第1章 1-5 危機の襲来
「めっちゃくちゃ疲れたな、今日は……」
放課後となり、力也は帰宅の途についていた。
徹は先に帰り、若葉は部活のため、一人で通学路を歩いている少年の影が夕陽によって長く伸びている。
1日学業に励み頑張った、と言えば頑張ったが、力也の疲労感は昼間に起こった騒ぎが一番の起因だ。
美山と明美の起こした騒動により、教師から呼び出され、詳しい事情の説明を求められるのは仕方がないと割り切る。
気がかりだったのは、結局髪を染めてこなかったことへの担任教師 岡野の反応だった。
それも含めてお小言が出てくると思っていたが、見るからに顔を歪ませてはいたが、喧嘩以外については何も問い詰められることなく終わる。
「母さん、やっぱり抗議したんだろうな。 はぁ、別にこっちが折れることには問題ないのに、何でそんなムキになるんだろうな……」
髪を黒く染めることで平和に学生生活を送れるのならば、力也としては構わずそちらを選択したかった。
しかし母 美里亜がそれを断固として認めず、幼稚園からずっと、頭髪に関して学校側と協議した上でそのまま通学することが一応認められる。
無論、それを良しとしない教師は存在し、目立つ力也に遠回しに嫌味をいうこともあった。
それは生徒からもあり、イジメとまではいかないが、軽い嫌がらせ程度を受けた過去がある。
仕方がない、そう割り切っていたものの、それでもここまで普通に学生を続けていられるのは、一重に友人に恵まれたからだ。
徹にしろ若葉にしろ、幼少の頃から髪色をよく知っており、むしろ染めなくていいということから、羨ましすぎると未だに羨望を向けられている。
クラスメイトの中にも同じ意見を持つ者はいるようで、これといって大きな問題に巻き込まれてこなかったのは幸いだった。
「今の問題は、佐藤先輩くらいだな……。 美山先輩もだけど、あの人が一番何を考えているのか、さっぱり分からん……」
長い自身の影をじっと見つめつつ、高校入学時に知り合った佐藤 明美という女生徒、それが力也にとって今一番の問題になっている。
しつこく交際をしろと強要してくる美山という女子生徒も気にすべき点だが、実際のところ少年からしたら然程大きな問題ではなかった。
母譲りの顔立ち、ホワイトブロンドという見た目は圧倒的な印象を持たせ、ブランド志向が強い女性からはアクセサリー感覚で持っていたいと思われることもある。
そのためなのか、以前から街を歩いているときに、見るからに年上の女性から声をかけられたこともあったため、断るのに必死だった。
気に入った玩具を見つけたと言わんばかりに好奇の視線を向けられる方が、力也にとっては耐えがたい苦痛であり、非常に不愉快極まりない。
だからこそ女性との交際は慎重に見極めなくてならないと、軽く返事をしないことにしているのだ。
嫌なことばかり考えている、そう気づいて頭を軽く振り払い、気持ちを切り替えようとまっすぐ前を向くことにする。
後ろから尾けられ、背後にまで迫られていたことに気づくことなく。
気がついたとき、薄暗いどこかで後ろ手に縛られ、猿轡された状態で力也は目覚めた。
慌てそうになるのを何とか堪え、ここはどこかと視線を巡らせていると、正面に立つ影に気づいて顔を上げる。
「あっ、やっと起きたぁ? 力也くん♪ アハハ、中々目が覚めないからやり過ぎたかなって、ほんのちょっぴり焦っちゃったよ♪」
愉悦まじりに顔を歪ませ、まるで飼い犬でも見つめるかのような不快な視線を向けてくる、美山がいた。
やっと手に入れたとばかりに膝を降り、手を伸ばして髪の毛を触ってくる感触に、力也は吐き気がこみ上げてくる。
「アンタが悪いのよ? アタシの彼氏になっていれば、こんなことする必要なんてなかったんだから。 でもね、アタシは超優しいから、ちゃんとなるって言ってくれたら、すぐ解放してあげるわ♪」
