第2話
7.
「そういや、ハルカって動物とかは書かないのか?」
「どうしたの、急に」
色鉛筆を買いに行った三日後、川のスケッチを終えて田んぼの風景をもとに線画を描いていた時、ふと聞かれた。
「いや、なんとなく。そのスケッチブックの中も景色とか花とかばっかじゃん?」
「うん、止まったものを描く方が好きかな」
「へー、なんで?」
「静かな方が好きだから。私だけの世界を描いてるみたいで。それに、描きやすいしね」
「あー、うん」
ハルが空を見て微妙な顔をしている。
「悪かったな、うるさくて」
「いや、そういう意味じゃないから……」
確かに今のはそういう意味に聞こえたかもしれない。少し反省。
ハルの方を見ると、何故かそのまま空を見上げていた。私も一緒に空を見上げる。
真っ青な空にいくつかの白い雲が浮かんでいる。夏、という単語が似合いそうな空だ。そういえば、最近はあまり空を見ていなかった。ハルに振り回されてそんな余裕もなかったし、別に空を見ていなくても楽しいことが沢山ある。
今ではすっかり隣にハルがいることに慣れてしまった。そんなハルは、江沢に行った次の日のうちに真新しい色鉛筆たちで色を塗り終えてしまった。丁度私の色塗りも終わったので、次の場所に移動してきたという訳だ。
「描くかー」
「うん、そうだね」
私は景色全体を、ハルは家一軒に絞って描いている。
「これ描き終わったら、ハルカの事でも書いてみようかなー」
「私!? なんで」
突拍子のないことを言い出したから、若干声が裏返ってしまった。
「いや、なんとなく。ハルカは、人の絵は描いたことあるの?」
「美術の時間でくらいかな。難しいし、上手く描かないと被写体の人に申し訳ないし」
「そういうもんかなー」
「うん、少なくとも私にとっては」
「まぁ、うちも一回やってみようかな」
「でもそうしたら私はじっとしてないといけないんじゃ」
「いーのいーの、スケッチしてる横顔を描くだけだから。いつも通りにしてればいいよ」
「横顔でいいの?」
「うん。スケッチしてる時のハルカの横顔ってさ、真剣だけど、どこか楽しそうでさ。奇麗な茶色い髪がちょっと揺れてて、なんつーか」
「……」
「まぁ、うちは好きだぜ、ハルカの横顔」
「そ、そう」
流石に少し恥ずかしくて、思わず俯いてしまった。
「す、好きにしたら」
「やったー。じゃあ、さっさと家を描き上げちゃお」
「う、うん」
8.
次の日のこと。私は村の外れの鉄橋の線画を始めていた。そして私の真横から、ハルが私の横顔をスケッチしている。
「うーん……」
何かが書き込む音が聞こえてくる。
「うー?……」
顔をあげては何かを書き込み、また顔をあげては──の繰り返し。絵を描く時の基本動作ではあるけれど、いざその対象物が自分になると動作の一つ一つが気になってしまう。さらに、ハルの独り言がいつもより多い気がする。集中しづらい。
「……」
集中、集中……。
「あー……」
集中集中……
「……」
集中、集中……!
駄目だ、少し無理がある。前もあったなこんなこと。
「もう少し静かにできない?」
「えー、うちそんなにうるさかった?」
「うん、だいぶうるさかったよ」
「ごめんごめん。でもさ、難しんだよ、見てよこれ」
そういってハルは自分のスケッチブックを見せてきた。
「……ふっ!」
思わず吹き出してしまった。そのまま笑いが止まらず、腹を抱えて笑ってしまう。
「酷いなー、頑張って書いてるのに」
風景画は上手くても、人物画は下手なようだ。人間とは思えない奇妙な物体が描かれている。まだ止まることのない笑い声が、鉄橋の下、渓谷へと響き渡っている。
鉄橋を新幹線が走り抜けた頃、やっと笑いが収まった。
「えー、なんかいいや」
そういうとハルは、紙をスケッチブックからちぎり取って、そのままビリビリに破いて渓谷へと棄ててしまった。
「ご、ごめん」
「いーのいーの、ハルカの魅力を表現できる程うちの画力はないって分かったし」
「魅力って……」
その時だった。なんの前触れもなく、酷い痛みが私の頭を襲った。
経験したことのない痛み。耐えきれなくなり、思わずその場にうずくまる。
なんだろう、何故だか、すごく悲しい。
「どーした? 大丈夫かー?」
「……わかんない、急に頭痛くなってきちゃった」
私の背中をハルがさすってくれる.そのおかげか、段々と痛みが引いてきた。これなら大丈夫そうだ。
「新幹線の音がうるさかったのかなー、今日はもう終わりにしといたら?」
「うん、そうする……」
今日は帰ることにした。
9.
