ドロウ・ユア・アイズ

黒犬太郎

第1話

30.

 それは突然の出来事であった。

轟音が身体を貫いた。どこからかサイレンの音が聞こえてくる。

 地面が冷たい。冷たいのに、何処か熱い。変な感覚だ。

 沢山の足音が、振動となって私の身体に伝わってくる。先程の轟音で耳がやられてしまったのか、何も聞こえない。

 ちくり、ちくりと身体に何かが突き刺さっていく。雨だろうか。

 思い出した。麻痺だ。血流が悪くて四肢の一部が麻痺していく、あの感覚。それが全身を駆け巡っていくのが分かる。

 これが死の実感。何故か冷静になった頭でそう考えている間にも、自分が世界から隔絶されていくのが分かる。音も、温度も、光も、全てが失われていく。

 そして私は全てを覚悟した。


31.

「……っ!」

 飛び起きる。朝の光が視界に飛び込んでくる。急いで自分の手を確認する。

「よかった、ついてる……」

 夢の中の出来事──しっかりと覚えているように思えて、いざ思い出そうとすると全く思い出せないそれの中で、私が酷い怪我を負ってしまったことだけは覚えている。妙な実感を伴うそれを打ち消すために、私は自分の身体を確認しなければならなかった。

 時計を見ると、時刻は午前六時を指していた。今日は終業式だ。朝飯を抜けば時間に余裕があるし、シャワーを浴びた方がいいだろう。悪夢のせいで汗だらけだ。

 制服とタオルを持って脱衣所へと向かう……が、寮母さんに見つかってしまった。

「上島さん、おはよう」

「おはようございます、寮母さん」

 寮母さんは制服とタオルをチラリとみて、口を開いた。

「そのタオルは──いや、そうね、さっさとシャワーを済ませてきなさい」

「はい」

 傍から見ても分かるくらい酷く汗をかいているのだろう。

 逃げるように脱衣所に向かう。扉を閉めて、服を脱ぐ。

 蛇口を捻ってしばらく待てば、すぐにお湯が流れ始める。皮膚の上をお湯が流れていけば、理解不能な夢の感覚が消えていく。心地がいい。

 身体を拭いて、制服へと着替える。部屋に戻る最中に食堂の前を通ったが、時間の問題以前にどうも朝飯を食べる気力は起きなかった。

 鞄を持って、寮を出た。


***


「おはようハルカちゃん」

「うん、おはよう」

 同級生たちの挨拶に軽く返事をしながら席へと向かう。席に着くと、隣のアユミが話しかけてきた。

「ハルカちゃんはさ、夏休み旅行行ったりするんだっけ?」

「私? 私は東北のおばあちゃんちに行くよ」

「おばあちゃんち? なんで──」

 アユミは急に眼を見開き、焦ったように口を押えてから言った。

「ごめんなさい、私、本当にそんな気はなくて……ごめん……」

「大丈夫、気にしてないよ」

 心底申し訳なさそうにしているアユミの頭を撫でる。普段から私のことを交通遺児だと意識されながら接されている方が困る。

「お土産、買ってくるね」

「うん、ありがとう……」

 なんとか次の話題を探そうとするものの、タイミング悪く先生が入ってきてしまった。アユミに目配せをして、身体ごと先生の方へと向ける。

「号令ー」

「起立。気を付けー、礼」

「よろしくお願いします」


1.

 空が好きだ。広くて、奇麗で、色々な表情があって。私をかき乱すことなく、ずっとそこにいてくれる。

 田舎に向かう電車の窓。そこから空を見上げる。私のほかに誰も乗客はいないから、今のところは空を独り占めだ。山の隙間をゆったりと流れている雲たちは、私のことなど気に留めてもいないのだろう。だから心地がいい。

「次はー、円入ー、円入ー」

 降りる駅が近づいているようだ。手荷物を纏める──纏めるといっても、横に置いてある水筒を鞄の中にしまうだけだ──と、電車が減速を始めた。

 荷物を持って立ち上がる。間もなく開いたドアを潜り抜けると、乾いた空気と強い日差しが容赦なく私を襲ってくる。

「お帰りなさい、ハルカちゃん」

 おばあちゃんがホームに立っていた。私をお迎えに来てくれたのだろう。

「ただいま、おばあちゃん」


***


「ここがハルカちゃんの部屋ね。春来た時のままにしてあるから」

「うん」

「何か困ったことがあったら何でも言ってね」

「うん」

「夜ご飯が出来たら呼ぶから」

「わかった」

 おばあちゃんと話すのは少し苦手だ。とても優しいけれど、その裏にどうしても私に対する憐れみを感じてしまうのだ。しかし、長期休暇は原則規制しなければならないというのが寮の規則なのだから仕方ない。中学の寮もそうだったから、流石にもう慣れた。

