第58話 終結
振り返る。フラーネもまた、悍ましい魔力の気配を感じ取っていた。泣きはらした目もそのままに、上半身を起こす。
魔王と勇者の視線の先で、漆黒の球体が現れた。球体は周囲の魔力をその身に取り込んでいく。岩場から黒い
それだけではない。球体は少しずつ体積を増していた。
リェダは眉をひそめた。球体から感じられる魔力はほとんどが魔族のもの。特有のざらりとした感覚だ。だがその中に混じって、人間のものと思われる魔力の波動も感じ取った。
漆黒球体の周りに、小さく炎が吹き出る。かと思えば、水飛沫も舞った。
「あれは、勇者の――うっ!?」
フラーネが身を乗り出そうとして呻く。ズルズルと身体をリェダの腕の中に落とした。顔が苦悶に歪んでいる。精神操作魔法に加え、立て続けにステラシリーズを放った代償であった。
球体が放つ二種類の魔力。その内のひとつは勇者のもの。
つまりあれは、ひそかにフラーネから魔力を奪い取っていたのだ。
『リェダーニル……陛下……』
漆黒球体から声。聞き覚えがあった。リェダが焼き殺した、あの哀れな魔王のものだ。
『俺の名を……覚えたか……』
「貴様の名など知らん。覚えるつもりもない」
往生際が悪い、とリェダは吐き捨てる。
だが、漆黒球体は同じ言葉を繰り返した。どうやら、球体に魔王の意志は残っていないようだ。
いわば、哀れな魔王の残留思念の塊と言えるだろう。
『俺の名を、今度こそ、あなたの胸に。永久に』
ただの思念ではない。これは――執念だ。
リェダには到底理解できぬ類の、執着心だ。
しかしここで、「愚かだ」「哀れだ」と言っていられない事態が起きる。
徐々に膨れ上がる漆黒球体に向けて、風が生まれていた。それは次第に強くなり、周囲の物を飲み込むほどになっていく。
一抱えほどの石が漆黒球体に触れた途端、木っ端微塵に砕けて吸収された。
リェダは思い出した。かつて一度だけ、書物でのみ見た魔法。
名称も定かでないその魔法は、ただ効果のみ端的に記載されていた。
書物のとおりならば――この国の半分が吹き飛ぶ。
「最後の最後に厄介なものを」
リェダは【無限充填】から魔法を引き出そうと、手を漆黒球体に向けて掲げた。
その指先が、ぼろりと崩れ落ちる。
直後、掲げた腕が力を失ってだらりと垂れ下がった。動かそうといくら意識を向けても、ぴくりとも反応しない。
「リェダ先生、さん。身体が。身体が」
フラーネが苦痛に細めた目でリェダを見る。
魔王は口元を歪めた。
「まさか、『今』……とはな」
全身から急速に力が抜けていく。黒い粒子が視界に立ち上る。
エテルオが魔王に施した五年間の恩恵。それがまさに今、切れようとしているのだ。
フラーネを転移させるだけの魔力は残っているか。我が身体を壁にすれば、威力を少しでも減衰できるだろうか。せめて、子どもたちのいるリツァルは無事なように。
「諦めてたまるか」
絶望的な状況でも足掻く。魔王だったころには想像もできないことだった。
フラーネが裾を引く。勇者であり教え子の少女は言った。
「リェダ先生さん。私の魂を使ってください」
「何だと」
「王都で学びました。魔族は、人間の魂を糧とすることで本来の能力を発揮できるようになると」
「却下だ。我はお前の魂を喰わない。誰の魂も、だ」
強い口調で拒否する。だがフラーネは、リェダならそう言うだろうとあらかじめ予想していたようだった。
「先生さん。違います。私は戦いたいんです。リェダ先生さんと一緒に」
いまだ無意味な叫びを繰り返す漆黒球体を見る。
「今の私では戦力になりそうもありません。ですが、リェダ先生さんの力があれば違います。私の魂を使ってください。そして私にも戦わせてください。この国を、皆を、孤児院のきょうだいたちを護るために」
呼吸が苦しいだろうに、はっきりと決意の言葉を告げるフラーネ。ふと、彼女は笑った。
「リェダ先生さんに私の力を使ってもらえるなんて、すごく幸せ。もしかしたら私、この瞬間のために勇者を目指したのかもしれません」
「フラーネ」
「使ってください。私の、勇者としての力のすべてを」
一緒に戦わせてください、と彼女は繰り返した。