結局、帰ってすぐに寝てしまい、起きたのは次の日の朝だった。ハルからの「大丈夫かー。ずっと絵ばっか描いてるから、疲れてきたんじゃねーの? 明日くらいは休んだら」というメールに従って、今日は休むことにした。とはいえ家にいてもやることがないから、ゴロゴロ本や漫画を読んだり、テレビを見たりするしかなかった。……部屋に夕日が差し込んでいる。今何時だろ、六時か。
「そろそろ夜ご飯かな」
立ち上がって、部屋を出る。階段を下っていると、ドアのチャイムの鳴る音が聞こえてきた。おばあちゃんは夜ご飯の準備で忙しいだろうから、私が出ておこう。
またチャイムが鳴らされる。急いでドアを開けると、そこにはハルが立っていた。
「おーハルカ! 元気か?」
「あ、うん。お陰様で──」
「じゃあ、今からバーベキューしない?」
「ど、どうしたの急に」
「バーベキューしよーって思って」
「それは分かってるんだけど」
そもそも夜ご飯作っちゃってるし、と言おうと思った瞬間、いつの間にか後ろに立っていたおばあちゃんが言った。
「行ってきなさい。夜ご飯も、まだ全然準備してなかったから」
「で、でも……」
「はーい、じゃあ決定! 行くよ、ハルカ」
ハルが手を掴んでくる。
「ま、まって、靴」
靴もまともに履けずに飛び出す羽目になってしまった。
***
連れてこられたのはハルの家の庭だった。バーベキューコンロと水の入ったバケツ、炭、キャンプ用のランタン、竹串、それに大量の生肉と少量の野菜や塩胡椒とが用意されている。野菜が少なめなのがいかにもハルらしい。それにしても準備万端だ。
「準備万端だね」
「まぁ、ハルカの体調が悪かったら明日やればよかったし」
「そっか」
「よーし、じゃあ始めてこー」
着火剤らしきものに火をつけている。
「うちが炭入れてくからさ、ハルカは団扇で扇いどいてくれない?」
「わ、わかった」
いつのまにか軍手をしていたハルが団扇を差し出してくる。炭が投入されるのに合わせてパタパタと団扇を仰いでいると、やがて炭が赤く色づき始めた。
「そろそろいいかな?」
「まだ駄目、もう少し扇いで。代わろっか?」
「ううん、大丈夫」
根気よく扇ぎ続けていると、やがて炭全体に火が広がり始めた。
「よっしゃ、後は火の勢いが収まるまで待とう」
「うん」
団扇を置く。
「それにしても、なんで急にバーベキューなんか?」
「前に、スケッチブックを倉庫から見つけたって言ったじゃん? その時に、このコンロとランタンも見つけたわけ。それで、いつかバーベキューやりたいなーってところに、親父のお兄さんの奥さんの弟──酪農家なんだけどさ、その人たちが肉を送ってきて、『これもうやるっきゃないでしょ! 』ってなったわけ」
「随分遠い親戚さんから送られてきたんだね……」
「バーベキューしたら丁度二人分かなって量だったから、ハルカを呼んだわけ」
「そっか。ありがとね、よんでくれて」
「いいってことよ」
いつの間にかだいぶ暗くなってきたようだ。田舎なので光が少ないこともあり、ランタンと炭の光がいい雰囲気を醸し出している。キャンプに来たみたいだ。少し風が強くなってきたが、炭のお陰で寒くはない。
「そろそろかなー」
ハルが手をかざしている。
「よし、やりますか」
ハルが竹串に具材を指し始めたのを見て、私も適当に刺し始める。
「懐かしいな、この感じ。昔、お父さんとお母さんとやったきりかな」
「あ、ハルカも? うちもなんだ、最後にやったの」
「ハルもなんだね」
とりあえず二本分を網に並べる。ハルは三本目を作っているようだ。
「二人だと寂しくなるかなーって思ったけど、全然だったわ。ハルカがいるからかな」
「もう、どうしたの急に」
三本の串を並べながら、ハルは悪戯っぽく笑った。
「んー、分かんない」
「なんなのそれー」
ちょっと面白くて、思わず私も笑ってしまった。
「おっと、焼いていかないと」
「そうだね」
頃合いを見ながら串を転がしていく。しばらく頑張ると、いい感じに焼け目が付いてきた。
「そろそろじゃないかな」
「おう、そうだな」
とりあえず紙皿に一本だけ乗せて、塩胡椒を振ってみる。ハルもやり終わったのを見て、食べ始めることにする。
