第56話 どうして


「フ、フラーネ様……こちらの魔族は討伐、か、完了しました。はぁ、はぁ……」

「お疲れ様です。しばらく後方で休んでいてください」


 息も絶え絶えに報告する騎士に、勇者は静かに答えた。

 彼女の周囲には、おびただしい数の魔族が斃れている。五体満足でいる個体はひとつもない。

 魔族の血でむせかえる戦場に、フラーネの青い髪が涼やかにたなびく。崇敬と畏怖を込めて、騎士は敬礼した。


 女性騎士が交代で後方からやってくる。他の者より軽装だ。水属性の魔法で傷を癒やすことを専門に行う騎士である。先ほどまで、旧エテルオ孤児院に詰めていたひとりだ。

 フラーネは彼女の姿を認めると、すぐにたずねた。


「エルの様子はどうですか?」

「傷は一通り塞がりましたが、まだ目をお覚ましになりません。やはり消耗が激しすぎたようです。しばらくは安静が必要かと」

「そうですか」


 本当なら一刻も早く医療体制の整った場所に移送したいところだが、それも今は叶わない。


 襲撃してきた魔族の規模は、フラーネたちの想像を遙かに超えていた。正確な数は今もって判然としない。人間側は周辺から戦力をかき集め、必死の抵抗を見せている。

 事前の準備なしに大軍と大軍が正面からぶつかり合ってしまったこの状況。個々の戦場まで統制が効かない。

 そんな中で、安全に傷病人を移送できる保証はないのだ。


 現在、旧エテルオ孤児院には、エルだけでなく他の傷ついた騎士たちも運び込まれている。稀代の力を持つ勇者がステラシリーズを駆使して護る建物は、図らずも戦場で最も安全な場所のひとつになっていた。

 本当に腹立たしい。

 けれど今、不用意に孤児院を離れるわけにはいかない。

 もどかしさに半ば気が狂いそうになりながら、これまで培った勇者としての仮面を被り、ひたすら周辺の魔族を屠っていく。


 そんな最中さなかだった。


「……おかしい。急に魔族の猛攻が減った」


 フラーネは戦場に目をこらした。こちらに突進してくる赤目たちの数が、一気に少なくなったのだ。それでいて、肌に感じる魔族の圧はまったく消えていない。


 何が起こっている――?

 フラーネは聖剣チェスターを構え、慎重に歩を進めた。


「勇者様。あれを」


 追随してきた騎士が、身をかがめつつ空を指差す。フラーネも岩陰に隠れながら、その先を見た。


 何者かが空中に浮いている。

 禍々しく、かつ強力な魔力がフラーネたちのところまで届いてくる。これまで戦って屠ってきた魔族とは一段階も二段階も上位の存在に見えた。

 空中に浮かぶ者の足下には、無数の魔族が蠢いていた。騎士たちに少なからず動揺が走る。あの数がまとめて襲ってきたら、とても押し返せない。


 だが、おかしい。

 地を行く魔族たちは、皆空中に浮かぶ何者かを見上げ、しきりに吠えている。とても同類に対する態度ではない。

 そして空中の人影も、足下の魔族に容赦がなかった。


 人影から魔力が触手のように伸びる。下の魔族に突き刺さると、途端にその者は苦しみ、暴れ出した。

 そして、手近な味方に襲いかかっていく。

 息を呑む騎士たちの前で、壮絶な同士討ちが始まった。


 それだけではない。

 魔力の触手を受けた魔族が、傷つき、動けなくなると、まるでそれを見計らっていたかのように、その魔族が火を噴いて弾け飛んだのだ。周囲のあらゆる魔族をまとめて道連れにしていく。

 あっけない。

 まさにその言葉が相応しいほど簡単に、大量の魔族が亡骸と化した。


 骸を燃料に燃え広がる地表。熱気に煽られ、空中の人影の衣服や髪が揺らぐ。漆黒のローブ、褐色の肌に赤い髪。目の良い騎士は、さらに魔族特有の耳と目のぎらつきも把握した。


「何という、力か……」


 騎士のひとりがつぶやく。勇者を除く、その場の全員が同じことを考えた。

 どうして、魔族が魔族を蹂躙しているのか。何が起こっているのか。


「皆さんは下がってください。ここは危険です」


 勇者フラーネが言った。慌てて騎士がたずねる。


「まさか、フラーネ様。おひとりであの魔族と……? それこそ危険で――」

とは戦いません」


 空の魔族に視線を釘付けにしたまま、フラーネが返事を被せてくる。以降、周囲の騎士たちがいくら声をかけても無反応だった。

 やがて、空中の魔族は移動を始める。戦闘音がする方へ。次なる魔族の集団を求めたのだ。

 呆然と魔族の後ろ姿を見送った騎士たちは、ふと、周囲を見渡す。


「フラーネ様……?」


 撤退を指示した勇者が、いつの間にか姿を消していた。



◆◇◆



 まさか。まさか。まさか。

 フラーネは低い姿勢で走っていた。彼女の頭の中では、何度も「まさか」が反響する。

 勇者フラーネは見た。魔族を屠った魔族。その姿と横顔を。


「ティアロナ先生が……魔族?」


 信じられないと記憶を打ち消そうとするほどに、より強烈に脳裏に蘇ってくる。

 先ほどの光景。

 そして、以前、ブロンスト郊外で遭遇した二人組の魔族のこと。


 フラーネ・アウタクスは走っていた。強烈な衝動が、魔力の一番濃いところへと彼女を走らせる。

 ティアロナ先生が、魔族。

 じゃあ――リェダ先生さんも?