見下し、自分が絶対的有利に立っていることを誇示する女の言葉に、納得したくないが認めるしかないと力也は睨み付ける。
気に食わないと思ったのか、その顔を見て問答無用で平手打ちをかまされ、髪を強く掴んで引っ張り、鬼の形相を浮かべた表情が眼前に広がった。
「いい気に乗ってんじゃねぇぞ、クソガキ。 でもアンタを服従させる前に、まずあのクソブスをめちゃくちゃにする方が先なのよ。 ちなみにね、アンタを餌にここじゃないところへ呼び出したの♪ 何人もいる男たちに囲まれて、今頃ひっどい状態になってるんじゃない? アッハハハハハ、良い気味♪」
隠す必要はないと思ったらしく、本性を剥き出しにして言葉を荒げる女に、力也はやはりそういうことかと女の本質が自分の予期したものだったと理解する。
だがあろうことか、自分を助ける形で入った明美に危機が及んでいると聞かされ、目を見開くと美山は嗜虐心に満ちた顔で冷酷に笑っていた。
彼女は強い、それは素人目線の力也でも分かることだが、一人で多人数を相手どるのは分が悪い、まして男性と女性ではどうしても腕力に差が生まれてしまう。
力も強いのかもしれないが、取り囲まれてしまえばひとたまりもない、ましてや抵抗することができなくなれば、何をされるかなど想像に難くなかった。
「惨めに汚れたアイツをここに連れてきてね、目の前でアンタを犯してやるの? 最高だと思わない? どれだけ絶望した顔浮かべるんだろうなって、アハハハハハハっ!」
残酷すら生易しく感じるほどに、美山という女が何をしようと企んでいるのか、そのおぞましさに力也は絶句する。
これまで自分に好意を向けてきた女性と、多少なりとも断った後にいざこざが起こったことはあったが、ここまで悪辣な状況にはならなかった。
何がここまでこの少女をそこまでの狂気に至らしめたのか、力也がこの世のものとは思えない存在になりかけている女に目を向ける。
制服姿でまるでダンスをしているかのような、軽やかにステップを踏む女の首元で、暗闇に支配された空間にいながらでも分かるくらいに、何かが光るのが見えた気がした。
ともかくここから脱出しなければならない、もがく力也を嘲笑うかのように少女は歪な笑顔で告げる。
「無駄だってば♪ それに例え出られたって、うちの敷地内なんだから無理♪ パパに頼んで組の人たちに協力してもらっているから、下手したら指を落とされるとかされちゃうよ? つ・ま・り、アンタはアタシの言いなりになるしかないってこと? 分かったら大人しくしてろよ!」
聞きたくなかった言葉を聞かされ、力也は周囲を見てみると、よく見れば昔ながらの蔵のような建築形式をしている建物に閉じ込められているようだ。
加えて組の人と聞かされ、美山という少女がこの辺り一帯ではその名を知らぬ人がいない、所謂反社会組織の家のお嬢様で、その権力を思う存分に利用しているという。
現代でこれほど露骨に、一般人を拉致するという危険性が分かっていないのか、少女は自分に与えられた物なら何でも利用するようだ。
だからこそ近づきたくなかったと、力也は女へ鋭い眼光を突きつけると、不愉快そうに顔が歪んでいく。
「……ったく、こっちが優しくしてりゃ調子乗りやがってよ。 良いか、てめぇにはもう何にもできねぇんだよ、せいぜいアタシのーー!」
調教が必要だと思ったのか、女は近づいてくると同時に、隠し持っていたのか、乗馬用の鞭を持ち出した。
さすがにやり過ぎたと思った力也を見て、満更ではない女がその手を振り上げ、捕らえた少年を痛めつけようとする。
瞬間、音というには巨大な破壊音が響き渡り、地響きすら生まれて蔵の中も揺れ始めた。
縛られ身動きが取りにくい力也は倒れ込み、美山は何とか態勢を維持すると、入り口方向を何が起こったのかと見る。