「いただきます」
「いっただきまーす」
恐る恐る口に運んでみる。まずは牛肉だ。
バリ。こんがり焼けた表面が小気味の良い音を立てたと思った瞬間、沢山の肉汁が溢れてくる。そのまま肉の一部を串から切り離し、さらにもう一度噛んでみる。舌の上でとろけそうなほど柔らかい牛肉から、さらに肉汁が溢れてくる。そのまま夢中で噛んで、そして飲みほす。
残りの牛肉を口に運びながらハルの方を見ると、すでに一串分食べ終えていた。
「美味いなーこれ」
このままじゃハルに食材を独り占めされてしまう。私もペースをあげなくっちゃ。
***
「楽しかったけど疲れたなー」
「ほんとにね」
バーベキューも終わり、後片付けも終えた私たちは、ハルの家の縁側に座ってスイカを食べていた。
ハルがスイカを齧る、子気味いい音が聞こえてくる。
「凄い夏らしいことしたなー」
「そうだね、バーベキューもスイカも、凄く夏っぽい」
「なー」
なんとなく星を見上げていると、ハルも私の真似をし始めた。静寂の中、虫の鳴く音が響き渡る。何となくハルの方を向いてみると、澄んだ瞳が光を反射して奇麗に光っていた。
「奇麗……」
「ん、どうした?」
思わず口に出していたらしい。あわてて言い直す。
「あ、き、奇麗な天の川は田舎の特権だよね。……あ、これもちょっと夏っぽいかも」
「確かに。あ、そうだ」
ハルが部屋の中に駆け込み、何かを持って戻ってきた。
「やっぱ夏の縁側と言えば蚊取り線香だよな」
「うん、確かに」
ハルが火をつけた途端、線香のいい匂いが漂ってくる。最高に夏らしい。
スイカを食べるのを再開する。私はスプーンで種を取ってから食べるが、ハルは豪快に食べては庭に種を飛ばしている。ハルらしいといえばハルらしい。
蚊取り線香が半周程したころには、私もハルもスイカを食べ終えていた。
「楽しかったな」
「うん。……ていうか、ここに来てから毎日が楽しいかも」
「ここって、この家?」
「いや、そうじゃなくて。この村の事だよ」
「あぁ……学校、嫌いなの?」
「うーん、嫌いって訳じゃないけど、好きでもないかな」
「意外だなー、ハルカって勉強めちゃめちゃ真面目にやるタイプだと思ってたよ」
時計をチラリと見ると、午後十時を指していた。
「そういう訳じゃないんだけどね……あ、そろそろ帰らなきゃいけないかも」
軽く腰を浮かせてハルの方を見ると、ハルはどこか気まずそうに他所をみながら言った。
「もう少しだけ、話してこうぜ」
「え? まぁいいけど」
浮かせた腰を元に戻す。とは言え、話すこともない私はハルが話し始めるのを待つしかなった。
「明日は、絵を描くのか?」
「うん、そのつもりだけど」
「そうか……」
また静寂が訪れる。暫く虫の声を聴いてみても、一向に次のセリフは出てこない。向こうから話していこうぜといったくせに、話されないとこっちが困る。……何か言いづらいことなのだろうか?
私がなんと声をかけるか戸惑っていると、やっとハルが口を開き始めた。
「うちさ、ハルカに謝らなきゃいけないことがあるんだ」
「どうしたの、急に」
「うちが最低最悪だって話」
「……」
ちょっと前までの笑顔のハルと同一人物とは思えないほど、ハルの顔は暗く見えた。……光が少ないからだろうか。
「川辺で偶然出会って、押しかける様に絵を一緒に描き始めて、電車で隣の町に行ったり、バーベキューしたりスイカ食べたり、うちはとっても楽しかったし、ハルカが仲良くしてくれるのも嬉しかった」
「……私も、楽しかったよ」
なんだか遺言みたいな文章だ。そう軽口を叩いてやろうと思ったが、また口を閉ざしてしまったハルの顔を見て、出かかった言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
お互い何も言わない。じっと、次の言葉を待つ。
「それでさ、前に虐められてたナツキって子の話、したよな?」
「……うん」
黙ったハルを横目に空を見ながら、私はまた次の言葉を待たなければならなかった。
「昨日一日、考えたんだけどさ」
「……」
「ハルカが、ナツキに似てるなって」
ハルカが、ナツキに似ている。ハルカは私だ。私がナツキに似ている。なんで?
