漁ってみると、いつも通りの教科書やノートが入っていた。一番新しいページを開いて、今日の宿題を確認する。ちゃんと書いてあったのを見て、書かれた通りの範囲に取り組み始める。

 私は適当に勉強していて、顔をあげればハルは真剣に本を読んでいる。その穏やかな空間が幸せだと思える。本当なら宿題なんてまったくやる意味がないが、それぞれが別々の事をしながら空間を共有していることが嬉しく感じてしまうのだ。

 ハルの吐息も、生活音も、影も、全てが心地良い。

「宿題?」

「うん。今日のは簡単だから楽だな」

「そっか」

 時計の針はゆっくりと進んでいく。やがて、四時を告げる軽やかなチャイムが鳴り始めた。

「よっし、帰るか」

「うん。そうだね」

 広げていた教科書たちを鞄に入れ立ち上がる。いつものように人目を避けて校門へと向かい、そしていつもの分かれ道まで歩く。

「んじゃ、また明日な」

「うん。バイバイ」

 ハルを見送ってから、寮の扉を開けた──。


5.

そこには予想通り保健室があった。振り返ると、これも予想通り廊下があるだけだった。

「なんだ、ハルカは入り口で棒立ちするのにハマってるのか?」

「いや、ちょっとね」

 適当に誤魔化してからいつもの席に座る。時計には七月五日と表示されていた。三日と四日は休みだ。昨日の私の仮説は正しかったようだ。

「変なヤツだなー」

 私の妄想の空間。私とハルだけの平穏な箱庭。それがずっと続いていくのだ。


15.

それからというものの、私が保健室に来て、寮の前で別れるまでの心地よい数時間は何回も繰り返された。一切不快な存在のないその空間は、私の心を幸福で満たすには充分だった。

 ハルは優しい。そして奇麗だ。私はそんなハルが大好きだ。だから私は、ずっとここにいられればそれでいい。


29.

私にとって、他人を一方的に好きになるという事は、結局のところ自分の世界に閉じ籠ることと同義なんだと思う。皮肉にも、この世界はそれを体現してしまっているんだろう。

他人は怖い。私のバックグラウンドがどうだとか、そういうことを抜きにしても、結局他人は怖いのだ。何を考えているのか分からない。自分のことをどう思ってくれているのか分からない。だから怖い。

私もハルがなにを考えているのか分からない。でも、私はハルを好きになってしまった。でも、ハルが私をどう思っているか分からない。怖い。

そして私は結局、殻をより一層厚くして自分の中に閉じ籠ってしまうのだ。ハルに、好きだと言ってもらえることを夢見て。ハルに、殻の中の自分を見てもらえることを夢見て。

そういう所も含めて私は「気持ち悪い」のだ。

でも、ここではそれは関係なくて。

私の殻の中だったら、ハルは私を拒絶することはない。傷つけてくることはない。だから楽だ。

でも結局、殻なんてものは不完全だ。中を見て欲しいから、私はハルから殻を守ろうとしない。結局崩壊してしまうのだ。この殻も、箱庭も。


***


 七月二十九日。私と会話している途中のハルはなんだか落ち着かない様子だった。理由を聞いても、「まぁ、色々とな」と誤魔化されるだけだった。

 結局下校の時までハルはそのままで、私は不安を拭えないまま寮の扉に手を掛けた。

 ──いや、駄目だ。私はこのまま明日を迎えたくない。

 私は急いで振り返る。ハルは私の少し遠くを歩いていた。今ならまだ声をかけることができる。

 けど、無理だ。今日のハルの様子を思い出すと、どうしても声をかける気にはならなかった。仕方ない、少しだけ後ろからついていこう。

 ハルはいつも通りの道を歩いていく。しかし、孤児院の前を素通りし、さらに先へと進んでいく。この先は墓地くらいしかないはずだ。店の類のものはなかったと思う。

 ハルはなんの迷いもなく先へと進んでいき、そして墓地の中へと入っていった。

「……?」

 何故か見覚えのある風景だった。胸騒ぎがする。背中に冷たい汗が流れていくのを感じながら、物陰に姿を隠す。

 ハルはある墓の前に止まった。周りの墓と比べると、明らかに奇麗な墓。

 手入れがきちんとされている、という次元ではなかった。角は全く削れていないし、傷も殆どついていない。多分、新しい墓。

 墓には「夕立家之墓」と書かれている。……夕立。どこかで聞いた覚えがある。

 ハルは鞄から何かを取り出し、墓の前に置いた。花、だろうか。

「なあ、ナツキ。元気か?」

 ……そうだ。ここはハルの旧友──夕立ナツキの墓だ。場所は聞いたことがあったが、来たのは初めてだった。来たくないと思っていたはずなのに、なんで忘れて着いてきてしまったんだろう。

