第57話 魔王対勇者
「フラーネ!」
叫ぶ。勇者にまとわりつく穢らわしい魔力は、今や彼女の全身を包み込んでいた。
駆け寄ろうとしたリェダだが、足が止まる。
「リェダ先生さん」
まるで洞窟の中のように、フラーネの声が不自然に反響する。
髪をかきむしっていた手を止め、彼女はゆっくりと顔を上げた。
リェダは唇を噛む。
フラーネ・アウタクスの瞳は、真っ赤に明滅していた。あの哀れな魔王の魔法により、精神を侵食されているのだ。
外見の特徴、そして噴出する魔力の質。フラーネは完全な魔族になったわけではない。だが限りなくそれに近い存在になろうとしていた。
「リェダ先生さん。どうして」
漆黒の魔力をまとい、フラーネがふらりと歩き出す。
「どうして、私に黙っていたんですか」
まだ声は不自然な反響を続けている。しかし口調ははっきりしていた。
「私はこんなにも、こんなにも先生さんを慕っていたのに。先生さんのために命を賭けてきたのに、どうして」
「フラーネ……」
彼女の魂からの声に、反論できない。できるはずもなかった。
教え子たちを騙していたのは、紛れもない事実なのだから。
勇者に――フラーネに殺されるなら本望。
だが、彼女をずっと見てきた孤児院長としての直感が、リェダを踏みとどまらせる。
今のフラーネは、精神を冒されている。
「リェダ先生さん。リェダ先生さん。リェダ先生さん。どうして、どうしてどうして――」
この状態の彼女が魔王を倒したとして、その後はどうなる?
「辛い、悲しい、腹立たしい、憎い。憎い、憎い、憎い――どうしてッ! いやっ、そんなことはどうでもいいッ!!」
――リェダの懸念は当たっていた。
哀れな魔王の精神魔法は、動揺していたフラーネの心の奥底まで浸透した。
彼女の核となる信念、リェダへの信頼、そして深い思慕の情。それらがすべて、反転したのだ。
想いが強ければ強いほど、反転すれば凶悪な牙になる。
「私を苦しめるすべて、この世から滅ぼしてやる!!」
人々を救う勇者が、人々を滅ぼす破壊者へ。
この状態となったフラーネ・アウタクスを、人間世界は受け入れるのか。
ない。
待っているのは、彼女の破滅だ。
「今、お前を置いて死ぬわけにいかぬぞ。フラーネ」
「うわあああああああああっ!!」
絶叫とともに抜剣。みすぼらしい木剣ではなく、本来、勇者として振るうべき美麗な長剣をリェダに突きつける。
爆発的な炎が立ち上った。
フラーネの身体が瞬く間に火炎の輝きに包まれ、見えなくなる。
魔力の炎が、暴れている。苦痛にのたうちまわっているようにも映った。
リェダの肌が粟立った。迫る危険を察知したのだ。これは以前、孤児院近くの森で彼女が披露した勇者の絶技――。
フラーネが炎と魔族の魔力をまとって、突進してきた。
剣が赤熱し輝いている。剣閃が尋常を遙かに超える速度で、来る。
――【断炎のステラ・デストラ】。
灼熱の炎で切断力を増幅させた一撃。あらゆる防御を切り裂く勇者の絶技。
リェダは――魔王リェダーニル・サナト・レンダニアは、己が持つ至高の能力【無限充填】を発動させた。かつて自身すら砕くことができなかった一点集中型の防御結界。魔王には似つかわしくない神々しく輝く盾を現出させ、受け止める。
鼓膜が破れるかと思うほどの激音がした。
勇者の魔力、剣の才、タガの外れた精神が合わさった【断炎のステラ・デストラ】は、徐々に、徐々に、魔王の盾を焼き切っていく。
防げぬ。これほどか――ッ!
魔王は人間世界に生きてきて初めて、純粋な力勝負において『戦慄』した。
キンッ――と、場違いなほど軽やかな音がした。
切断された魔王の盾が宙を舞う。
煌々と輝く魔王リェダの瞳と、不自然に明滅する勇者フラーネの瞳が交錯した。
直後、防御機能を失った魔王の盾が、大爆発を起こす。
あまりにも盾として強すぎたためこれまで発揮されることのなかった、魔王の盾のもうひとつの力。
防げなければ、せめて道連れ。
リェダは苦悶のあまり呻く。吹き飛ばされ、身体を岩に叩きつけられた。
顔を上げる。白い爆煙の向こう、波打つ水が球体を作っている。
水飛沫を上げ、球体が弾ける。内部では、無傷の勇者が直立した熊のように胸を張っていた。
――【
あらゆる攻撃を防ぐ水の盾を作る、勇者の絶技。
リェダは立ち上がる。次の瞬間、彼の足下から無数の火柱が上がった。
一本一本が意志を持ち、魔王に絡みつく。縛るという表現が生ぬるいほど、万力で締め上げてきた。骨よ砕けろ、肉よ
――【
魔力で編まれた火炎の鞭によって敵を捕縛し焼殺し圧殺する、勇者の絶技。
激痛がリェダの全身を駆け巡る。身動きが取れない。自らの肉が焼ける音が聞こえる。
勇者フラーネが叫んだ。剣の切っ先を魔王に向け、ありったけの魔力を絞り出す。
橙色の炎が集束する。輝きが強くなる。
リェダは動けない。【赫縛のステラ・デレイト】は魔法能力すら阻害する力があるのか、抜け出すための転移魔法が使えない。
絶叫とともにフラーネの練り上げた魔力が、ついに白の輝きを帯びる。
見覚えがあった。これはブロンスト郊外で彼女が見せた絶技。
ステラシリーズで最大最強の威力と効果範囲を持つ、勇者の切り札。
己を砲身とする極大火炎放射。
――【灼熱のステラ・ヴェールフ】。
発射。