ハルの言っている言葉の意味が分からない。多分、理解を拒んでいる。
「だから、もしかしたら、ハルカが楽しそうにしているのを見て、ナツキに罪滅ぼしをしているかもしれない、なんて、考えて」
「……そう」
相変わらず、ハルの言っている言葉の意味はよく分からなくて。それでも、悲しいことであることだけは分かって、どうしようもなくなってしまった。治ったはずの頭痛がぶり返した。ずきずきと痛む。
「ごめんな」
「……うん」
私はどうしようもなくなって、ただ黙りこくっていた。ハルもそうだった。
だから、ハルのお母さんに「早く帰りない」と呼ばれた時、少し救われたような気分だった。
***
その後のことはあまり良く覚えていない。気が付いたら風呂を済ませて家のベッドにいた。
未だにズキズキと痛む頭に、いつの間にか振り始めた雨の音が突き刺さる。
こんな時に限って、思い出すのは楽しかったことばかりだ。出会って一週間と少しだけど、初めてできた「友達」との思い出はどれも新鮮なものばかりだ。
「うぅ……」
溢れてきた涙を布団でふき取る。シミになってしまうかもしれないが、そんなことはどうでもよかった。
きっとハルにとって私は純粋な友達ではなかったのだろう。髪を奇麗と言ってくれたことも、横顔が好きだといってくれたことも、全部、全部純粋な気持ちではなかったのだろう。
どうしようもない。どうしようもなかった。止まない雨と頭痛が私の心を蝕んでいく。いっそ、全部壊してほしくなった。
死してなおハルに大切にされるナツキがどうしようもなく羨ましかった。私が彼女に勝ってるのは、きっと両親が居ないという境遇ぐらいだ。
初めて、分かってくれる人だったのに。初めて、ちゃんとした友達だと思ったのに。
どうしようもない暗闇の中、何度も同じところを回り続けている思考の果てに、私は気がついてしまった。
これは、嫉妬だ。
大好きなハルの一番に、死してなおあり続けるナツキという少女への、嫉妬なんだと。
そう気が付いた途端、より一層頭痛が酷くなる。余りの痛さに悲鳴が漏れる。
そして私は意識を手放した。
?.
これは夢なんだと思う。
「それでさー、また神崎の野郎が教室に戻って来いってしつこく言ってきてさー」
だって私は制服を着ていて、そしてハルもまた同じ制服を着ているのだ。保健室らしき部屋の机を挟んで、二人で談笑をしている。多分、私の高校の保健室だ。
「でもさ、まだ高一だよ? 学校側もずっと保健室登校させたくはないんじゃないかな」
「うーん……」
私の意志とは無関係に私の身体が動いている。その感覚が夢らしさを加速させている。
「編入組が入ってきたおかげで、雰囲気もだいぶ変わったみたいだし。私は編入組だから分からないけど、結構皆そう言ってるし」
「そういうもんなんかなぁー」
ハルの様子は制服以外は全く変わらず、私の話し方も全くの自然体だった。
「まぁ、うちはハルカが保健室に来てくれているだけで寂しくないからなー」
「もう、またそんなこと言ってごまかして」
そして、妙に浮ついた心が幸せなんだと教えてくれる。だから、この時間がずっと続いてくれればいいのにと思った。
そんな願いも虚しく、夢の終わりはすぐに訪れてしまったのだ。
10.