入り口は僅かに開いていたのか、倒れた痛みは軽かったため、力也も何とか耳を澄ましてみると、音は段々と大きくなっていた。
時折聞こえる男の叫びや悲鳴、逃げようとする者を追い詰め叩きのめし、家屋を破壊するような音まで聞こえ始め、何かが外で起きている。
「な、何? 何が……?」
「お、お嬢! お逃げください!」
「い、いきなり何よ!?」
「それが、お嬢、がっ!? な、何しやーー、ぎゃあぁぁぁぁっ!?!?」
突然の状況に女が混乱していると、扉から顔を出した黒服のイカつい男性が逃げるように訴える。
いきなり何を言い出すのかと怒鳴る美山に、男が説明しようとするも、その体は元来た道へ強制的に戻されるように引っ込んだ。
次の瞬間、抵抗虚しく男の悲鳴と共に地面が抉られるような低く大きな音が木霊すると、たちまち辺りは不気味な静けさを得る。
だがそれはあくまでただの間でしかない、力也と美山の二人が唖然と扉を見ていると、頑強な二つの扉が大砲の直撃を受けたかのように破壊された。
女が悲鳴を上げ、少年も口を塞がれながらも驚き、怪我をしないよう身構える。
いくらか物が散乱し、見るからに高価な壺などが割れていたものの、奇跡的に破片が飛んでくることはなかった。
しかしまだ安心はできないと閉じた目を開けて、何が起こっているのかと力也が暗闇に閉ざされていた空間へ差す明かりを見る。
そこには月明かりが出始めた夜の中を、まるで事もなげに歩いてきたとばかりに、一人の少女が立っていた。
「こちらにいらっしゃいましたか。 お迎えに上がりました、力也様」
普段持っている竹刀袋から出したと思われる竹刀を片手に、いつも無表情がほんの少しだけ安心したような、そんな顔を浮かべた佐藤 明美が喋りかける。
涼しいくらいに何でもない事だと、そう言わんばかりに彼女は現れた。
何故ここに、そう言いたいが喋れない力也はただ呆然と見ているしかできなかった、それは少し離れたところにいる美山も例外ではない。
女は確かに指示した、自宅から見ても距離の離れた人気が少ない河川敷で、目の前の少女をめちゃくちゃにしろと命令したはずだった。
ところが少女、明美は身に着けている制服を乱すことなく、むしろいつもより高揚しているかのような態度をしている。
それ以上に美山が気に入らないのは、明美が自身をまるで眼中に止める価値すらないとばかり、視界の外に追いやっていた。
無意識かどうかはともかく、この状況で上になったと意気込んでいると思い込んだ女が罵声を浴びせようとする。
「てめぇ、何で……、えっ、あれっ?」
「失礼します、力也様。 お怪我はございませんか?」
「ーーぷはっ、あ、あの、その……、ありがとう、ございます……」
「礼は不要です。 元々私の役目で御座いますので、お気になさらずに」
「は、はい……?」
美山が声を張り上げつつ、力也を人質にしようと動こうとしたときには、目当ての少女は扉があった場所から忽然と姿を消していた。
何が起きたのかと焦っていると、後方からの声に振り返った女が見たものは、どんな手品を使ったのか、すぐ近づいた明美が力也の拘束を解いてしまう。
驚いたのは力也も同じで、つい先ほどまで距離が離れていた少女が、まるで魔法を使ったかのように、信じられない俊敏さで目の前に現れた。
縄と猿轡から解放され、お礼を伝えようとする少年を止める少女の態度は、普段とは明らかに異なる。
まるでそれは貴人を護衛する騎士のような振る舞いだと、力也は直感的に感じた。
「な、何? 何で、えっ? ちょっ、どうして……?」
「体に不調はありませんか? 何かありましたらすぐ仰ってくださいませ。 ラディーヴァ卿からも丁重に扱うよう言い渡されておりますので」
「は、はい……?? あの、何を言って……?」
「ーーっっ!! オイ、無視してんじゃねぇよ! 何様だよ、つうかテメェ何でここにいんだよ! うちの連中にテメェは今頃犯されているはずだろうが!」
