第1章 1-6 朱の竜
理解が追いつかない、力也はそれくらいしか思いつかなかった。
現実なのかと否定したくても、頬に残る叩かれた痛みが少し残っており、それが嫌でも事実と突きつけてくる。
訳が分からない少年を捨て置くように、黒い影は2mをゆうに超える巨体をゆっくり、獲物を見定めるように向けた。
それが否応なく狙われているのだと、認めざるを得ない。
「……人間の感情を触媒にした魔獣召喚、ですか。 しかし、随分と醜い姿をしています」
「佐藤、先輩……?」
歯が動きそうになったところへ、ポツリと言葉を漏らしたのは隣にて助けてくれた明美が呟いている。
力也が彼女を見ると、慮外の範疇にあるはずの存在を前にしているにも関わらず、冷静に落ち着いてさえいた。
元々人間を超えた達観さを持った少女なのは分かっていたつもりだが、ここにきて更に力也はゾクリと背筋が凍る思いをする。
明美の瞳はこれまで以上に冷え切り、敵と完全に認定して警戒態勢を解くどころか、いつ吶喊してもおかしくなかった。
そこでふと気づいて辺りを見渡すと、黒い影から少し離れたところで倒れる美山がいる。
助けに行かなくては、そんな善良心から動こうとするが、恐怖もあったがそれ以上に少女の腕が行く手を遮った。
「お止めください、それにどの道助かりません」
「そんな!? だって気絶しているだけじゃ!」
「いいえ、あの召喚術は恐らく人間の生命力を餌にしています。 あれが出てきた時点で彼女はもう事切れてます」
何を言われているのか理解できなかった、力也はそれでもと動こうとするよりも先に、黒い影が横たわる少女だったものを見つける。
するとそこへ一歩ずつ地面を揺らす足音と共に近づくと、その体を凶悪な手で持ち上げて大きな口を開き、噛み砕き始めた。
骨と血肉を味わうように影が立つ一帯を赤く染め上げ、食べ滓である臓物の一部が散乱する。
捕食する光景をまざまざと見せつけられ、力也は強烈な吐き気に襲われ、口を手で塞いで何とか抑えた。
自分は一体何を見ているのか、映画の中でしか見たことがない場面に、涙が出てきてしまう。
頭の天辺から足の爪先まで食べ尽くした黒い影は、まだ満足していないと言わんばかりに力也と明美へと顔を向けた。
殺される、絶対的な捕食者を前に逃げられるわけがないと分かってしまい、力也の体は震える。
何でこんなことになったんだ、そんなことを考えながら、家にいる母の顔を思い出した。
まだ死ねない、死にたくないと心の底から思った。
しかしそんな願いなど虚しく、黒い影は身を屈ませ、その強靭な両足で地面を蹴り飛ばすように前へ飛ぶ。
無力でしかない餌二匹を蹂躙しようとする化け物に、力也は咄嗟に顔を守るため両手を上げ、目を閉じた。
なんの意味もない防御などすぐ崩される、そう思っていたが、未だに衝撃は来ない。
耳に届いてくるのは何かが拮抗し、獰猛な獣の唸り声だけ。
恐る恐る目を開けると、すぐ正面にいる明美が平然と立ち、持っていた竹刀で黒い影の凶行を食い止めていた。
「……やはり力也様が目的ですか。 このような成れの果てになっても執着するとは、醜いにも程がありますね」
力の差は歴然のはず、にも関わらず少女は変わらぬ声色で冷静に、すぐ目の前にいる影を見ながら呟く。
隠しきれていない侮辱と蔑みが込められた言葉に、影の瞳が怒りのような色を映し、それが火蓋を下ろすことになった。
押し返そうとする影に、明美の体は押されるどころか逆に押し返し始め、ついには竹刀でその巨体を吹き飛ばす。
舞い上がる影は空中で態勢を立て直し着地する、その瞬間を見逃さない少女の小さな体が力也の前から消えるように、怪物との間を一瞬でないものにした。
振り上げられる竹刀を受け止める黒い手だったが、予想以上に重い一撃だったのか、その顔に苦悶が見える。