「台風十号が接近している影響で、列島全体が──」
朝になっても雨は降り続いている。なんとなく点けたテレビからニュースが流れている。天気が悪いとハルに会わない理由が出来るから、正直助かる。
「はぁ……」
私の心も澱んだままだ。頭痛が続いているのは低気圧のせいだろうか。……そう思っておこう。
このままずっと雨が降ってくれれば会うこともなく済むだろうが、流石にそんなことはあるはずもない。自分の気持ちに整理をつけておかないといけないのに、目を背けていたくなる。
ドアのチャイムの音が聞こえてくる。おばあちゃんが出たようだ。
「ハルカー、お友達よー」
……ああ、もう来ちゃったのか。
「うん」
重い足を引きずって玄関に向かうと、土砂降りの雨の中、レインコートのポケットに手を突っ込んだハルが突っ立っていた。
「……よっ」
浮かない顔で、片手をポケットから出して会釈をするハル。
「うん」
小さな声で返事をする私の隣に、おばあちゃんが大量のタオルを持ってきてやってきた。
雨が止むまでここで遊んでいるように促している。余計なこと、しなくていいのに。
***
おばあちゃんが持ってきたオレンジジュースの水滴が、手に纏わりつく。
どうしようもない。昨日あんなことがあったのに、二人きりになったところで気まずいだけだ。
「奇麗だな、ハルカの部屋」
「うん」
「昨日は、ごめんな」
「うん」
「うちが、弁明のしようの無い自己中野郎なだけだったから」
「……」
なんて返せばいいんだろう。なんて返せばちゃんと仲直りできるんだろう。なんて返せば、私のことをちゃんと見てくれるんだろう。分からない、分からないけど、ちゃんと伝えるしかない。
「……ハルが、線画を始めた日の事覚えてる?」
「うん」
「あの時さ、両親が居ないって話になって、私の気持ちをちゃんと理解してくれて。……初めてだったんだ、分かってくれる人。その時はさ、ただの自分勝手でガサツな人だなって思ってけど、一緒に居ても心地よくて、心の底から楽しめる人──初めて、友達って呼べる人に出会えたなって」
「……」
「私、昔は髪が黒かったんだ。それで、両親が死んだストレスで、茶色になって、それで自分の髪が嫌いで。でも、ハルはそれを奇麗って言ってくれて。ハルのお陰で、やっと自分が好きになってこれたのに。……でも、昨日、ハルは……」
一晩泣いて出し切ったと思っていた涙が溢れて来る。
「ハルが、私のことを純粋な友達だと思ってなかったのかもって思うと」
「本当にごめん……」
あぁ、私は。
「私、悲しくて」
貴女の澄んだ瞳が、涙で歪んでいくのが見たくなかった。
「ごめんな、ハルカ……」
ハルが抱きしめてくる。二人とも同じくらいの背なので、ハルの肩に私の頭を埋める形になった。ハルの右手が私の背に、左手が頭に乗せられる。
「ちゃんと、ちゃんと向き合うから……」
そして、私は気がついてしまった。
「ハルカのことをもっとちゃんと見るから……」
私のその感情は、決して彼女に抱いてはいけない
「だから、だから」
どうしようもない恋心だったのだ。
「……また友達に、ならせて欲しい」
私はハルの前で、ひたすら泣きじゃくるしかなかった。
***
そのまま、二人で何十分も泣き続け、いつの間にか晴れていた空の下をハルは帰っていった。
「疲れた……」
もうご飯もお風呂も済ませた。後は寝るだけだ。けれど、あの時、あの瞬間から感じるようになった胸を締め付けるような感覚のせいで、なかなか寝付くことが出来ない。泣いている途中に消えていた頭痛も、いつの間にか再発していた。
急に、抱きしめられた温もりを思い出してしまった。思わず赤面する。
「はぁ……」
我に返ってため息をつく。私は、なんていう人を好きになってしまったのだろうか。
夏が終わって、寮に帰る前に、なんとかこの思いにさよならを告げないといけない。ズルズルと引きずっても私が苦しいだけだし、かといってまさか伝える訳にもいかない。
「どうしよっかな……」
私は、私はどうすればいいのだろうか。結局分からないままだ。
15.
恋は甘くも苦くもある、とはよく言ったものだ。最初に言い出した人が何処の誰かは知らないけれど、恋の二面性を簡潔に言い表した言葉だと思う。
けれど、本当は甘いとか、苦いとか、そんな生ぬるいものじゃなかった。時に、何物にも代えがたいような快楽を与えられ、時に、身体ごと引き裂かれるような痛みを与えられる。人生で初めて心を許した相手、しかも同性に恋をした私にとって、それは確かな実感を持って、鮮明に、強烈に与えられた。
19.