 部屋へと入る。春休みの時のままではあったが、埃は積もっていない。掃除しておいてくれたのだろう。

 机の上に放置してあったスケッチブックを手に取る。春の時に描いた、この村のあちこちの絵が残されていた。そうだ、確かこの時は風景画に熱中していて、春夏秋冬全部の絵を描いていこうと決めたんだっけ。冷静に考えたら秋休みは存在しないので、四季をコンプリートすることはできないだろう。しかし、どうせならこれの続きを描いてみてもいいかもしれない。どうせ時間は沢山あるんだし、夏の分を完成させてから次を考えよう。

「まぁ、明日からかな」

 今日は疲れた。鈍行で何時間もかけてこの村にやってきたのだ、それでも元気に活動する体力は私にはない。素直に家の中で休もう。

ベッドにうつぶせに寝っ転がり、春に描いた絵たちを眺める。川の絵、田んぼの絵、森の絵、池の絵。絵を描くくらいしかやることがなかったのが伝わってきて、自分でも少し笑えて来る。……あ、この部屋の窓から見た景色の絵もある。

 なんとなく、その絵と現実の絵を見比べてみる。木や地面の色が全然違っていて、心なしか空が狭くなったように見え──

「あれ、なんか違う」

 少し見比べてすぐに分かった。家が出来ているのだ。この家から百メートルくらいの所に、春の絵には存在しない家が建っている。誰か引っ越してきたのだろうか。……こんな田舎に?

「おばあちゃんに聞いてみよう」

 そう思った矢先、私を呼ぶ声が聞こえてきた。丁度良かった。

 疲れた身体を無理やり動かし、階段を下りてリビングに向かうと、テーブルに少し豪華な料理が並べられていた。

「ねぇ、誰か引っ越してきたの?」

「旭日さん家のことかい? うん、つい最近引っ越してきたばかりよ」

「そうなんだ」

「確か、ハルカちゃんと同じ年頃の女の子もいたと思うけど……今度挨拶に行ってみたらどうだい?」

「うん、わかった」

 私と同じ年頃、ということは高校生くらいなのだろう。この辺りに学校はないから、その年頃の子がいる家族がわざわざ引っ越してくる、というのには何か特殊な事情があったりするのだろうか。

「ほら、さっさと食べなさい」

「うん」

 いつもはお行儀よく手を合わせたりしないが、ここでは別だ。

「いただきます」

 

2.

 人生には、どうしようもないことなど幾らでもある。私にとって初めてのそれは、やはり両親の交通事故死だった。

 それをきっかけに、次々とどうしようもないことが現れ始めた。生活環境、人間関係、その他諸々。

 直ぐに施設で暮らすことになったのは、まだマシな方だった。慣れてしまえば何とも思わなくなる。幸い、施設の質自体はそこそこ良く、文化的な生活を送れていたハズだと思う。でも、小学校を出る頃に財政の悪化で潰れた。

 もう一つ、どうしようもなかった事をあげるならば、施設に暮らす仲間たちだった。私のような交通遺児はまれで、皆両親に棄てられた、両親の顔さえもまともに覚えていない子ばかりだった。

「あいつはまだ親がいたんだからいーよな」

 聞こえてくる悪口。今思えば、私にわざと聞かせていたんだろう。

「ほんとほんと、私なんて親の名前さえ知らないのに」

 中途半端で放り出されるより、何も知らない方がよっぽどマシだ。そう思うようになった。

 寮のある中学に入学し、皆と寮で暮らすようになってから、さらに私を取り巻く環境は変わった。皆、普通の子になったのだ。それだけならいい、私も普通に埋もれて普通に変われる。でも普通の中に潜む悪魔はいつまでも私を苦しめた。悪意のない攻撃。ふとした瞬間に皆が思い出す「ハルカの親は交通事故で死んだ」という事実が、皆の中での私へのイメージになった。私は交通遺児であって、それ以上でもそれ以下でも無くなってしまったのだ。いつしか私は、自分を見てもらうことを諦めるようになった。