「お前がいなくなってから、もう一年か……」

 今日は七月二十九日。夕立ナツキの命日だった。

 思い出した。現実の私も、今日、同じようにここに来ていたんだ。

 

***

 

 あの時。私は物陰に隠れてハルのことを見ていた。

「なあ、ナツキ。元気か?」

 ハルは、いつも通りの凛とした目に涙を溜めて、墓──の向こうにいるのであろう夕立ナツキのことを見ていた。

「ナツキがいなくなってから、もう一年か……」

 涙声だとすぐ分かった。……隠れている私にはなにもできない。

「ナツキはきっと天国でうまくやってるよな? うちも、まあ、そうだな……」

 目元を腕で擦っているのが見えた。

「色々とあったよ。そのせいで、保健室登校になっちゃったけどな。……それでもさ、うちのことを気にかけてくれるヤツがいるんだ。上島ハルカってやつ。ナツキよりよっぽど理屈っぽくて、いちいち冷たいけど。いいヤツだよ。……起こった時の口調とか、笑ってるときの目元とか、お前に似ててさ。……うん、ナツキに似てる。すごく、な」

 ハルにとって一番大切なものは夕立ナツキなんだ。これまでも、これからも、ずっと。

 あぁ、私はハルの一番の友達にすらなれないんだな。

 空は腹が立つほどに青く、私とハルの距離はどうしようもなく遠かった。どうしようもないな、と思った。こんなことを考えるの何回目だろう。

 私もハルも、多分ずっと留まっている。だから私はハルに近づけない。

「なぁ、いつかまた、ナツキに会えるかな」

 笑ってみる。虚しくなってくるだけだ。……私の笑ってる目元って、夕立ナツキに似てるんだな。

 これ以上、聞いていたくなかった。私はその場を立ち去ることにした。


***


「……ふふ」

 あの夏の日のバーベキューの後、同じ話を本人の口から聞いていた。だから然程ショックではなかった。

 ただ、何度も何度もハルも自分のことを好きになってくれるんじゃないかという淡い期待を抱いては、何かをきっかけにその期待を捨てるということを散々繰り返してきている自分が可笑しかった。だから私は笑うしかなかった。

そして私は、現実の私と同じように、ただ墓場を立ち去るのだった。


30.

 瞼を貫く強烈な光に目を開く。……電車の中だった。

 電車の外は良く見えない。それほどに明るかった。まぁ、見えたところで大した意味はないだろうけど。

 私の目の前では、やはり病衣を着た私がこちらを見ていた。

「どうだった?」

「どうって、何が?」

「ハルと二人の学園生活」

「楽しかったよ」

 最後は悲しかったけど。それはどうしようもないから。

「それは良かったですね」

「うん。良かったよ」

 だから、放っておいて欲しい。

「それで、どうするんですか?」

「どうするって、何が」

「この後ですよ。あなたは一周を終えたんですから」

 この後? あぁ、そうか。前の時と同じように、私は「一周」を終えた。……だったら、答えは決まってる。また電車から降りて、ハルと二人だけの世界に閉じ籠る。それでいい。