誰かを好きになるということは、身体の一番表面を差し出すことに似ている、と思った。相手に触れられ、温められるうちに、相手無しでは生きられなくなる。冷たさに触れた途端、どうしようもないほどに暖かさを求める。
優しく撫でられ、心地良さに溺れているうちに、いつしか肌は炎症を起こす。その優しささえ痛みに変わる。いつの間にか、感情は凶器そのものになり、引っ掻き回され、血を流し、一生消えない傷跡が残る。それが恋というものだと思う。
23.
「ハルカってさ」
「何?」
「いつ帰るの? その、寮に」
「30日にここを出る、かな」
「ふーん、そっか」
ハルはまた絵を描くのに戻ってしまった。
あれから、ハルはちゃんとした風景画に挑戦するようになった。線画もかなり上手になり、私が教えることはもうないように思える。その事実が、余計私の寂しさを加速させた。
あと一週間、あと一週間で終わりだ。それまでに、この感情に到底ケリをつけられそうもなく、冬休みにここに戻ってくるまで、会えない日々を悶々と過ごし続けるだけになってしまいそうだ。
そんなことばかり考えて線画をしているものだから、間違えて絵の隅にハルの姿を描き始めていた。慌てて消す。
ハルは、私が真剣に絵を描く横顔が好きだと言ってくれたけれど、私もハルの真剣な横顔が好きだ。多分、何倍も。
話しているだけで、隣にいるだけでどんどん好きになっていく。もう、止めようがない。
「ハルカー」
「え、な、なに?」
急に話しかけられて、思わず声が上ずってしまう。
「向こうに帰っても、たまにはメールの一つでもよこしてくれよな」
「う、うん」
できるものなら、毎日毎日、ずっとメールをしてたいよ。そんな言葉を飲み込む。「友達」のはずなのに、言いたいことも言えない、そんな毎日だ。
「冬にはまた戻ってくるんだよな?」
「うん」
「そっか……」
少し寂しそうなハルの横顔に、私は一瞬の喜び──ハルが私と会えないことを寂しいと思ってくれる喜びと、数か月も続くハルのいない生活への悲しさを感じた。
「うちのこと、忘れないでくれよ」
「忘れるわけないじゃない」
貴女のことを、一秒たりとも忘れることはないよ、ハル。
「──ハルも、私のこと覚えといてね」
これが、今の私の精一杯の言葉だった。
「あったりまえじゃーん」
悪戯っぽく、ハルが笑った。
24.
別れの日が近づいてくる。一分一秒でも多く、ハルのことを覚えておきたかった。何日も会えなくても、大丈夫なように。
貴女は、私の事だけじゃなくて、私と過ごした日々のこともちゃんと覚えてくれるだろうか。私との日々は、貴女の記憶の中で何番目に大切な記憶になるのだろうか。一位は無理でも、せめて、せめて二位にはなりたいよ。
27.
もし、もしもだ。私がこの想いを伝えたら、貴女はどんな顔をするのだろうか。喜んでくれる──訳はないだろう。困った顔だろうか、それとも、私の事を気持ち悪がる顔だろうか。──やっぱり、伝えられる訳が無い。
29.
いよいよ明日がお別れの日だ。今日もいつも通りに絵を描いて、その後別れて家に帰ってきた後、私はどうしようもない寂しさにただ座り込むしかなかった。
明日は、どんな顔をして別れればいいんだろう。
「ハルカー、いるかー?」
そんなことを考えていると、急に外からハルの声が聞こえてきた。飛びあがって窓を開け、大声で答える。
「どうしたのー」
大きな袋を両手で掲げたハルがにんまりと笑った。
「花火やろうぜー! 花火ー!」
どこから出てきたのだろう、その花火は。とりあえず下に降りて、外に出てみる。
「よぉ、ハルカ」
「こんばんは、ハル。どうしたの、その花火」
「やりたくなってさ、チャリで江沢に行って買ってきたんだ」
「い、いつ?」
「さっき、別れた後」
「そ、それはご苦労さま……」
相変わらず無鉄砲な人だ。
「よっしゃ、じゃあうちの庭でやろうぜ」
「うん、分かった」
ハルと二人きりの花火に胸を躍らせながら、ハルの庭へと向かった。
***
バチバチバチ。手持ち花火の音が響き渡る。普段は全く聞かないタイプの音なのに、何故か耳に馴染んで、どこか懐かしい、気持ちのいい音。