***


 次の日。早速絵を描き進めることを決めた私は、森の中へと来ていた。

「えっと、ここかな、と」

 まずは川の絵だ。春の絵を見ながら、絵と景色が一致する場所を探し出した。弁当や画材が入ったカバンを地面に置き、中から簡易椅子を取り出して地面に設置する。

 軽く伸びをしてから、椅子に腰かける。夏ではあるが、森の中はひんやりとしていて涼しい。スケッチブックと鉛筆を取り出す。

 鉛筆の擦れる気持ちいい音が響く。水の音と、鳥の鳴き声とともに心地いい音楽を奏でている。この時間、この場所だけは私だけのものだ。

 色鉛筆で絵を描くのが好きだ。私の好きなように輪郭をとらえて、私の好きなように色を重ねて、私だけの優しい世界を創っていく。たとえ現実を映しているだけでも、その世界は私だけの世界だ。

 暫く絵を描いていなかったので多少苦戦はしたが、何よりも楽しいという感情が湧き出てくるから、全然苦ではない。

 ふと腕時計を見たら、既に正午を超えていた。いったんスケッチブックをしまって、弁当を取り出す。

 弁当と言っても適当に作ったサンドイッチだけだったから、あっという間に食べ終えてしまった。

「よし、やろう」

 再び作業に取り掛かる。この調子なら今日中に線くらいは終わりそうだ。

「……」

 線を加えていく。細かく書きすぎると色を塗るときに邪魔になってしまうが、かといって全く書かないとかなり塗りづらい。絵の中の世界を決める大事な工程だ。

「よし、できた」

 色塗りも初めよう。そう思って後ろを向いた、その時だった。

「……!?」

 いつの間にか、私の真後ろに誰かが立っていたのだ。いきなり視界が回転したと思ったら、後頭部に衝撃が走る。椅子から転げ落ちてしまったのだろう。

「あ、やっと気が付いたの? こんにちは~」

「こ、こんにちは……?」

 あまりの出来事に整理が追い付かない。紺色の髪をした女の子がこちらを見下ろしている……と思ったら、手を差し出してくる。私が立つのを手助けしてくれているのだろうか。素直にその好意を受け取ることにする。

「いつの間に立ってたんですか?」

 土で汚れてしまった服を手で払いながら聞く。全く気が付いていなかったから、どれくらい見られていたのか想像もつかない。

「だいぶ前かな~。声かけようと思ったんだけど、集中してるみたいだから悪いかなって」

「いや、声くらいかけてくださいよ……」

「ごめんごめん」

 笑顔で謝ってくるその様子に、反省の色は全く見られなかった。私の知らないうちに何時間も手元を眺められていたのだ、正直かなり不快だ。

「うちの名前は旭日ハル。君は?」

 旭日、ということは引っ越してきた人たちだろうか。……あれ?

 なんだか、何処かで会ったことがある気がする。気のせいかな。

「私は、上島ハルカ、だけど……」

「おー。お揃いじゃん。ね、隣座っていい?」

「椅子、ありませんけど……」

「いーのいーの、地面に座るから」

「はぁ……絵を描いているだけですよ?」

 調子が狂う。あまりにも馴れ馴れしくて、自分の世界にずかずかと踏み込まれているようだ。

「うんうん、ハルカの絵を描いている所を見たいの」

「……」

 早速呼び捨てですか、と言おうと思ったがやめておく。そういう人なのだろう、この人は。

「邪魔しないでくださいよ」

「うんうん」

 色鉛筆セットを取り出す。地面の部分の色を塗っていると、早速邪魔が入ってきた。

「なんで黄色で塗ってるの? 茶色いじゃん」

「色鉛筆画は色々な色を重ねていくんです。最初から茶色で塗ったら、色が単調で自然な絵になりませんから」

 はやくどこかに行ってくれないかな、そう思いながら返事をする。自分でも苛立った話し方をしているのが分かるくらいだ。だが、そんなこともお構いなしに旭日ハルは頷いている。

「なるほど~。道理で鉛筆の色が少ないわけだ」

 無視して書き進める。また話しかけてくるかと思ったが、意外と黙って私の絵を見ている。

 話しかけてこないなら、私だけの世界に閉じこもってしまえばいいだけだ。そう思って絵に向き合うと、普通に集中することができた。

 だから、空がすっかり橙色に染まってきているのに気が付かなかった。ふと我に返り、空の色に驚いた私は急いで帰り支度を始める。

「あれ、帰るの?」

「はい。もう夜なので」

「あー、うん。明日も来ていい?」

「……ご自由にどうぞ」

 どうせ断っても来るだろう。荷物を纏め終わったので、鞄を持って歩き出す。

「あ、待ってよー。一緒に帰ろ」

「……」

 距離感がおかしい。嫌いだ、この人。


3.