連続で攻撃を受けるのはマズい、そう判断し距離を取ろうとする影の動きに明美は追い縋る、いや完全に上回る動きを見せた。
上段、中段、下段と、あらゆる方向から繰り出される剣戟の乱舞は見るものならば見惚れるだけの腕前といえる。
黒い影が少女の形をした何かに舐めるなとばかり咆哮を上げ、猛攻を繰り広げていた。
すでに人が起こせる諍いなど超えた光景に、力也は何が起きているのかと理解が追いつかない。
異常だと分かる、それなのに彼が今一番目を離せずにいるのは、そんな中でも明美は表情を崩さないでいる。
本当に勝てるのかもしれない、少年がないものと思っていた希望を抱いたのは影との争いが明美に傾き始めたためだ。
黒い影の化け物と拮抗していた竹刀と爪の争いは、少しずつ確かにスピードと威力を増していく少女の攻撃が相手にダメージを蓄積させる。
明美もその小さな体であれだけの巨体が繰り出す攻撃を防ぐことはできても、身体にかかる負担は計り知れないはずなのに、彼女はその気配を微塵にも感じさせなかった。
力を抑えていた、そんな事実を突きつけられて力也は完全に言葉を失っていると、状況は一変する。
ついに竹刀が怪物の脇腹へ直撃し、薙ぐようにその巨体が外壁まで吹き飛ばされ激突し、砂塵が舞い上がった。
信じられないことに、か弱いはずの人間があれだけの化け物を圧倒したのもそうだが、少女の顔はずっと平然としたままでいる。
「この程度ですか。 やれやれ、少しは楽しめるかと思ったのですが、見かけ倒しでしたね」
そしてあたかも当然のような台詞を言いのけてしまう、この時力也は心の底から思った。
本当の怪物は、あの影ではなくこの少女なのではないかと。
決着したかに見えたが、影が瓦礫を押しのけてゆっくりと起き上がり、その瞳に明美を映し睨みつける。
少女はまだやるのかと退屈そうに息を吐くと、そっと竹刀を構えた。
その態度はもはや相手が格下で、仕方ないから相手をしてやると言わんばかりのもの。
黒い影が彼女の様子に激昂するよう雄叫びを上げ、鼓膜が破れんばかりの大きさに力也は耳を塞いだ。
それが契機だったのか、変化が起こる。
影の背から何かが内から突き破るような音が上がり、叩きつけるような地響きが起こった。
少年が見たものは先端が鋭利な刃物のように尖り、およそ数mはあるだろう尻尾が蠢いている。
次の瞬間、黒い影が吶喊をかまして明美へ攻撃を繰り出すと、紙一重ながら完璧に躱されるも、追撃として尻尾で周囲が薙ぎ払われた。
直前にマズイと悟り、縁側から降りて地面に伏せた力也は間一髪攻撃を避けることに成功する。
対して明美は竹刀で嵐のような攻撃を受け止めるが、その勢いに任せて彼女は飛ばされてしまった。
予想以上に重かったのか、少女はそのまま蔵の中まで飛ばされてしまい、それを見た影が尻尾を振りかぶるように上げる。
そのまま蔵を潰さんばかりに叩きつけると、屋根から崩れた建物は脆く崩れ落ち、中にいる強敵だったものを瓦礫へ埋めた。
「……!? 佐藤、っ!!」
粉塵舞い上がる中で力也は思わず声を出してしまう、それが悪手なのは言うまでもなかった。
影はゆっくりと身体を向けると、その口を歪なまでに歪ませ、素早く動き回る尻尾を操り、少年の身体を持ちあげる。
縛られ身動きが取れなくなった力也の身体をギリギリと軋ませ、全身を感じたことのない激痛が蝕んできた。
「ひっ……!? がっ、あっがぁっ……!!」
呻き苦しむ姿を満足そうに見つめる影はこの上なく愉悦とばかり、人間のような笑みを浮かべていた。
ゆっくりと尻尾が本体へ近づいていくと、何もかも砕くには十分すぎる牙を持った凶悪な口が開く。
食べられる、その事実にもがき逃げようと暴れる力也は声を上げる時間さえ惜しかった。
無駄な抵抗だと分かっていても、逃げないよりはマシとばかり足掻くも、無情にも影の凶行は止まらない。
