第38話 陽光の中へ、戻ってきた少女


 ――静けさが包むエテルオ孤児院。



「リェダ先生? ティアロナ先生?」


 一階に降りてきたリートゥラは、ふたりの姿を見かけて声をかけた。

 リビングの椅子に腰掛けていたリェダとティアロナは、揃って服を繕っている。


「おはよう、リートゥラ」


 そう挨拶をするリェダは、少し心配そうだった。


「早いな。眠れなかったのか?」

「……少し」


 リートゥラはぼかした。窓の外を見る。

 ようやく東の方角が白んできた時間帯。まだ周囲は薄暗い。


 リェダの言うとおり、なかなか眠れなかったのだ。明け方近くのこの時間になって、たまらずベッドから抜け出した。

 先生たちの朝は早い。せめてその手伝いができれば、気が紛れるだろうと思った。


 精神的な疲れが溜まっているせいだろう。いつもより頭がぼんやりする。

 リートゥラは上手く回らない思考で、「どうして先生たちはこんな時間にお裁縫をしているんだろう」と思った。


 ティアロナが作業の手を止め、キッチンに向かう。「ソファーに座ってなさい。なにか温かい飲み物を持ってくるわ」と言うので、リートゥラは言葉に甘えた。

 見慣れたソファーに腰掛けると、ずっしりと身体の重さを感じた。少しも眠くないのに、心身ともに疲れている。特に疲れた心は、弱音を吐く。


「フェム……」


 うつむいた。無意識のうちに祈りの姿勢を取る。


 ティアロナが温めたミルクを持ってきた。リートゥラにカップを持たせると、自らは隣に座り、少女の柔らかな金髪を撫でた。


「安心しろ、リートゥラ」


 ふと、リェダが言った。ティアロナの服も繕い終わり、二着まとめて持ち運ぶ。見慣れない柄の服だと、リートゥラはそのとき初めて気づいた。


「フェムは助かる」


 少しの間、返事ができなかった。言葉の意味が頭に入ってこなかったからだ。

 ミルク入りのカップを持つ手。じんわりと温かさが伝わってくる。


「フェムが……助かる?」


 顔を上げる。すがるような目で、リェダを見つめた。


「ほんとうに……? 先生」

「ああ。


 夜明けの時間が訪れた。

 振り返ったリェダの横顔に、昇り始めたばかりの陽光が差し込む。彼は微笑んでいた。朝陽の輝きと夜闇の名残である陰影が、リェダの顔に同居している。


 リートゥラはふいに、雷に打たれたような衝撃を覚えた。見慣れたリェダ先生の顔。なのに今日この瞬間は、とても尊く、神々しい姿に見えたのだ。


 ――二階が騒がしい。

 子どもたちが起きたのかとリートゥラは思ったが、違った。

 階段を慌てて降りてきたのは、フェムの祖父アストール。


「リェ、リェダ先生ッ! リェダ先生!」


 彼は息を切らせ、リェダの元まで駆け寄った。愕然と目と口を開いている。そしてリェダの両腕をつかむと、せきを切ったように泣き出した。


「孫娘が……、フェムが、目を覚ましました!」


 かしゃん、とリートゥラはカップをテーブルに置いた。叩きつけるように、中身がこぼれても気にする余裕は彼女にはなかった。

 走る。普段なら絶対にしないような、一段飛ばしの大股で階段を駆け上がった。

 二階の廊下でも速度を落とさない。騒ぎを聞きつけ、年長の子どもたちが寝室から顔を出す。リートゥラは弟妹きょうだいたちへの挨拶も頭から抜けていた。


 客室の前へ。


 一瞬だけ、迷う。


 脳裏に、生気の抜け落ちたフェムの表情が蘇る。


 リートゥラはその光景を振り払い、「フェム!」と叫びながら扉を開ける。

 日当たりのよい客室には、一足早く朝の光が満ちていた。


「リートゥラお姉ちゃん?」


 ベッドから身体を起こしたフェムが、瞬きをしていた。

 リートゥラは肩で息をする。なんて声をかければいいのか、わからなかった。喉に言葉が詰まる。

 代わりに、目尻から涙が伝う。


 朝陽に反射する涙の筋を見て、フェムの表情がくしゃりと歪んだ。一回、二回と声を飲み込み、それから叫んだ。


「お姉ちゃぁんっ、怖かったよおっ!」

「フェム!」


 姉妹同然のふたりは、強く抱きしめ合った。お互い、一切の我慢なく号泣した。

 そんな二人を見て、ベッドの側にいた祖母テルスアもハンカチを顔に当ててむせび泣く。


 孤児院の子どもたちが数人、扉の外から彼女らの様子を見ていた。もらい泣きをした年長者のひとりが、他の子どもたちを促して各々の部屋へ戻らせる。


 ――号泣が静かな嗚咽に変わり、外の太陽が完全に姿を見せたころ。


 リェダとティアロナが、アストールをともなって客室にやってきた。手には人数分のお茶を淹れたトレイがある。

 リェダはベッドのかたわらにひざまずいた。


「フェム。気分はどうだ」

「うん。もうだいじょうぶだよ。リェダせんせー」


 フェムは以前、自宅を訪れたリェダと顔を合わせている。そのときはリェダの雰囲気に少々怯えていた少女だったが、今は違った。

 大きな瞳がリェダの微笑みを見ている。彼女は言った。


「あのね。わたし、リェダせんせいの声を聞いたの」


 フェムと手を繋いだままのリートゥラが首を傾げる。フェムは続けた。


「あのね。せんせいが『もうだいじょうぶ』って言ってくれたの。そしたら胸の中がすごくあったかくなって、目がさめたの」

「リェダ先生……」


 リートゥラが恩師を見る。

 リェダは多く語らなかった。ただ「おまじないが効いたんだな。よかった」とだけ答えた。

 リートゥラは直感する。なにもできずに自分がベッドで悶々としている間に、リェダ先生はフェムを救ってくれたんだ、と。


 リェダの服をそっとつかむ。そのまま、恩師のたくましい胸に顔を埋めた。震える声でつぶやく。


「先生……ありがとう……!」

「お前も、辛い気持ちによく耐えた」


 髪を優しく撫でられる。リートゥラは鼻をすすった。本当にみっともなくて恥ずかしくて、心から安堵した。

 身体を離すと、フェムが笑った。


「お姉ちゃん、お鼻ぐじゅぐじゅ。子どもみたい」

「もう……フェムったら。元気になったからって、すぐそんなこと言う」


 嗚咽混じりにリートゥラは笑った。

 立ち上がったリェダ。そこへアストールが近づいた。


「リェダ先生。ティアロナ先生。私どもからも心からの感謝を伝えたい」


 手を取り、深く頭を下げる。

 そして顔を上げた祖父の目には、決意が浮かんでいた。


「フェムも、リートゥラも。この子たちのことは、私たちが護ります。せめて、ふたりが無事に独り立ちするまでは。必ず」

「きっとあの子たちも安心できると思います。よろしく、お願いします」


 リェダは言った。


 それから。

 フェムと祖父母、そしてリートゥラを残し、リェダとティアロナは客室を出る。

 子どもたちは部屋に引っ込んでいて、廊下には誰もいない。


 並んで歩くリェダとティアロナの表情は――そのとき、硬かった。


 偽装魔法越しでもにじみ出る、元魔王とその部下の顔であった。


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