 次の日。朝から森の中で色を塗り進めていると、昼前にまた旭日ハルがやってきた。

「おーっす。やっぱりここにいるんだ」

「また来たんですか?」

 いちいち目線を移すのも面倒だ。目を合わせずに答える。

「ご自由にどうぞ、って言ってたしね。それより見てよこれ」

 私の目の前に何かが差し出される。これは……。

「スケッチブック?」

「そうそう。倉庫の奥にあったからさ、うちも鉛筆画やってみようと思って。面白そうだったしさ」

「……そうですか」

「ちゃんと弁当も椅子も持ってきたんだ~」

 ガチャガチャと椅子を組み立てる旭日ハルを横目に色を塗り進める。変に騒がれたり口を出されたりするよりは、横で絵描きに熱中してくれた方がよっぽどマシだ。どうせ止めてもここに居座るんだろうし、だったらこのままにしとく方がいいだろう。……いや、色々とやり方を聞かれるのだろうか。まぁ、それでも変にちょっかいを出されるよりはマシだ。

「よっし、やるかー」

 絵を描き始める旭日ハル。私も集中しなくちゃ。

「えっと、ここがこうで……」

 ハルの独り言が聞こえてくる。少しうるさい。

「こうしたらよさそう」

集中、集中……。

「いや、こうかな……」

 集中、集中……!

「……」

 向こうも黙ったようだ。集中しよ──

「ちょっと待って、それじゃ駄目」

 ふと見てしまった、旭日ハルの絵。画力はあるのか、ある程度上手に書いているが、基礎が全然なってない。当たり前と言えば当たり前だが。

「線が濃すぎです。それじゃ上から塗っても目立っちゃうし、失敗して消す時も跡が残ります」

「……? う、うん」

「それに、最初から細かく書きすぎです。最初は全体を大まかに書いてからにしないと、バランスが悪くなるので」

「えっと、つまり?」

「こういうことですよ」

 自分のスケッチブックを一枚めくり、新しいページで見本を見せる。

「なるほど! ありがとなー」

「でも、最初から風景を描くのは難易度が高いので、まずは単体で何かを描いてみればいいと思いますよ。……ほら、そこの花とか」

「ふむふむ」

 ……はぁ、再開しよう。

 そう思って元のページを開いていると、また話しかけてきた。

「意外だなー、ちゃんと教えてくれるんじゃん」

「あまりにも見てられなかったので」

 旭日ハルの方に目をやってみたが、煽っているのか喜んでいるのか分からないニヤニヤ顔でこちらを見ている。なんだか腹が立つ。

「ありがとなー」

「うん」

 少し恥ずかしくなり、旭日ハルの手元のスケッチブックに目をやると、私のアドバイス通り花の絵を描いていた。

「……」

「……」

 二人で黙々と作業を進めていく。昨日は私と鳥と、川と風の音だけが響いていた世界に、もう一つの筆の音が加わった。昨日よりだいぶ賑やかだけど、同じくらい心地の良い世界だと思えた。

「昼にしよーぜ」

「はい、そうですね」

 私はサンドイッチを、旭日ハルはおにぎりをそれぞれの鞄から取り出す。

「いただきます」

「いただきまーす」

 市販の食パンにレタスやハムを挟んでマヨネーズをかけただけの適当なサンドイッチだが、そこそこ美味しい。しかし、早く続きを書きたいという気持ちの方が大きいので、川を眺めながら黙々と食べ進める。

私がずっと川を見ながら食べているものだから、旭日ハルが少し気まずそうにしているのが見なくても分かる。が、沈黙に耐え切れなくなったのか、向こうから話しかけてきた。

「ふぁふふぁっへふぁ~」

「ちゃんと飲み込んでから話してください」

 話し方と言い行動と言い、本当に女の子らしくない。

「ハルカってさ、いつからここに来てるの?」

「一昨日ですね。夏休みが始まったので」

「なるほどね。いつもはどこに?」

「東京の方で。高校の寮に住んでます」

「ってことは、上島さんがお母さんってこと?」

「……おばあちゃんです。両親はもう死んでるので」

「あ……そっか」

 また始まってしまった。流石に慣れてしまったけど。

「慣れてるので、大丈夫です」

「いや、えっと」

 露骨に目を泳がせている旭日ハル。何かを思案しているのが分かる。

「うちもさ、同じだから」

「同じ?」

「……うん、両親、いないから。だからさ、自分がされて嫌な対応をハルカにしちゃったなって思って」

「……ふ」

 思わず笑ってしまった。あんなに距離感の取り方がおかしくて、いつもニヤニヤしていたくせに、今は心底申し訳なさそうな顔をしている。それがどうしようもなく可笑しかったし、そしてどうしようもなく嬉しくもあった。