「嘘だ」


 リェダ先生さんも魔族?


「嘘だ、嘘だ。そんなのあり得ない」


 だって先生さんは笑っていた。私の活躍を喜んでくれていた。応援してくれていた。

 そんな先生さんに私は言ったのだ。『魔族は根絶やしにする』と。見ていて欲しいと。


「だからそんなことは、絶対にあり得ない。あってはいけない。信じない!」


 だからこそ、走る。

 強烈で、圧倒的で、それでいてどこか微かに懐かしい――そんな魔力の元へ走る。

 まるで、たいまつの火に自ら焼かれに行く蛾のように。



◆◇◆



 これほどの激情に我を忘れた経験は、魔王時代にも記憶がない。

 気がつけば、リェダーニル・サナト・レンダニアは無慈悲に終着地点へ到達していた。

 かつてエルとともに哀れな魔王を退けたあの場所。

 山が魔法によって抉り取られた岩場に、リェダは立つ。


 足下には物言わなくなった魔族たち。空中には腐臭。そして漆黒の魔力の渦。そのせいで地面まで届く陽光がひどく弱々しい。

 リェダの偽装魔法は、感情の昂ぶりに耐えきれず、とうに消失している。独特の紋様が浮かぶ長い耳に、相手を魂ごと飲み込むような深い血の色をした瞳。

 かつての魔王リェダーニル・サナト・レンダニアが立っていた。

 対する魔族はひとり。


「懐かしいですな。陛下」


 巨大な接穴を背に、こけた頬の目立つ男が言った。言葉遣いは丁寧だが、口調には抑えきれぬ激情がこもっている。

 哀れな魔王――ヴァーンシー・サナト・アンゲイルである。


 新旧魔王は互いに距離を取って睨み合った。


「今度は思い出されましたかな。この光景、あなたが哀れにも闇の檻に囚われたときとそっくりだ」


 ヴァーンシーは両手を広げて言った。

 直後。彼の視界から、リェダが消えた。

 ヴァーンシーが飛び退く。彼が立っていた場所から無数の漆黒触手が現れ、一本一本が鋭い槍となって魔王ヴァーンシーを襲う。


 対応。一本、二本と魔力を帯びた腕で払いのける。


 ――が、すぐに追いつかなくなる。


 息をつかせない。詠唱をさせない。魔法を使わせない。

 並の魔族なら、容易く追い込まれた波状攻撃。

 しかし、魔王ヴァーンシーには力があった。

 怒濤の魔力槍の雨に対し、手を掲げる。


【生贄充填】――。


 生命を魔力に変換し、己の魔法発動の起爆剤とする能力。


 魔王ヴァーンシーもまた、無詠唱で炎の魔法を発動させ、魔力槍をなぎ払った。

 熱の揺らぎと魔力の靄が、一瞬の空白時間を作る。


 直後に訪れたのは漆黒だった。

 視界から光量が一気に消失する。


 闇属性魔法――【圧殺闇架(デストルク)】。


 範囲内のあらゆるものをすり潰し、滅殺する闇の塊。

 リェダもまた【無限充填】によって無詠唱魔法を発動させたのだ。

 魔王ヴァーンシーは予想していた。これくらいは当然だと。全力で抵抗した。これを乗り切れなければ、かつての魔王に並び立つなど笑い話だと。


「――ご、ふっ!」


 凄まじい圧に耐えていた魔王ヴァーンシーの胸から、腕が生えた。

 いつの間にか背後に迫っていたリェダが、無造作に敵を貫いたのだ。

 ヴァーンシーは口から血を吐きながら振り返る。


 対峙したときと寸分違わぬ冷酷な表情で、魔王リェダーニルは立っていた。ヴァーンシーが全力で抗う闇魔法の圧力の中、リェダは腕を振るった。

 ずるり、とヴァーンシーの身体が抜き取られ、吹き飛ぶ。同時に闇魔法が消失し、むせかえるような臭気と薄暗さが戻ってくる。


 ヴァーンシーはそそり立つ岩に背中をぶつけ、盛大に血の絵画を描く。


「リェダーニル・サナト・レンダニアッ! 俺のッ、俺の名を覚えているかァッ!」


 ヴァーンシーは叫んだ。口から血をまき散らしながらも、まるで命を燃やすように叫んだ。


「俺は今度こそ、必ず、貴様の芯の芯へ名を刻み込んでみせるぞッ!」


 だが、かつての最強魔王は取り合わない。眉ひとつ動かさない。

 魂滅すると決めた相手に、かける言葉など無駄。不要。ゴミ。

 強大な魔力を手に込め、哀れな魔王の喉元をつかむ。

 絶望的なまでの彼我の差を見せつけながら、うるさい頭部と胴体をねじり切ろうとした。


「――リェダ先生さん!」


 その手が、止まった。

 魔王リェダーニル・サナト・レンダニアは、ゆっくりと声の方を振り向いた。


