第55話 激昂


 ――湖面にさざ波の立つ音がする。風が出てきたのだ。

 林の方から梢が擦れる音もしたが、鳥や動物たちの鳴き声はすっかり聞こえなくなっていた。


 旧エテルオ孤児院。かつての院長室。

 大量の書物に混じり、果物や水筒が散乱している。空中には、結界魔法の核となる球体が弱々しく輝いていた。

 窓は本棚で塞いでいる。その隙間から、朝の外光がわずかに差し込んでいた。魔法の輝きと混じっている。


 立派な執務机に、ひとり少女が突っ伏していた。

 賢者エル・メアッツァである。

 彼女は薄らと目を開けた。


「……朝……か」


 かさついた唇でつぶやき、ゆっくりと身体を起こす。目眩に襲われ、頭部が不自然に揺れた。

 彼女はいつも以上に鈍重な足取りで、部屋の扉に向かう。途中、転がっていた果物を手に取り、無造作にかじった。ただただ栄養と水分が摂れればそれでいいという仕草だった。


 室内の灯りに照らされたエルの姿は、まるで泥沼から這い上がって一晩経ったような有様だった。赤と青の線が入った賢者のローブは、ほとんど見る影もない。


 ――それは、壮絶な防衛戦をくぐり抜けた証であった。

 二日前。遠方から魔力の波動を感じ取ったエルは、エテルオ孤児院と召喚魔法陣それぞれに強力な結界を張り、敵対者の襲来に備えた。


 だが、やってきたのは賢者をして想像していなかった規模の襲撃だった。

 一言で表現すれば、魔族の洪水。

 何百もの深紅の瞳が、大挙して押し寄せてきたのだ。


 まだ夜も明けない時間帯。夜陰に乗じての襲撃は、しかし、忍ぶつもりなど微塵も感じさせないほど苛烈で容赦なかった。

 だからエルも、一切の加減をしなかった。

 持ちうる広範囲魔法を力の続く限り打ち続け、魔族の洪水を押し返す。


 最初の夜は、それで凌げた。


 翌日。まるでこちらがひとりしかいないことを理解しているかのように、今度は少人数で断続的に攻め続けてくる。魔力と精神力と体力を削りに来たのだ。

 そして日が暮れたら、また大群で攻めてくる。


 腐ってもエルは賢者として認められた人間。

 彼女は、耐えた。

 気づけば戦闘発生から丸二日が経過していた。

 耐えた。耐えたが、疲労は急激にエルを蝕んでいる。


 昨夜の襲撃を退けたとき、魔族たちの攻撃が止んだ。本当は常に起きて警戒しておきたかったが、体力も魔力も危険水域まで下がっていることを自覚していた彼女は、籠城する旧エテルオ孤児院で仮眠を取った。

 浅い睡眠には慣れている。それでも、この疲労度で深く寝入ってしまわなかった自分を褒めたいとエルは思った。


「……むりやばい……けど、集中」


 頭の中に霞がかかっている。

 普段の彼女ならもっと別の対策を考えることができただろう。たったひとりで、外部と連絡も取らず立てこもる危険を、もっと認識できていたはずだ。

 しかし、孤児院を護るという決意が思考を阻んだ。


 ふらつく足取りで、旧院長室を出る。強力な結界が機能し続けているおかげで、孤児院自体にはまだ被害がない。

 外に出る。差し込む陽光、湖から来る湿気を含んだ風が、束の間、エルに力を与えた。

 孤児院の外壁に半ば身体を預けるように進み、裏手へ。

 建物の影を抜け、孤児院の入り口から反対側に出る。


 ――まるでおとぎ話の魔界のような光景が広がっていた。


 エルの広範囲魔法、それに対抗する魔族たちの特攻。度重なるぶつかり合いにより、林の樹々は軒並みへし折られ、地面は抉れ、荒地同然と化している。

 地形が変わり、見通しはむしろ悪くなっている。

 無数の魔族たちが、異臭を放ちながら息絶え、生身の墓標を晒していた。


 壮絶。

 これだけの戦果を残しても、なおエルの旗色は悪くなる一方であった。


 次の襲撃があるまでに結界を補強しておかなければ――エルは霞む思考のまま、懐に手を入れる。人形を探る。

 途端、血の気が引いた。

 いつもの場所を探った指先に、人形の感触がない。


「どこかで……落とした?」


 あり得ない。あってはいけない。

 リェダからもらった大事な、自分の分身とも言える人形をなくすなんて、絶対にあってはいけない。

 エルは記憶を探るが、昨日のことがうまく思い出せない。

 理性ではなく本能に任せて魔族を退けていた。そうしなければ魔族の恐怖に押し潰される。

 それが災いした。


 人形を失うことは、エルにとってリェダとの繋がりを失う感覚をもたらす。戦場でぎりぎりの闘志を保っていた賢者が、ここに来て精神的に大きく動揺した。

 結果、あらゆる負債が彼女の身に降りかかる。


「ぃ……う……」


 足の力が急に抜け、猛烈な怠さが襲いかかってきた。身体のあちこちが痛み出す。特に頭痛がひどかった。


「パ……パ……」


 エルはつぶやき、その場に膝を突く。

 駄目だ、ここで倒れたら起き上がれなくなる。そうなったら、魔族にやられてしまう。

 大事な人に会えなくなる。約束を護れなくなる。


 頭では必死に己を鼓舞しているのに、無情にも身体は前へ傾いていく。視界が霞んでいく。

 地面に突っ伏す直前、誰かが横からエルの身体を支えた。ぐっと力強く腕をつかまれる。


「エルッ!」


 聞き慣れた声。エルは大きな安堵と、少しの寂しさと、冷たい不安を同時に抱いた。

 顔を上げるのもままならない状態で、彼女はつぶやいた。


「フラ……姉……」


 そして、意識を手放した。



◆◇◆



「エルッ! エルッ! しっかりして、エル!」


 勇者――フラーネ・アウタクスは妹同然の賢者を揺すって、何度も声をかけた。

 エル・メアッツァは完全に気を失っていて、呼びかけに応える様子がない。


 息はあるが、ひどい状態だった。

 全身は至る所が汚れている。泥と、おそらく魔族の返り血だろう。エル自身は大きな怪我こそしていなかったが、それでも細かな傷は無数にあった。不用意に触れれば傷口が開いて血が滴りそうである。