「あー、笑ったなー!」

「ごめんなさい、でも、ちょっと可笑しくって」

「酷いなー」

 逃げるように川の方へと目を向ける。

「ねーねー、その敬語やめようよ。高校生ってことは、うちと同じくらいでしょ? 十五? 六? 七?」

「十六ですけど」

「なんだー、同い年じゃん。じゃあ、敬語はやめ。おーけー?」

「は、はい──うん」

「呼び方も、ハルでいいから。じゃ、さっさと食べてまた取り掛かろ」

「うん」

 また黙々と食べ始める。旭日ハル、いやハルは食べ方も豪快なようで、もうすぐ食べ終えてしまいそうな勢いだ。喉に詰まらないのだろうか。私もさっさと食べ終えて取り掛かろう。

 私が食べ終える頃にはハルはもう絵を描き始めていた。私も色塗りに取り掛かる。

「……」

 二人の鉛筆の音が響く。……よし、全体の下塗りは終わったかな。ハルの手元を見ると、線画がだいぶ完成しているようだった。初めてにしてはかなり上出来だ。

「ん? どうした?」

「ううん、なんでもない」

 こちらの視線に気が付いたハルが声をかけてきたので、慌てて作業に戻る。


***


「そろそろ帰ろー」

 ハルの声で我に返った私は、周りの暗さに驚きながら、言われたとおりに帰り支度を始めることにした。

「明日もやるよね?」

「うん」

「よかったー」

 ハルの片づけが終わったのを見て、鞄を持って歩き出す。

「いやー、楽しいなー」

「うん。楽しいよね」

「どうどう? うち、上手く描けてる?」

「うん、まぁ初めてにしては上出来かな」

「よかったー」

 ハルが色々と感想を話している。文に起こすなら「あーだこーだ」という省略をしてしまうような、話の繋がりもなく、中身もない感想だったが、聞いていると不思議と楽しかった。

「じゃあ、また明日ね」

「おーう。ばいばーい」


***


「なんなんだろう、あの人……」

 湯船の中で考える。

 意外だった。まさか、こんなところで同じ境遇の人間に出会うとは思わなかった。

 他人が、苦手だった。両親の死にもかなりのショックを受けたが、一番つらかったのは周囲の人間から「可哀そうな子」「両親のことには触れちゃいけない」と、過剰に反応されることだった。腫物を扱うという言葉がピッタリなほど、周囲の人間の私への接し方は変わってしまった。本当は、そっちのことの方がよっぽど辛いのに。誰も気が付いてくれない。

 湯船の中の髪を指先で遊ばす。この髪もその苦しみの証だ。ストレスからか、新しく生えてくる髪の色が茶色く変化してしまい、結局元に戻ることもなく、今では黒い部分が全く無くなってしまった。

「はぁ……」

 あの人も、同じことを思ってるんだろうか。というか、学校はどうしてるんだろう? この近くに高校などないはずだ。電車もほとんど通ってないから、ここから通学するのはかなり無理がある。かといって、おばあちゃんの話から推測するに、普段は寮に居て夏の間だけ戻ってくる、という訳ではなさそうだ。そもそも高校に通ってない?

「やっぱり、あの人のことを考えてるだけで疲れちゃうな……」

 風呂から出ることにした。


4.