涎を垂らし、待ちかねたご馳走をその口で味わい尽くそうとするのを怯えた表情を浮かべた力也が小さく悲鳴を上げた。
「や、やめ……!? 助け……!」
助けなど来るはずもなく、けれど願わずにいられなかった。
無慈悲に嘲笑うよう、黒い影が獲物を捕食し、その腹に納めようと頭から噛みつこうとする。
その時だった。
一閃、影と力也を分かつように空が斬られたと同時に、影から聞くに耐え難い叫びが上がる。
その直後、浮かんでいた力也は地面へ落ちて臀部を強打すると、するりと絡みついていた尻尾が解けた。
何が起きたのかと顔をあげると、長い尻尾が両断されて断面をむき出しに、痛みから影は暴れまわっている。
「やれやれ、こちらの生死を確認せずに勝った気分でいるとは。 素人同然とは思いましたが、ここまでとは思いませんでしたね」
突然横から声が聞こえてきたので振り向いた力也が見たものは、制服が少し破れ、埃で汚れた明美が立っていた。
押し潰されていたはずの彼女がどうして、その疑問もあるが、見るからに少女はそこまで大きなダメージを負っていないように見える。
しかも状況から察するに、離さず持っている竹刀で未だ痛みから暴れる影の尻尾を切り落としたのも彼女のようだった。
殺傷能力がないはずの得物でどうやって、そう少年が目を凝らしたとき、何かが鳴動するような音が聞こえるような気がした。
「とはいえ、地に伏せられた事実は変わりません。 ここからはキチンと相手をして差し上げます。 起きなさい、
明美の言葉にこれまでにない明確な敵意、そして何かの名前を口にした瞬間、空間に亀裂が走るような歪さが生じる。
空気を揺らすような振動が響き、その元が彼女が持つ竹刀から発せられていると思ったとき、まるで殻を破り生まれる雛鳥のように、それは顕現した。
ゆうに3mはあろう銀の槍が現れ、その先端は恐ろしいほどに鋭く美しささえある。
しかし力也はそれ以上に信じられないものを目撃して、少女から目が離せなかった。
槍が現れると同時に、確かにそこへ立っていた佐藤 明美という少女の姿が、異形なる存在へ変体している。
朱色の鱗が肌を覆い、その顔は変形して頭部に一本の白い角が生え、背には翼こそないが同色の尻尾が生え、閉じていた瞳が開き血のような赤い瞳をしていた。
それを一言で語るならば、竜。
人の形を取りながら、竜の姿をしたそれは竜人と呼ぶべきものだ。
力也の眼前に、明美の服を纏い、荘厳な銀槍を携えた
「さ、佐藤、先輩……?」
思わずそう呟いてしまう力也の問いに、明美と思しき怪人は言葉を発することなく、獲物から目を離そうとしない。
影が痛みと突如として出現した存在に後ずさりする、相対しただけで分かってしまうからだ。
何をどうしても勝てる相手ではないということが。
賢い生物ならば逃げの一手を取ることが生存本能として正しいだろう、けれど影はそれを取ろうとせず、臆しながらも果敢に飛び込んでいった。
強靭な爪が見た目こそ変わったが、背丈は変わらない竜のような少女を切り裂ける、そんな自信があったのだろう。
振り下ろした爪を、槍を持たない空いた手、しかも親指と人差し指二本だけで簡単に止めてしまった。
次の一手を、そう思い離れようとするが、恐ろしく頑強な膂力で掴まれた指から、影は逃れることができず、残る腕を使って竜の腕をへし折ろうとする。
だがそれよりも早く、と言うには視覚に捉えることも困難な速度で放たれた槍の切っ先が、影の体を貫いた。
絶叫し、悲鳴を上げる化け物のことなどお構いなく、朱の竜は摘んだ爪を指二本だけを用いて腕ごともぐ。
肉を無理やり引き千切られ、片腕をなくした影が泣き喚くように暴れるのを、煩わしそうに竜は貫いた槍を引き抜き、槍身を影の腹へ叩きつけた。
鉄球に当たったような勢いで吹き飛ぶ影が家屋に激突し、見る影もないほどに倒壊していく。