ブロンストのときとは違う。転移魔法が使えない。距離が至近。遣い手は力のタガを外している。あれこれ策を練る時間はない。勇者の絶技ですでに消耗している。避けられない。
にもかかわらず――今、魔王に死ぬことは許されない。
勇者の咆哮が耳朶を打つ。
【灼熱のステラ・ヴェールフ】の輝きが視界を覆い尽くす。
咆哮が一瞬で遠くなる。
手足を縛っていた火炎の鞭が吹き飛ぶ。
勇者フラーネ最大の絶技は、荒れ果てた廃墟と化した森をさらに均した。射線上にいた魔族を飲み込み、蒸発させる。
地上に現れた殲滅の輝きは、実に十数秒に及んだ。
静寂が戻ってくる。
勇者と魔王の戦場となった岩場にも、緩やかな空気が潜り込んできた。
甲高い音がした。勇者の剣が、手からこぼれ落ちる音だった。
次いで、勇者がうつ伏せに倒れる音。
背中に広がった青い髪から、不浄な黒い魔力が薄れていく。
哀れな魔王が施した精神操作の魔法は、勇者フラーネが意識を失うと同時に効力を失った。精神操作魔法は、いわば寄生して狂わせるもの。すべてを絞り出してカラカラになった心には、養分として吸い取れるような力が残っていなかった。
岩場は、勇者の絶技による熱がまだ滞留している。それに炙られ、黒い魔力は薄い霧のようにゆっくりと周囲を巡っていた。
この場で立っているのはただひとり。
「見事だ勇者よ」
魔王リェダーニル・サナト・レンダニアがつぶやいた。絶技の熱によって、顔面は見る影もなく爛れている。全身のあちこちが抉れ、肉が欠損している。
それでもなお――リェダは立っていた。
もし彼が、絶大な力を持ちながらも魔法に呪文を使う者であったならば、こうして立っていなかっただろう。魂ごと滅されていただろう。
リェダは【無限充填】の発動と収納を同時に行使した。
魔王の盾を始めとして持ちうる防御魔法のすべてを同時展開する。
【赫縛のステラ・デレイト】の影響で防御性能が弱まった分は、肉の壁で補った。
周囲に散乱する魔族の遺体を遠隔操作して、リェダと絶技との間に配したのだ。
それでも、まだ生き残るには足りない。
リェダは賭けに出た。【無限充填】は魔法をいくらでも、いくつでもストックできる能力。魔法の保管庫を開けて中身を放出しつつ、開けた扉から勇者の絶技を取り込もうとしたのだ。
無論――勇者最強の技【灼熱のステラ・ヴェールフ】を魔王がストックすることはできなかった。それでも、威力のいくぶんかを吸収することには成功した。
そうした諸々の手が奇跡的に噛み合い、リェダは生き残った。
紙一重だった。
彼は思う。もし、フラーネが四つのステラシリーズを駆使せず、最初から【灼熱のステラ・ヴェールフ】にすべての力を注ぎ込んでいたら、おそらく防げなかっただろうと。
彼女は最後、疲労していた。限界が来ていたのだ。それなのに、精神魔法で怒りと憎悪を増幅させられた彼女は、自らの限界を顧みず本能に任せて戦った。
ゆえに、魔王は生き残った。
倒れ伏すフラーネから、先ほどまでの忌々しい魔力が消えている。リェダは足を引きずりながら彼女の元へ向かう。杖が欲しい、と切実に思った。
半身が思うように動かない状態で教え子に手を差し伸べに行く。この状況に覚えがあった。かつて魔王リェダが人間世界に召喚されたときのこと。恩師エテルオは、左半身が不自由な状態でリェダを迎えた。
もしかしたら先生も、かつて同じように命懸けで子どもたちのために身体を張ったのかもしれない――そうリェダは思った。最後の最後で、彼に追いつけたような気がして、少し、寂しさが紛れた。
苦労してフラーネの傍らにたどり着く。彼女を抱きかかえると、薄らとフラーネは目を開けた。どうやら気を失っていただけのようだ。
フラーネの瞳は、元の澄んだ色を取り戻している。
「リェダ……先生さん……」
「大丈夫かフラーネ」
「先生さんっ……私、私は先生さんを……っ!」
涙を浮かべ、うまく言葉が出せないでいる教え子に、リェダは微笑みかけた。爛れた顔でも笑みが浮かべられることが嬉しかった。
フラーネの前髪をそっと撫でる。
「見事だったぞ、フラーネ。それでこそ勇者だ。お前は我の誇りだ」
「ごめんなさい……ごめんなさい、先生さん!」
勇者少女は魔王の手を取る。
「先生さんは、ずっと変わらなかった。私の大事な、大好きな先生さんのままだった! なのに……なのに私は!」
「魔王を倒すのは勇者の役目。気にするな。お前は立派に務めを果たした。独り立ちしたのだ。それは、我と我の先生が望むところであったのだ」
リェダはフラーネの手を握り返した。柔らかな感触。しっかりと血が通う温かさ。勇者として気高さを感じさせる魔力。大丈夫だ。勇者フラーネは生き残り、こうして我を取り戻した。彼女を排除する人間はいないだろう。
本当に良かった。
これで思い残すことはない。
それに後悔があったとしても――それを噛みしめる時間は、もうないだろう。
本能がそう理解している。
しがみついて涙を流し続けるフラーネを優しく撫でながら、ここで最期のときを待とうとリェダが腹を決めた――そのとき。
彼らの背後で、突如、巨大な魔力の塊が発生した。
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