「おーっす」

 次の日。昨日と同じ時間に来てみると、すでにハルが絵描きを始めていた。

「随分早いね」

「まぁねー。もう少しで線画が終わりそうだったから、ちょっともやもやしちゃって」

「なるほど。あとどのくらいなの?」

「えっと、あとここをやったら……あ。できた。どうかなー、これ」

 ハルが線画を見せてくる。昨日も思ったが、初めてにしてはかなりの出来だ。

「なかなか上出来……だと思う」

「でしょでしょ」

「本当は訂正したいところもあるんだけど、まずは色を塗ってみた方がいいんじゃないかな。そうすれば自分で反省点も見えてくると思うし、そっちの方が分かりやすいから。色塗りを始めちゃったら線画って直しにくいから、次回に生かすことになると思うけど」

「あー、色塗り、ね」

 ハルがちょっと気まずそうに斜め上を見た。

「色鉛筆、探してみたんだけどさ」

「うん」

 ハルが鞄から何かを取り出した。

「小学校の時に使ってたやつしかなくて」

「これは……」

 ひらがなで「いろえんぴつ」と書かれた箱の中に、大量の色鉛筆が眠っている。長さはバラバラで、折れているものもある。というか、全体的に汚い。

「ちゃんとしたのを使ったのがいいと思う」

「だよねー……ハルカのを使わせてもらうっていうのは」

「駄目」

「おおう、即答かよ」

「お互いすごいやりづらいと思うし、ちゃんと自分で新しいのを用意した方がいいと思うよ。自分のがあったほうが、やる気も維持しやすいし」

「うーん、そうなるよな……」

「予備のものがあったらあげてもよかったんだけど、多分ないかな……」

「えーっと、色鉛筆ってどこで買えるの?」

「画材店とか、まぁ文房具屋とか?」

「画材店……そういや、倉庫のスケッチブックを借りていいかってばあちゃんに聞いた時、『江沢の画材店で買った』って言ってたかも」

 江沢。確かここから電車で二十分のところだ。

「そこに行くのがいいんじゃないかな」

「えっと、電車の時間は」

 ハルがポケットから取り出したスマホで時刻を調べている。

「一時間後に一本……今から家に帰って、貯金箱からお金取って、駅に……よし、ハルカ、行くよ!」

 ハルが私の手を握って走り出した。

「え、何処に」

「隣町に決まってんじゃーん! 今からだったらギリ間に合うから! ギリで!」

「ちょ、荷物置きに帰らなきゃ」

「うちんちに置いときゃいいから」

 ハルが走るのが速いせいで、転ばないようにするのに精一杯だ。

「で、でも、こんな急に」

「午前に一本、午後に一本しかないんだし、午前中のに乗るしかないっしょ。明日まで待てないし」

「きゅ、急すぎるよ」

「ふん、間に合えばいいんだよ間に合えば」

 何が可笑しかったのか、いきなり笑い始めるハル。笑うところじゃないと思うんだけどな。


***


「ま、間に合った……」

「間に合ったね……」

 なんとか飛び乗った電車の座席に座り込みながら、荒くなった息を整える。おかげで汗びっしょりになってしまった。ここは冷房が効いているので助かる。

「あ、お弁当置いてきちゃった」

「いいじゃん、向こうでなんか食べよう」

「でも、お金持ってきてないし」

「いーよいーよ、付き合わせちゃったお礼でおごってやるって」

「でも、それじゃ申し訳ないからさ」

「いーからいーから。色々教えてもらってるし、流石にね」

「……じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかな」

「そうこなくっちゃ」

 このまま食い下がっても向こうも曲がらなそうだ。素直に奢られることにした。まぁ、安いのにしとこう。

「っつーか、江沢行くの久しぶりだなー。ハルカは?」

「私は初めて」

「あの村に比べちゃ全然都会だけどさ、普通に田舎な所だよ。海沿いの住宅街って感じかな」

「なるほど」

「どうせカフェだかレストランだかあるだろうし、そこで昼ご飯にしよう」

「わかった」

「っていうかこの電車、ゆっくりだなー」

 そういうとハルは、靴を脱いで座席に膝立ちして窓の外を見始めた。

「ちょっと。お行儀悪いよ」

「いーじゃんいーじゃん、誰もいないんだから」

「えー……」

 幼児のように窓の外を見るハルを注意しながら、二人で窓の外を見てあーだこーだと話しているうちに、すぐに目的地についてしまったようで、到着を告げるアナウンスが流れ始めた。景色の中にホームが流れ込んでくる。