ハルが両手に花火を持って、楽しそうに踊っている。動き回る手の後ろに光が現れて、そして消えていく。カメラでシャッターを開けっぱなしにして写真を撮ったら、きっと奇麗なものが撮れるだろう。
強烈な光となって現れ、煙を残して消えていく。そんな様子を自分に重ねてみて、あまりの俗っぽさに少し恥ずかしくなる。流石に浮かれすぎだ。
「あれ、ハルカもういいの?」
「ううん、疲れたからちょっと休憩」
縁側に座って、火花に照らされるハルのことを眺めていたかっただけだ。
この時間が永遠に続けばいいのに。そんなことを思いながら、立ち上がり、新しい花火を手に持つ。
「ハルー、火、頂戴」
「いいぞー」
ハルの花火に私の花火をかざす。ふと顔をあげると、キラキラと光り輝くハルの瞳が目に入った。
「点いたぞー……? どうかしたか?」
顔をあげたハルと目が合ってしまった。
「な、なんでもない」
慌てて視線を落とすと、私の花火から金色の火花が噴き出していた。
「奇麗だなー」
「うん」
また踊りだしたハルを見ながら、私も小さく手を振ってみる。……が、二人とも直ぐに火が消えてしまった。
「短いね、やっぱり」
やっぱり、短いのだ。
「でもまだいっぱいあるしいいじゃん、次行こうぜー、次」
「うん」
一本一本、着火していくごとに、終わりが近づいていく。花火の光に照らされて、眩しく光り輝く貴女の姿を、私は忘れることはないだろう。
***
「あとは……線香花火だけか」
「早いね、無くなるの」
あんなに沢山あった花火が、もう残りわずかとなってしまった。これで、私の夏も終わりだ。
「ま、やっちゃおうぜ」
「うん」
ハルから手渡された線香花火に火をつける。だんだん、先が丸まってきた。火花を出し始める。小さな火花の可愛らしさは、線香花火でしか味わえない。
「奇麗だね」
「そうだなー……あ」
ハルの火の玉が落ちてしまった。
「あちゃー、落ちちまった」
「じっとしてないから……」
「次こそはハルカより持たせてみせるぜ」
そういいながらハルは二本線香花火を取り出した。競争する気満々なのだろう。
私の火の玉も落ちたのを見て、次の線香花火対決が始まる。とはいえ、じっとするのが苦手なハルは、次もすぐに落としてしまった。
「いいなー、ハルカのはなかなか落ちなくて……なんかコツとかあるの?」
「特に……あ、でも根元の方を持つようにした方が長く持つよ」
「あー、なるほどな」
そういいながらまた二本分取り出している。暫くして私のが消えた後、また次の競争が始まった。
ハルもコツを掴んだのか、次はなかなか落ちない。二つの火の玉から、奇麗な火花が散り始める。
「これが最後の二本だったぜ」
「そっか」
二人黙って火花を見つめる。
「うちさ」
しんみりとした顔をしたハルが、口を開いた。
「ハルカと会えて良かったよ」
「ど、どうしたの、急に」
「いや、なんとなく……楽しかったぜ、ありがとな」
「こ、こっちこそ。楽しかったよ、ありがとね」
本当は、楽しいとか、ありがとうとか、そんな言葉じゃ足りないけれど。
火の玉が、二人同時に落ちた。最後の、最後の一瞬の火花は、とても奇麗で、それでいて儚かった。
「あ、アイスあるんだった。取ってくるから、適当に縁側にでも座って待ってて」
「うん」
ハルが家の中に走り去っていく。
「はぁ……」
思わずため息をつく。これが、この夏最後の思い出なのだろう。今日の私は、上手く笑えているだろうか。少し不安になってきた。
「おまたせー」
走り寄ってきたハルが私にアイスを手渡す。直方体型のソーダアイスだ。
「ありがとう」
受け取って袋を開けると、すぐにソーダの匂いが充満し始めた。
「江沢のクリームソーダを思い出すなー」
「そんなこともあったね……あの時は、びっくりしちゃった」
「びっくり……あぁ、ナツキの話か」
「うん」
ナツキ、という名前に、少し私の胸が痛むのを感じた。
「まぁ、あれだな……おいしかったよな、クリームソーダ」
「ね。普段あんまり飲まないし」
「そういや、ばあちゃんに聞いたんだけどさ。あそこのカフェのココアがめちゃめちゃ美味いらしいぜ」
「そうなんだ……じゃあ、次来た時に食べに行こうよ」
「あぁ、約束だ」