 とにかく顔色が悪い。直接的な傷よりも、魔法を使い続けたことによる極度の疲労の方が深刻だとわかった。


 彼女の周囲に、騎士たちが集まってくる。魔族の大群が押し寄せてきたと報を受け、一部隊を預かって駆けつけたのだ。


「遅れてごめん、エル」


 フラーネは賢者を胸に抱きしめる。

 それから顔を上げ、旧エテルオ孤児院の建物を見た。エルの施したであろう魔法障壁が、うっすらと建物全体を包んでいる。遣い手が意識を失ったことで、防護の魔法は急速に形を失いつつあった。

 フラーネは、エルがたったひとりで孤児院を護ろうとしていたのだと悟る。


「うん。そうだね。大切な場所だものね。エルは頑張ったよ。すごいよ」


 賢者を片腕に抱きながら、もう片方の手で木剣を抜く。


「だから安心して。孤児院の護りは、私が引き継ぐから」


 リェダから授かった、フラーネをフラーネたらしめる聖剣を、天に掲げた。

 眩い光と魔力とともに、周囲の湿気が一気に高まる。

 配下の騎士たちがざわめいた。

 勇者として認められた者が行使できる絶技、ステラシリーズ。そのひとつ。


「――【城盾じょうじゅんのステラ・エスケル】」


 水柱が地表から噴き出した。

 フラーネの木剣から放たれる魔力が次々と清らかな水を生む。それらは互いに絡まり合い、風船のようにフラーネたちを包み込んでいく。

 孤児院の建物も、すっぽりと覆われた。


 火の属性が矛の絶技であるならば、水の属性は盾の絶技。

【城盾のステラ・エスケル】は、あらゆる攻撃を防ぐ水の盾を創り出す。


 配下の騎士の中には、ステラシリーズを実際に目の当たりにするのが初めての者が多かった。畏敬を込めた目で、彼らは勇者フラーネを見つめた。

 視線を集めた彼女は、静かに言った。


「賢者エルを治療します。何人かついてきて。他の方たちは周囲の警戒を続けてください」

「はっ」


 敬礼をする一同。

 騎士のひとりが、フラーネに代わってエルを運ぼうと近づく。

「代わります」と声をかけようとして――できなかった。

 エルを抱きかかえたフラーネは、髪を逆立て、視線だけで人が殺せそうな恐ろしい形相をしていたのだ。


「魔族。よくも傷つけたな。必ずこの手で討ち倒す。ひとりも逃がさない」



◆◇◆



 旧エテルオ孤児院の近く。かつて魔王リェダが召喚された場所。

【無限充填】に保管していた転移魔法で、リェダとティアロナは一瞬でここまでやってきた。

 周囲の光景が視界に飛び込むなり、ふたりは唸る。


「ずいぶんと素敵な光景になったものだ」


 口から皮肉が漏れた。ティアロナもつぶやく。


「まるで魔界ですね。何とも懐かしく――苛立つ光景です」


 樹々がへし折られ、大地がめくれ上がっている。凹凸が激しくなった地形のせいで、見通しが悪くなっていた。かつてのこの場所は、自然豊かな土地だったのに。

 リェダは幻を見た。五年前、不自由な足を引きずりながらカラカラと笑うエテルオと、その後ろをしかめ面で付いて歩く元魔王の幻。すぐに消えてしまう。

 鳥や梢のさえずりが失われた代わりに、周囲は暴力的な魔力に満ちていた。遠く、破壊音もする。おそらく別の場所では今もなお魔族と人間との戦闘が続いているのだ。


 リェダはティアロナとうなずき合う。まずは教え子たちの安全を確保しなければ。


「リェダ様?」


 戦場へと足を向けかけたティアロナが振り返る。

 元魔王は、荒地の一画に膝を突いていた。地面には薄らと魔法陣の痕跡がまだ残っている。


 ティアロナが見ている前で、リェダの偽装魔法が解除される。まるで、檻を内側からこじ開けるような、暴力的で荒々しい力の奔流を感じた。


「……!」


 元部下は息を呑む。

 リェダが地面から拾い上げていたのは、小さな人形。かつて孤児院にいたころにリェダが贈り、もらった本人が「自分の分身」とまで言っていた、エルの人形だ。


 血で、汚れている。


「ティアロナ……」

「はい」

「考えが変わった。容赦するな」


 頭頂部を糸で吊りあげられたような動きで、リェダが――かつての魔王リェダーニル・サナト・レンダニアが立ち上がる。

 燃え上がる深紅の瞳が、抉れた山の方向を睨み据えた。


「この地に足を踏み入れし愚かな魔族ゴミクズどもを根絶やしにせよ。毒虫がいなければ子どもらは刺されぬ」

「御意。――陛下は?」

「我は巣を叩く」


 漆黒の魔力が荒野に吹き荒れた。


「魂滅してやる」


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