「あ、もう着くんだね」

「早いなー」

 ハルが靴を履いている間に、ゆっくりと減速していく電車。何かが軋む音とともに完全に停止した。

「さっさと降りるぞー」

「うん」

 電車から出ると、またも熱い空気が身体に纏わりついてきた。せっかく汗が引いてたのにな……。

「えっと、画材店ってどこだろう」

「待ってー、今調べるから」

 そういうとハルはまたスマホを取り出した。

「えっと、駅を出て、そのまま真っ直ぐ進んで、海沿いの道に来たらそこを右にちょっと歩けばあるっぽい」

「分かった。とりあえず、改札を出よう」

 切符を投函し、駅の外へと出る。

「ほんとだ、普通に住宅街だね」

「でしょでしょー。でも、海沿いなのがちょっといい感じだよな、うん」

 駅から海まで下り坂になっているので、海と一緒に街も見下ろせている。

「確かに……なんか、懐かしいな、ここ。来たことあるかも」

 なんとなく、ここに似た何処かに来たことがあるような気がした。

「どっか別の似た所と勘違いしてんじゃない?」

「そうかも。まぁいいか、さっさと画材店に行こう」

「そうだなー」

 先程言われたとおりに歩き出した。


***


「思ったより大きかったなー」

「まさか、三階建てのビル丸ごと画材店とはね……」

 昼過ぎ。色鉛筆を買い終えた私たちは、行く途中で見つけた海沿いのカフェに来ていた。テラス席に通されたお陰で、海が一望できる。海風が心地いい。

「さっさと頼んじゃおーぜ」

「うん」

 メニューを見る。ランチセットが三種類あるのか、うーんと……

「このランチセットBにしようかな。ハルは?」

「じゃあ、このランチセットCにするか。すみませーん、ランチセットBとCお願いしまーす」

 ハルが店員さんに注文してくれた。

「ありがとね」

「うん。……あ、カモメ」

「え、どこどこ?」

「ほら、あそこ。えっと、なみどめばだっけ。そこに居る」

「はとば、ね。……ほんとだ、二羽いるね」

「海沿い、って感じだな」

「だね」

 しばらくカモメを見ていると、料理が運ばれてきた。私のがスープにサラダ、それと三つのパンにコーヒーのセットで、ハルのはハンバーグとサラダにスープとコーヒーのセットだ。

「いただきます」

「いただきまーす」

 コーヒーにミルクを注ぎ、角砂糖を一つ入れる。ハルはブラックのままで口をつけていた。

「あれ、ブラックなんだね」

「まーなー、別に砂糖とか入ってるのも好きだけど、今日はブラックの気分」

「そうなんだ」

 パンを口に運ぶ。……美味しい。これで六百円なんだから、かなりお得だ。

「うめーなー、これ」

 ハルもハンバーグを食べながら絶賛している。

 食器の音と、波の音が響く。本当に美味しいものを食べていると人は口数が少なくなるとはよく言ったもので、お互いに殆ど会話を交わすこともなく食べ終えてしまった。

「ごめんね、奢らせちゃって」

「またそれかよ、いいっていいって」

 そういいながらハルはまたメニューに手を伸ばした。ドリンクとデザートが載っているページを開いている。覗き込んでみると、クリームソーダのイラストが目に入った。

「あ、クリームソーダあるんだ」

「クリームソーダか、懐かしいなー。小さい頃、よく飲んだな」

「今はタピオカとかだっけ、流行ってるの」

「うん。うちはあんまり好きじゃないけど」

「ふーん……すいませーん、クリームソーダ二つくださーい」

 ハルが店員さんに注文を入れている。

「えっと、二つ?」

「あれ、飲みたくなかった?」

「あ、私の分なんだ」

「うん、嫌だった?」

「いや、奢らせちゃって悪いなって」

「まーたかい。こんな時くらいしかお金使う機会無いんだから、別にいいんだって」

「使う機会無い、か。……ハルってさ」

「どうした?」

 聞くか聞かないか悩む。……いいや、ここまで言ったなら聞いちゃえ。

「学校ってどうしてるの?」

「うち? あー、行ってないよ」

「そうなんだ……」

「一応中高一貫入ったんだけどさ、高校の途中で辞めちゃった」

 確かにハルの自由奔放さは学校に合わないかもしれないが、ハルならそんなのは気にせずに通ってる気がする。「辞めさせられた」なら分からなくはないけど、「辞めた」とはどういうことなんだろう。

 返事に困ってしまう。気まずい沈黙。

「理由、聞かないの?」

「……嫌かなって」

「別にいいんだ、いつか言おうと思ってたし」

 店員さんがクリームソーダを運んでくる。バニラとメロンの甘い香りが、嫌になるくらい空気に似合わない。

 なんとなく口を付ける気分にならなくて、ストローでメロンソーダの部分をかき混ぜてみる。透き通った緑色の中にアイスが溶け込み、濁っていく。

「うちさ、小学校の時からこんなんだけど、親の方針で、適当に中学受験して私立に入ったんだ。結構奇麗な学校で、行事とかも沢山あったから、ふつーに楽しみにしてたんだけど」