一人で状況を進めていく明美は、このまま美山をないものとして力也と共に立ち去ろうとまでしているように見えた。
彼女が何を話しているのかが分からない少年は混乱し、ずっと捨て置かれている女は爆発して口汚く声を荒げる。
女の指摘はもっともだった。 明美は危機的状況にあったはずではと力也が見ても、彼女のどこにも傷らしきものは見当たらなかった。
罵詈雑言を吐き出し続ける女に、声を出すのも面倒だとばかりため息を吐く少女の態度が、余計に今回の首謀者を苛立たせる。
「舐めてんじゃねぇぞ、こら! おい、何とか言えよブス!」
「……力也様、発言をしてもよろしいでしょうか?」
「は、えっ? あの、ご自由に……」
「ありがとうございます、それでは失礼いたします」
見る気もない明美は怒りで醜いと呼べるまでに顔を歪ませる美山の言葉に辟易しつつ、何故か力也へ話す許しをもらおうとしていた。
もう訳がわからないと投げやりに許可したとき、空気が一変する。
まるで場の全てを瞬時にしたかのような圧迫感が力也と美山の二人を襲い、呼吸することさえ躊躇ってしまうほど、空気が重かった。
そして場を制した少女がゆっくりと立ち上がり、その手に持つ竹刀の切っ先を地面に向けたまま女に向き返ったとき、哀れな小動物が天敵に出くわしたような悲鳴が溢れる。
見上げた力也も思わず息を飲んでしまう、明美の瞳は冷たく感情が感じられない、鋭い刃のような威圧さを放っていた。
「行きましたよ、もちろん。 力也様がおられず捜索を続けようとしたところ、邪魔立てをしてきましたので、全て制圧をしてきた次第です」
「せ、制、圧……?」
「ですが、ただ闇雲に探し回っても時間の無駄だと思い、何名かにお尋ねして、こちらにいらっしゃることを聞きましたので、力也様のお迎えに馳せ参じました」
「な、何、言って……、だって、ここまで来るのだって……!」
「美山組、でしたか? それなりの武装集団だと聞いていたので楽しみにしていたのですが、児戯にもならないほどの脆弱さに物が言えなくなりました。 全く、愚物はどこまでいっても愚物なのですね」
淡々と話す明美の姿が、あまりに異常すぎて美山はすっかり怒りも何もかもが剥がれ、怯え切ってしまう。
力也にしても、少女の姿が現代ではありえないくらいに、暴力的と語るには規模が違いすぎる迫力に言葉がなかった。
何でもないかのように語る明美の言葉には、立ち塞がったものは全て無力化したと語ったので、少女は信じられないと慌てて蔵から出る。
そこに広がる光景を目撃して、美山は言葉が出てこなかった。
屋敷のあちこちは木っ端微塵とばかりに破壊され、そこらに散らばる組の人間と思われる黒服の男たちが倒れていれば、ある者は壁に叩きつけられたように座り込み、ある者は建材に突き刺さるようにめり込んでいる。
つい先ほどまで何でもなかったはずの自宅の様子に、震える体で現実を見つめることができない哀れな少女が、涙目で後ろを見た。
そこにいる佐藤 明美が変わらぬ表情で、冷たく睨み付けているだけで、特別な反応をしていない。
「う、嘘だ……、こんな、こと、できるわけ……!」
「現実を受け止められないとは、人間とは本当に都合がいいのですね、見ていて不愉快です。 さて、そろそろ本題へ移りましょう」
「……ひっ!?」
必死に否定しようとする、もはや敵にもなりえない少女に対して、明美は話すことはこれ以上ないとばかり切り上げる。
同時に、ここに来て彼女は目の前の人間を正真正銘の敵と認定し、殺気すら漂わせるほどの眼力をぶつけると、美山は腰を抜かしたように地面へへたり込んだ。
動かない体をなんとか両手で懸命に後ろへ下がろうとするが、それを一歩ずつ確実に、明美が間を埋めていく。