リェダは瞑目し、すぐに目を開けた。フラーネを見る。勇者少女は小さくうなずくと、目を閉じ、胸の前で両手を合わせた。
リェダは動く手で、フラーネの両手を包み込む。
「共に戦うため。フラーネ、お前の魂――預かるぞ」
元魔王の手が勇者の胸の中に沈む。
ゆっくりと慎重に引き上げた手の中には、眩く輝く勇者の魂があった。
リェダはそれを自らの胸に当てる。取り込むのではない。隣合って、互いを支えるように。力を与え、また授かるように。
全身に魔力が漲ってきた。
『宝玉』など比べものにならない。自分が根元から生まれ変わるような清新な感覚に包まれる。
勇者の魂と同居することで、リェダは
――【
地面から清らかな水が溢れ、広がっていく。水に触れた箇所から癒やしの力が浸透してきた。崩れかけていたリェダの身体が再生し、疲労困憊状態だったフラーネに力を与える。
滑らかな肌艶を取り戻した自らの手を、リェダは握りしめた。
「まさか我が、勇者の絶技を使うことになるとはな」
元魔王はそっとフラーネの身体を地面に横たえた。一時的だとしても、魂の抜けた彼女は目を閉じたまま動かない。【命湧のステラ・リンク】による癒やしの水に包まれて、勇者は安らかな寝顔を見せていた。
リェダは剣を取る。王国が勇者のために用意した精緻で美麗な剣ではない。元は素振り用の棒でしかなかった木剣、勇者となる前からフラーネが愛用していたという『聖剣チェスター』を。
フラーネが自らの意志でステラシリーズを使うのなら、きっとこちらの剣を使うだろうとリェダは思った。
「教え子に与えた玩具を取り上げるみたいで、気が引けるな。……借りるぞ、フラーネ」
無意識に漏れた軽口。リェダは、自分がいつの間にか根っからの孤児院長になっていたのだなと感じた。感慨深かった。
漆黒球体に相対する。
『俺の名を。俺の名を。刻め。刻め。リェダーニル』
「哀れな奴だ。ただ己の存在を誰かに刻みつけたいだけに生きるか。自らの名すら忘れて」
聖剣チェスターを構える。必要なことは、すべて勇者の魂が教えてくれる。
炎が巻き起こる。
リェダはそこに、【無限充填】で蓄えた力も加えた。暴走しないように、自らの魔力で包み込む。
「我と出会ったことこそが、貴様の不幸だったのであろう」
リェダは言った。
「我は貴様を永遠に知らぬ――これをもって制裁とする」
聖剣の切っ先を哀れな魔王の抜け殻に向ける。
「消えろ」
――【灼熱のステラ・ヴェールフ】。
陽光を凌ぐ眩く白く清浄な輝きが、漆黒の敵を瞬く間に染め上げた。
魔王と勇者の至高の絶技が、魔界の魂を完全に滅した瞬間であった。
◆◇◆
フラーネ・アウタクスはゆっくりと目を開けた。
何度か瞬きすると、澄み切った青空がはっきりと目に飛び込んでくる。自分が仰向けに寝かされていると知った。
「起きたか、フラーネ」
「リェダ先生さん」
「身体は何ともないか」
穏やかな声に、フラーネは顔を向ける。リェダが傍らで膝を突いていた。赤い目、長い耳は魔族の証。だけど子どものころから心の支えになっていた優しげな微笑みは、以前とまったく変わらない。
フラーネも微笑みを返した。同時に確信する。「私と先生さんは勝利したのだ」と。
「はい、先生さん。まったく問題ありません。むしろ全盛期より調子がいいくらいです」
「その若さで全盛期と比較するか。まあいい。元気なのは間違いなさそうだ。魂は無事に返ったようで安心したよ」
「あのまま先生さんとひとつになっているのも悪くなかったかなあ、なんて」
「馬鹿なことを」
「えへへ」
舌を出して笑う。それから辺りを見回した。
決戦の場と光景が違う。めくれ上がった地面の隙間に、微かに魔法陣の跡が見える。
「この先が孤児院の建物だ」
リェダが言った。
「少し歩けば、すぐ着く。お前の仲間の騎士たちがいるから安心だろう。あれだけ激しい戦闘を行ったのだ。今は調子良く感じても、休養は必要だぞ」
「このくらい平気ですよ」
フラーネは上体を起こした。
「休息が必要なのはリェダ先生さんの方です。ここまで私を運んでくださったんですよね。あ、もしかしてすごく重かったですか。それはそうですよね、こんな重装備だし。そういえば鍛えすぎて筋肉が……ああ、どうしよう」