 岩の影から、青い髪をたなびかせ、勇者装備に身を包んだ少女が現れる。


 フラーネ・アウタクス。

 かつての教え子。


 魔族を必ず根絶やしにすると固い決意を口にした、稀代の勇者。

 目が合った。おそらくこれまで遭遇した中で、最も深く鋭い深紅の瞳が勇者少女を貫く。

 リェダはヴァーンシーから手を離す。哀れな魔王はズルズルとその場に崩れ落ちた。

 その様子を、フラーネは瞠目して見た。ゆっくりと首を左右に振る。


「ひとちがい、ですよね」


 激しい動揺が口調に表れていた。まるで孤児院に来たばかりのころのような、舌足らずで自信なさげな声。

 他ならぬ自分自身が「リェダ先生さん」とその名を叫び、そして相手が振り向いた――その事実を、今更ながらに否定したがっている。


 リェダは天を仰いだ。

 彼の中から、怒りと憎しみの感情が氷解していく。身体から吹き出る漆黒の魔力が弱まり、空が、少しだけ明るさを取り戻した。

 差し込んだ陽光が、もう言い訳のできないほど明確に、魔王の魔王たる姿を照らし出す。

 リェダは敢えて口にした。


「ついにこのときが来たんだな。フラーネ」

「先生……さん?」

「そうだ。そして俺の――いや、我の本当の名はリェダーニル・サナト・レンダニア。汝が討ち滅ぼすべき魔王である。勇者よ」

「どうしてッ!!!」


 思考も魂もすべて吐き出してしまうかのような、叫び。


「どうして、どうして! どうして、なんですかっ! 先生さん!!」

「泣くな、フラーネ。お前は勇者だろう。ここには我ら以外いないからいいものの、誰かに見られてはお前の名声と誇りに傷が付く。そうだ、誇りを大事にしろ」


 フラーネはひゅっ、と息を飲み込んだ。深紅の瞳をした魔王からかけられた言葉は、まさに彼女が長い間慕い、求め、護ると誓った相手そのものの優しさと穏やかさを秘めていた。


 リェダは唐突に理解した。五年。いつ強制送還されてもおかしくない状況で人間世界に留まってこられたのは、まさに、この瞬間を迎えるためではなかったのか。

 これが人の言う『運命』であるならば――何と満ち足りた概念なのだろうかと、魔王は深く感じ入った。


 見開かれた教え子の目には、様々な感情が渦巻いていた。これ以上、混乱と動揺に苦しみ続ける姿を見るのは忍びない。

 リェダは微笑みを浮かべ、両手を広げた。無防備な身体を晒す。


「さあ、勇者フラーネ・アウタクスよ。お前のその剣で我を打ち倒すがいい。お前の悲願を今ここで成し遂げるのだ」

「……ぃやだ。どうして。先生さ――」

「フラーネ!」


 強く一喝する。

 ほんのわずか、正気の光がフラーネの瞳に戻った。

 リェダは優しく言った。


「大丈夫。お前は信念を貫ける。そんなお前を、我は誇りに思うぞ」

「……ッ。あ、あぁ……!」

「さあ。やれ。どのみち我はもうすぐ消える。世界に別れを告げるなら……お前の手で逝きたい」


 元魔王、そして孤児院長のリェダは目を閉じた。


 フラーネは――動かない。

 彼女の震える指が、聖剣チェスターの柄に触れかけた。だが、その手は聖剣を抜き放つことはなかった。直後、勇者は両手で頭を抱え、その場に膝を突いた。


「嫌ッ、いやあああああっ!! リェダ先生さぁぁぁんっ!!」


 絶叫する。錯乱状態に陥った。

 リェダは目を開ける。少しでもフラーネがやりやすいよう、彼女の側に近づこうとする。


 異変に気づいたのは、そのとき。

 頭を抱え叫び続ける勇者フラーネ。その身体に、リェダのものとは違う魔力がまとわりついていたのだ。

 魔力が彼女の身体に侵食する。フラーネの叫びがさらに強くなる。


 リェダは怒りの形相で振り返った。

 顔に死相を浮かべた哀れな魔王が、その手から魔力を放っていたのだ。


【生贄充填】による、無詠唱精神操作魔法――。


「よう……やく……俺を、見たな……リェダーニル……」


 哀れな魔王の口元に笑み。


「刻め……俺の、名は――」


 哀れな魔王の身体が燃え上がった。

 リェダーニル・サナト・レンダニアの【無限充填】によって、永遠に名乗る機会を与えられることなく、哀れな魔王は消し炭と化した。


 そして――。


「あ……ガ……せんせ……リェダ、せんせ……」


 勇者フラーネを異変が襲う。


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