「痴話だとお伺いしていましたので、これ以上の介入はしない方がいいと思っていましたが、まさかここまで考えなしに動くとは、愚かの極みとでも言えばいいでしょうか?」
「ご、ごめ、ごめん、ごめんな……」
「謝罪は不要です。 その気もない人間の言葉に説得力などあるはずもなし、これ以上我が主となられる御方のお耳に不愉快な声を届けることさえ、万死に値します」
蔵から出てきた明美の顔は、誰も見たことがないような微笑を浮かべていた。
見るものが見れば美しい可憐な美少女と言われなくもないそれだが、今の美山には死神が笑っているかのような、空恐ろしさしかない。
引きずるように逃げるスピードに対して、歩み寄る者とでは差はないも等しく、あっという間に竹刀を持つ少女が女を見下ろしていた。
その手に持つ竹刀を振り上げ、殴り始めようとするのを少年の声が止めに入る。
「待ってください、佐藤先輩!」
「ーー何でしょうか?」
「うっ、あっあの……、それくらいに、してあげてください、いやっしてくれ、ませんか……?」
外の惨状と、明美の覇気にどうしても腰が引けてしまう力也だったが、なんとか喉から絞り出すように声を出した。
無視されるかもしれないと思ったが、反応してくれた少女にホッとしつつ、ここで手打ちにして欲しいと頼む。
その言葉があまりに予想外すぎたのか、明美は訝しむように見てきた。
「それはつまり、何もするなというご命令でしょうか?」
「いえ、その、命令というほどでは……」
「ならば力也様、そのような発言をされることへの理由をご説明願います。 この者の起こした件は、この国において犯罪と呼称される忌むべきもののはずです。 それなのに、貴方様がどうしてそう仰られるのか、私が納得できる回答を求めます」
何を言っているのか理解できないと、明美は意図を尋ねてきたと思えば、それを求める理由を教えてくれと求められる。
そう来るかと、一理あると感じるものの、どうにも目の前の少女は異質すぎるどころか、何かが決定的に欠けている気がしてならないと力也は感じた。
しかしそれは逆に、きちんと説明できればこれ以上の騒ぎにならないようにできるかもしれない可能性がある。
深呼吸し、自分を落ち着かせる力也は必死に言葉を見繕い始めた。
「……確かに、美山先輩のしたことは犯罪です。 それは罰せられるべきことです」
「ならば何故、お止めになるのです?」
「それは、佐藤先輩が警察じゃない、ただの学生だからです! 犯罪を起こした犯人を、法的機関に属していない人間がそんなことをしたら、治安が乱れるじゃないですか!」
「では、此度の件においても機構が動くのを待つべきだと思われるのですか?」
「それは、そういうのが手順というもので……」
「お言葉ではありますが、その間の力也様ご自身の安全が保証されていないと愚考いたします。 この者は痴情のもつれから、貴方様を辱めようとすら考えていたほどです。 さらには身体的に暴行を加えるまでに至っております。 その頬の痣も、この者の仕業でありましょう?」
説得できるかもしれない、そう思った力也だったが、予想を超えた明美の対応に言葉が出てこなくなってしまう。
そして自分を殴った痕も分かっていた少女は、美山を睨み付けて逃げないようにと縫い付けるような視線で金縛りを与えた。
納得させられれば穏便に事を収められると楽観的に考えすぎだったのかもしれない、だからといってこのまま見過ごすことなど力也にはできない。
脳裏に焼き付けられた、幼い自分が見下ろす先に広がる血の海を思い出して。
「……それでも、ダメです、止めてください」
「承服しかねます、納得できるご説明ができなければ、そこでお待ちを。 すぐに終わります」
「ダメです、絶対ダメです!」
「ですからご説明を……!」
「だって佐藤先輩、今絶対に私怨で美山先輩を傷つけようとしているじゃないですか! それじゃあ大義も何もないじゃないですか!?」