「気にするな。大した負担じゃなかったよ」
「さすが先生さん! ……あれ? でしたら、どうしてこんなところで休憩されているんです?」
「……」
「あ、そっか。そうですよね。確かに今の姿のままだと騒ぎになりますよね。で、でも大丈夫です。私が勇者の名にかけて、先生さんを護りますから。騎士の皆さんにだって文句は言わせません。だって先生さんは国や皆を救った英雄なんですから!」
「……」
「あの、先生さん?」
フラーネは微笑みながらも、首を傾げる。
「どうしたんですか? さっきから黙って。大丈夫ですって、私がいれば――」
「パパ!」
「リェダ様!」
声の方をフラーネは振り返る。
そこには、ティアロナに支えられたエルの姿があった。ふたりとも切羽詰まった表情をしている。
フラーネは、エルが目を覚まして立ち上がれたことに喜び、同時にティアロナが魔族の姿のまま賢者を支えていることに眉をひそめた。自分より先にエルたちの方が真実を知っていたのだと直感的に理解する。
フラーネは平静を装って言った。
「ふたりとも遅いよ。私と先生さんで、脅威は打ち倒したから。それにしてもずるいな。エルもティアロナ先生も、こんな大事なこと黙ってたんだから」
「フラ姉……」
「でも大丈夫。魔族であっても先生さんは先生さんだってことがわかったから。これからは私が先生さんたちを護って――」
「あなた、気づいていないの?」
え? とフラーネは漏らす。
妹分の賢者と魔族の先生の視線を追い、ゆっくりと振り返る。
リェダがいる。
彼は消えかけていた。
火の付いた紙が燃え
「…………嘘。何が、起こってるんです……か?」
「時が来たのよ」
ティアロナが言った。主の代わりに告げるのが責務だとするように。
「リェダ様――リェダーニル・サナト・レンダニア陛下は、本来、魔界の王たるお方。それが先代の院長、エテルオ翁の召喚魔法によって人間世界に喚び出された。接穴を通ることなく、力を減衰させることもなく、この世界にいられたのはそのおかげ。けれど、その魔法の効果は五年しか保たない」
エルから身体を離し、ティアロナはリェダの側に近づいた。
「効果が切れれば、陛下は強制的に魔界へと送還される。そして――これだけのお力を持った魔王陛下が、接穴を通ることはもはや不可能」
臣下の礼を取り、深々と頭を垂れる。
「リェダ様。五年に渡って慈悲と寛容の御心を示し続けたこと、心より敬意を表します。あなたのご偉功は子どもたちの心をあまねく照らすでしょう。どうかしばしお休みください。このティアロナも、すぐにお側に参ります」
「な……んですか、それ。ティアロナ先生、何を言ってるんですか。あなたは!」
フラーネが肩をつかむ。だがティアロナは顔を上げることはなかった。
エル、と悲鳴のように賢者の名を呼ぶ。エルはしばらく義姉を見つめ、そして言った。
「ティアロナ先生の話は、本当」
「そんな。そんなことって」
フラーネの視線がその場の全員を行き来する。誰も、何も言わなかった。
勇者の目尻から涙が落ちる。
彼女は恐ろしい事実に思い至った。
漆黒球体を打ち倒すため、自らの魂を差し出したフラーネ。リェダはそれによって危機を退けた。
だが一方で、リェダは魔王と呼ばれるほど力の強い魔族であった。敵を打ち倒すためとはいえ、魔族とは対極にある勇者の魂を身に宿し、そして再びフラーネに返還するために自ら手放したら。
リェダは人間の魂を一切喰ってないと言った。フラーネのそれが、初めて取り込む魂であったなら。
強制送還への綱を切ったのは、勇者である自分かもしれない。
「リェダ先生さん!!」
フラーネは恩師に手を伸ばした。リェダはいつもの微笑みを浮かべて教え子を見た。
力いっぱい抱き留めようとした手が、空を切る。
フラーネの目の前で、何かがぽとりと落ちた。
それは、血で汚れた小さな人形だった。
「パパ。私の人形、持っててくれたんだ」
賢者エルの言葉で、勇者は知った。否応なく思い知らされた。
かつての魔王、崇敬する恩師リェダは、この世界から消えたのだ――と。
慟哭が響いた。
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