「……この電車から降りる。そしたら、またハルに会えるから」

「そうですか」

 もう一人の私は、軽やかな足取りで私の隣へと向かい、ストンと擬音が聞こえてきそうなほど軽やかに座った。

「本当にそれでいいんですか?」

「いいの。それで私は幸せだから」

 早く降りたい。そうしたらハルに会えるのに。

「この電車に乗り続けていたら、現実の貴女は目覚めます。そうしたら、現実のハルに会えるんですよ」

「……うるさい」

 どうしようもないほど軽やかな、もう一人の私の声が、どうしようもないほど耳障りに響く。治っていた頭痛が再発しそうだ。

「なんでそんなに現実に帰りたがらないんですか?」

「分かるでしょ。……あなたは私なんだから」

「それもそうですけど、私は貴女の口から聞きたいんですよ」

「だって、しょうがないじゃない」

「何がですか?」

「ハルには、ハルには幸せになってほしかった。だって、大好きだったから……でも、その幸せに私は不要。だったら、邪魔者の私は死ぬしかないじゃない」

 涙が溢れて来る。もう一人の私がどこからかハンカチを取り出して、私の涙を拭った。

「それで、私とハルの二人だけの世界の夢を見ていた、と」

「そう。それの何が悪いの? 私も幸せ。邪魔者のいないハルも幸せ。それで、いいじゃない」

 現実のハルにとって私は不要。その現実が私の旨を酷く締め付ける。……だから、目を背けるんだ。

「……本当にそうなんですか?」

「何が?」

 もう一人の私が立ち上がる。次の言葉を待つ。

「確かに、私は貴女です。でも一つだけ違うことがあります」

「……は?」

 予想外の答えに戸惑う。それの何が関係あるんだろう。

「だから知っています。貴女がなぜ、夢の箱庭にこだわるのか」

「……それが何だっていうの」

 私が箱庭にこだわる理由。そんなのはどうでもいい。だって、本当にこのままでいいと分かってるんだから。どんな理由があったとしても、そう思っていることは変わらない。

「それを知っているから、貴女に目覚めて欲しいと思っているんですよ」 

分からない。私とあなたは何が違うの?

「貴女は、ハルのことをどう思ってるんですか?」

「どうって……好きだけど」

「どう好きなんですか?」

 そんなことを言われても困る。好きだとか愛だとか、そういった感情の言語化は当たり前のように難しい。

「笑顔とか、目とか……とにかく、全部好きで。……一緒にいたいって思うし、向こうからもそう思われてたらいいなって思う」

思ったことを口にする。

「本当にそれだけなんですか?」

「それだけって、何が?」

 やれやれ、とでも言いたげに肩をすくめたもうひとりの私。

「ハルがいなくなったらどう思う?」

 悲しい、と思う。

「ハルが元気にしていたらどう思う?」

 嬉しい、と思う。

「ハルがどこかに行ってしまったらどう思う?」

 ……悲しい、と思う。

「ハルが保健室登校をやめたらどう思う?」

 ……嬉しい、と思う。

「もし、ハルが。保健室登校をやめて、貴女の知らないところで元気になっていたら、どう思う?」

 嬉しいに決まってる。

「本当に、認めたくないんですね」

「何の話?」

「貴女の独占欲の話です」

 頭が痛い。窓の外の強烈な光が、今になって痛みへと変貌する。

「貴女は、心の奥底でハルの事を独占したいと思っている。でも同時に、その気持ちを捨てたいと望んでいる」

 今、分かった。だから目の前の私はこんなにも軽いのだ。

「……そうだね」

「それで、どうするんですか?」

「……」

「ハルのことが、好きなんでしょ?」

「……うん」

「本物のハルが、貴女の目が覚めるのを待ってるんだよ」

「……でも、目が覚めたら、きっと私はまたハルを独り占めしたいと思ってしまう」

 この夢の中のように。

「それに気が付けたら、大丈夫。貴女は貴女の幸せをもう一度見つければいい」

「……他の幸せなんて、見つけ方が分からないよ」

「思い出して。最初の貴女は、ハルが自分のことを分かってくれたから嬉しかった。幸せだった」

「……でも、でも」

 分からない、分からないよ。私はどうすればいいんだろう。

「入尾ー、入尾ー」

 車内放送が聞こえてくる。電車が止まる。

ここで降りて、電車を乗り換えれば、またハルに会える。

「昏睡状態から目覚めたら、身体に障害が残るかもしれない。今まで通りに過ごせないかもしれない。でも、貴女は、ちゃんと目覚めてハルに会いに行くべきだよ。ハルのことを独占したいなんて思わない、もっと単純で、もっと優しかった幸せを思い出して」

 電車が走り出した。


八月十日.

 ピッ。ピッ。ピッ。

 どこからか電子音が聞こえてくる。目の前は真っ暗で、何も見えない。

 ピッ。ピッ。ピッ。

 次第に視界が開けてくる。見慣れない天井だ。ここは病院……だろうか。

 ピッ。ピッ。ピッ。

 私のことを覗き込む瞳が見えた。真っすぐで、澄んでいるはずだった瞳。それを涙で歪めたのは──

「私……」

「ハルカ、ハルカ、聞こえるか! うちだよ、ハル!」

 口がうまく動かない。動かないけれど、なんとか貴女の名前を呼ぶ。大好きな、貴女の名前を。

「ハル……」

「ハルカ……!」

 ハルが抱き着いてくる。体がうまく動かないけれど、ハルの体温は伝わってくる。

「私、私ね……」

 長い夢を見ていたようだ。思い出せないけれど、怖かったような、暖かかったような、そんな夢。

「おうおう、どうしたんだハルカ。なんでも言ってくれ……」

 泣きじゃくるハルの頭に、点滴だらけの腕を乗せる。

 私は幸せを見つけるよ、ハル。

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ドロウ・ユア・アイズ 黒犬太郎 @Kuroinu_Kinako

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