顔を俯かせ、力也の認められないという言葉を明美は斬り捨て、美山という女へ体を向け直して竹刀を振り落とそうとする。
癇癪を起こした子供のように声を張り上げる少年に、少女は振り切ろうとするも、出てきた言葉に体が震えた。
制止させられるほどの言葉があったわけではない、ただどうしても聞き捨てならない単語が明美の中で引っかかる。
何故そう思ったのか、顔を向ける少女は目の前の必死な少年に尋ねた。
「……今、なんと仰られましたか?」
「えっ?」
「私がこの者を傷つけようとしていることに対しての動機についてです」
「……私怨だって、言いました」
「私怨……? 私は別にそのような個人的な感情でーー」
「だって佐藤先輩、見るからに怒った顔してますよ? だから、俺のことで制裁を加えようとしているんじゃないですか?」
少女の問いに少年が答えると、ますます分からないと言おうとするのを遮られ、出てきた指摘に呆然とする。
明美は空いた手で自身の顔を触ってみると、口角が下がり、眉間にしわが寄り、目元も吊り上っているのが分かった。
そんなつもりはなかった、彼女はいつも通りにこなしていると思っていたのか、自分の顔が酷いことになっていることに気づかされる。
動きが止まった明美を力也が固唾を飲んで見守ると、細い腕が持っていた竹刀の先が再び地面へ向いた。
「力也様」
「は、はい!」
「……お見苦しいところをお見せして、誠に申し訳ありませんでした」
「あっ……、そんなこと、ないです。 俺も、言い過ぎたかなって」
「いえ、我が愚行をご指摘いただき、感謝いたします。 危うく私刑を犯すところでした。 はぁ、まだまだ未熟ですね……」
明美が力也の方へ向き直ると、すっと頭を下げて謝罪する。
謝られることはしていないと伝えようとするも、言葉半分で自らの行いが正しいものとは言えないことに気づいた少女は嘆息した。
ともかく、これ以上血を見ることはなくなったことに安堵して、力也は明美へ近づき、美山へ手を貸そうとする。
この件はしっかりと通報し、後は警察の判断に任せるだけ、そう思っていた。
「美山先輩、今日の……」
「……っ!?!? ぐっ、あっ、あぁぁっ!? あっあぁぁぁぁぁっっ!?!?!?!?」
「ーーっ! 力也様、失礼します!」
「えっ、うわっ!?」
有耶無耶にする気はない、そう伝えようとした時、美山の口から苦悶に満ちた声が響く。
身体の中から何かが食い破っているかのような激痛に少女の顔は苦しみを浮かべ、その様子に明美が何かを悟ったのか、即座に行動に出た。
呼ばれて反応した時には、その場から信じられないスピードで離れ、明美に抱えられている状況に困惑していると、轟音が鳴り響く。
母屋と思われる家の縁側まで飛ぶように離れた明美が、力也をゆっくり下ろした。
何が起きたのか理解できない少年が見た先には、閉じ込められていた蔵から砂塵が舞い上がっている。
そこから掻い潜るように出てきたのは、黒い巨大な影だった。
およそ生物とは言い難く、しかし夢幻と断定するにはあまりに異質すぎて、見るのも憚れるようなおぞましさが漂っている。
何かを象ったような姿に見合った鋭い牙と爪を携え、目と思われる部分から眼光というにはあまりに恐ろしすぎる金色が、少年と少女を見据えている。
「な、なんだよ、あれ……」
「……」
目に映るものが何かを理解できない力也は、本能的な恐怖がこみ上げ、震えが出始めた。
対して明美は無言で、構えを解くことなく、じっと黒い何かから視線を外さないように睨む。
およそ化物と呼称するしかない存在は、待ち望んでいた獲物を見つけたことによる喜びから、口元が歪んだ。
『ツイニミツケタ』、そう口ずさむように。
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