Ep.3 好きなもの

 いつからか、自分の顔が分からなくなった。

 鏡で見る僕の顔は、いつ見ても黒のマジックでぐちゃぐちゃに塗りつぶされている。

 不意にテレビの中から名前を呼ばれる。薄茶色の木で作られたダイニングテーブルに突っ伏していた顔を上げた。

 話をふられて、ニッコリと微笑む僕がいる。目を凝らす。あれは本当に、僕なのかと。

毎朝、鏡で見る僕とは全く違う。でも、彼は間違いなく僕の格好をして、僕の名前を口にして、僕の口で、言葉を紡ぐ。


 巡る思考は、いつだって誰かの顔色を伺うものばかりだ。それが誰なのか、何なのかも分かっていない誰かの。僕が僕であるために。僕が愛され続けるために。誰の期待も裏切ってはいけない。誰かの愛で満たされるほどに、僕という人物は空っぽになっていく。空っぽな体に詰め込まれる愛で、僕はぶくぶくに太っていく。


 手に入れた地位と名誉。僕の居場所。振り向けば、知らず知らずのうちに傷つけた誰かが僕を睨むから、振り向くことすら許されない。


 この世界を望んでいたんでしょう。ああ、そうだ。この世界は夢と希望と愛で溢れかえって、僕はただひたすらに幸せを感じるはずだったんだ。


 「今日は、大根たっぷりのお味噌汁にしました。好きですよね」


目の前に置かれた赤茶色のお椀。ふわふわと上がる湯気で視界がボヤけた。


 「え?」


 聞き返せば、穏やかな声が返って来る。


「大根のお味噌汁。好きですよね」


ハニートーストみたいな色のエプロンがよく似合う。低い位置、後ろで一つに結われたストレートな黒髪が、彼女が首を傾げたら揺れた。


「僕、これが好きって言ったっけ」

「いいえ。でも、顔を見たら分かりますよ。もう半年もご飯作ってるんですから」


あはは、とその人は笑う。少し年上の、僕の事務所から派遣された家政婦さん。もう半年も一緒にいたっけ、とお味噌の良い香りに包まれながら思う。


 彼女がそっとテレビを消す。真っ暗になった液晶に反射した僕が映っている。半笑いの僕がそこにいる。変な顔だ。


 「そっか。僕、大根の味噌汁好きなんだ」

「大根の味噌汁っていうか、大根料理全般が好きですよね」

「そっか。僕は大根が好き」


お椀を覗けば、味噌をしっかり染み込ませたそいつがいる。お椀を両手で包めば、その温もりに、じわっと胸の奥まで熱くなった。


 「いただきます」


 熱がしっかり通って、透けた大根を箸で掴んで思う。そういえば、僕のプロフィールに書かれている「好物、オムライス」は誰が書いたのだろう。


「熱いから、気を付けてくださいね」


 彼女の声に引き戻される。まぁ、いいかと思う。今日、僕は好きなものを二つ見つけられて気分が良い。

 ふーふーと息を吹きかければ揺れる湯気が面白い。


 「洗濯物、これだけですか?」


 いつの間にか洗濯籠を抱えた彼女に「うん」と返すだけで、僕はここにいることを実感する。忙しなく動く、ちょうちょ結びで結ばれたエプロンのリボンが愛おしい。

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