「……うん」

「めちゃめちゃ偏差値が高いって訳じゃなかったからさ、うちみたいにちょっと勉強が得意だからなんとなく入ってみた人たちと、上の方の学校に落ちて滑り止めとして入った人たちがいて。普通なら、その二種類の人たちが混ざってなんだかんだで仲良くなるらしいんだけどさ、うちらの代は滑り止めで入った人の方が異様に多かったみたいで」

 ハルがクリームソーダを少し口にした。私も少し飲んでみるけど、あまり味が分からなかった。

「身の丈に合わないコンプレックス抱えた奴らが、勉強だ成績だってずっと競争しててさ、すっごくつまらなかったんだ。そりゃ、勉強も大事だとは思うけどさ、なんか、気味悪いくらいそれに執着してるの、それでもまぁ中一のうちはうちと同じような奴と絡んでなんとかやってたんだけどさ、中二で全員とクラスが離れちゃって、新しいクラスは中一の時より競争が激しくて」

「……うん」

「それで、たまたま近くの席に居た成績がそこそこいい女の子──夕立ナツキって奴と仲良くなってさ、なんだかんだで上手くやってたんだけどね。でも、ナツキが二学期の中間テストで、たまたまいつもよりいい成績取っちゃって、他の女子たちに目を付けられちゃって、虐め紛いの事されるようになって」

 海風がひときわ強く吹いた。ハルが風で乱れた髪をかき上げている。

「こういうのってさ、ほんっとにしょーもない原因から始まるじゃん? だからうち、その虐め紛いのことにもめちゃくちゃ腹が立ったし、それを放置してしょーもないプライドで競争してるやつらにも、死ぬほど腹が立ってたんだけどさ。何もできなかった」

 カモメの鳴き声が聞こえてくる。

「確か、文化祭準備の時かな……ナツキの髪をはさみで勝手に切ろうとした奴が居てさ、うち、咄嗟にそいつの事殴っちゃってさ。『やめろ』ってね。いやー、あの時が一番かっこよかったな、うち」

 ハルは虚しそうに笑って、溶け出したアイスを軽くかき混ぜた。

「それで、うちも目を付けられるようになって。別にうちは辛くなかったんだけど、ナツキへの虐めもどんどん強くなって」

「……」

「それで、夏休みのちょっと前にさ。自殺したんだ、そいつ」

 クリームソーダを口にする。味は相変わらず分からないが、飲み込むと胃に重いものが落ちるような違和感があった。

「それでさ、虐めのターゲットがうち一人になって。それ自体は辛くなかったんだけど、『うちも陰でナツキを虐めてた』っていう出鱈目な噂が流れ始めてさ、そんなもんかーってなって、全部面倒くさくなって。失望して。それで、中三はずっと保健室通いだったなー」

 海風が肌に纏わりつく。何故だか、虐めっ子たちの様子も、保健室に通うハルの様子も容易に想像がついてしまって、胃の辺りが燃えるように痛かった。

「まぁ、それで中学で辞めたってわけ。私一人じゃどうしようもなかったと思うっし、公開はしてないけどね、ほんとに。……じゃあ、この話はここで終わり! さっさと飲まないと、アイスが溶けちゃう」

「……うん、そうだね」

 美味しそうにクリームソーダを飲むハルとは反対に、私はあんまりおいしく感じられないままだ。

 水平線の少し上に太陽がある。少し強く吹いた海風に身体を震わせてから、なんとなくハルの顔を見る。

 照らされた顔。その中にある、太陽を反射して光る瞳。

 美しいと思ってしまった。悲しさを含んだその瞳も、そこに映る藍色の景色も、心の底から美しいと思ってしまった。急に襲ってくる罪悪感。

「ハル」

「どうした?」

「ごめんね」

 私は最低だ。

「どうしたんだよー、急に」

「……わかんない」

 言える訳がない。

「なんだよそれー」

 そうやって笑うハルは、すっかり今までの向こう見ずでガサツなハルに戻っていた。なんとなく、クリームソーダが美味しく感じられるようになった。

「そうだ、ハルカってスマホ持ってるの?」

「一応持ってるよ」

 ポケットから取り出す。

「メアドと番号交換しよー」

「うん」

 スマホを弄って番号を交換する。

「これでよし、と」

「うん」

 さっさと、クリームソーダを飲み干してしまおう。

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