理解の範囲を超えた展開が繰り広げられ、腰を抜かしたように座り込む力也が見る竜は変わりなく表情に乏しかった。
何故かはわからない、しかしハッキリとこの目の前の人外が佐藤 明美であるのが分かってしまう。
確信に近い思いを抱いていると、砂塵舞う中から影が飛びかかり、隙をついたとばかり力也へ襲いかかった。
避けられない、そう思い死を覚悟する少年に心配はないと告げるように可憐な声が告げる。
「塵に還しなさい、アイギス」
言葉に合わせ槍の名前と思われる単語を口にする竜に合わせ、銀の獲物が答えるように共鳴した。
刹那、横からの音速を超えた光速の一撃が影の体を刺し貫き、その攻撃を持って絶命の言霊が鳴り響いた。
宣言通りに影は跡形もなく解けるよう、その体を崩壊へと誘われ、黒い破片は風に乗って消えていく。
この場で起こった苛烈な戦いの跡のみが克明に残され、残っているのは力也と朱の竜人のみ。
唖然とする少年が見上げる先の彼女がすっと、顔を上げて槍を下げると力也へと顔を向けた。
「お待たせして申し訳ありません。 ご無事ですか、力也様」
姿形は変わっても、声は変わらない少女のものに力也は安堵と同時に警戒心が生まれる。
近づこうとする足音に身を強張らせ、うまく立てない体をなんとか引きずり距離を取ろうとするのを、何故と言わんばかりに竜はキョトンとしていた。
「如何なさいましたか?」
「あ、アンタ、一体……?」
「はいっ、一体とは何が――」
「あーあっ、こんなにやらかしやがって……、つうか、何だよその格好は!?」
離れて行かれると困るという、明美と思われる竜へ問う力也だったが、背後から聞こえた声に驚き振り返る。
そこには同じ高校の制服を着た、少し柄の悪い男性がこの場の惨状に驚きの言葉を上げながらも、足を止めずに近づいてきていた。
止めなくては、そう思うも男は力也の横を素通りし、竜と向き合う。
恐ろしくないのかと様子を窺っていると、更に信じられない展開が繰り広げられた。
「キール騎士長。 お疲れ様です」
「いやっあのね? お疲れ様とか呑気に挨拶してくれてるけどさ、この状況は何? なんでその姿でいるのかな? ていうか、もしかしなくてもこちらの方に見られてる、よね?」
「なにか問題がありましたか?」
「……そうだねぇ、君はそういう子だったねぇ。 はぁっ、この家以外の辺り一帯人払いはしておいてよかったな。 よしっさてっと」
とても親しげに話し、かつ竜の受け答えに呆れてさえいる男に何をどうしたらそんな反応ができるのか、力也には見当がつかない。
やれやれと頭を抱える男は切り替えるように、すっと少年へと振り向いたので体をビクついてしまった。
もしやこのまま何かされてしまうのではないか、そんな絶望が浮かんできそうになるが、予想は尽く外れていく。
「えっと、なんだ……。 申し訳ありません、できれば一度この姿でお目通りしてから挨拶をしたかったのですが、そうもいきませんよね?」
「……へっ? はっはいっ、あの――」
「それでなんてすけど、色々とご説明をさせてもらいたいので、我々にご同行していただきたいのですが、宜しいでしょうか?」
見るからに不良な見た目に反して、すっと身なりを整え頭を下げ、非常に礼儀正しい言葉遣いをされて力也は呆気に取られた。
記憶にある彼は、あまりいい噂を聞かない上級生、という触れ込みなのだが、そんな印象はどこにもない。
次の言葉にまだ付き合ってほしいと言われてしまい、答えに困るところだが、見なかったことにするには事が大きすぎた。
信用の是非はともかく、説明してくれるのならば聞きたいという大胆な選択肢を取ることになるとは、力也はこの時ほど自分の無鉄砲さを後に嘆くのであった。
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