ニッと笑ったハルに私も微笑み返して、アイスを一口齧る。腹が立つくらい甘い味が、口いっぱいに広が──
「うっ」
まただ。また頭痛が襲ってきた。
「ど、どうした? なんか入ってたか?」
「頭が痛くて」
「アイス食ってるからだな」
「ごめん、お騒がせして」
「あぁ、別にいいさ」
頭痛が収まってきた。その後、これといった会話もなく、二人ともアイスを食べ終えてしまった。
そのまま倒れる様に縁側に寝っ転がったハルを見習って、私もハルの隣に寝っ転がる。
「星、奇麗だな」
「うん」
「確か、バーベキューの後もこんな風に星見たよな」
「確かに。でも、あの時はこんな風に寝っ転がってはなかったよ」
「そういやそうだった」
笑っているハルの方に目を向けると、あの時と同じようにキラキラと光ったハルの瞳が見えた。
あぁ、私、やっぱりハルが好きだ。好きで、好きで、どうしようもないくらいに好きだ。
ハルが少し体勢を変えたのか、私の手とハルの手が触れた。少しだけ、ハルの体温が伝わってくる。ここでハルの手を握る勇気は、私にはまだ無い。
しばらくの沈黙が流れる。心地の良い沈黙だった。
「……明日でお別れかー」
「また?」
「いやー、何して冬まで過ごそっかなーって」
「私がここに来る前は何してたの?」
「覚えてねーや、祖母ちゃんの手伝いとかかな……ハルカと過ごすのが楽しすぎてさ、忘れちゃった」
悪戯っ子のように微笑むハルの顔を見て、私の胸がドキリと痛んだ。
「……また、絵でも描いてれば?」
「あ、それいいな。よっしゃ、ハルカがいない間に上達して、アッと言わせちゃおーっと」
「うん、頑張ってね。ちなみに、アッと言わせるって死語だよね」
「うるせーなー」
二人で軽く笑う
「……」
また、会話が止まる。ハルと私の呼吸音と、鼓動の音だけが聞こえてくる。
星空の中、二人だけの世界。いつまでも続けばいいのに、とは思うものの、そんなことは無理なようで。
リビングの方から、時計のチャイムが聞こえてくる。
「十時か……そろそろ帰った方がいいんじゃねーの?」
「うん、そうだね」
起き上がる。
「じゃ、楽しかったよ。また明日ね」
これが最後のまた明日。そんなことを思いながら、軽く手を振る。
「ああ、またな」
ハルが寝っ転がりながら、いつもの笑顔で手を振り返してくれる。
……名残惜しいけれど、帰って荷物を纏めなくちゃ。
30.
「ハルカー、おはよー」
少し遠くからハルが手を振ってきた。
「おはよう、ハル」
私も手を振り返す。急いで駆け寄ると、いつも通りのハルが立っていた。
「おー、荷物多いなー。持とうか?」
「大丈夫、ここに置いちゃうから」
地面に置く。
「電車が来るまで……あと十分か」
「うん──そうだね」
最後の十分だ。どんな顔で、何を話せばいいんだろう。
「楽しかったぜ、ありがとな、ハルカ」
先にハルが口を開いた。
「うん、こちらこそ。ありがとね」
「うちのこと忘れんなよー」
「その会話、二回目」
「あれ、そうだったっけ」
軽く笑うハルカに釣られて、私も小さく笑う。
「でもさ、まさかこんな所で同じ境遇の奴に会うとは思わなかったよ」
「境遇?──あぁ、私もそう思ってたよ」
普段なら話に出されるだけで嫌な過去だけど、ハルのなら不思議と不快感はなかった。
遠くから電車の音が聞こえてきた。そろそろ来るようだ。
「そろそろ、だね」
荷物を手に取った瞬間、電車がホームに滑り込んできた。
「じゃあ……行くね」
「あぁ」
扉が開く。
「ちゃんと、身体には気を付けるんだぞ」
「そっちこそ。風邪とか引かないようにね」
「大丈夫大丈夫、うちは馬鹿だから」
電車に乗り込む。
「なんかあったらメールしてくれよ」
「うん……何にもなくてもするから」
嫌だ、別れたくない。ずっとここに居たい。でも、そんな願い、叶う訳が無い。
「じゃあ、まあ今度、な」
「うん。また今度」
ドアが閉まる。次第に速度を増して、私とハルの距離が離れていく。こちらに向けて手を振るハルに、私も精一杯手を振る。
もう、後戻りはできないんだ。
バイバイ、私の初恋の人。
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