第26話 遊び場
――その夜。
フェムは目を覚ました。いつもは朝までぐっすり眠る彼女である。夜も深いこの時間帯に起き出すのは珍しいことだった。
日中、リートゥラとはしゃぎすぎて長く昼寝してしまったせいかもしれない。
「お姉ちゃん」
ぬいぐるみに囲まれたベッドで、フェムは上半身を起こした。隣を見る。
小さなフェムにはこのベッドはまだ大きい。隣にあいたスペースに、大好きな姉が添い寝する幻を見た。
もうすぐだね。お姉ちゃんが来てくれたら、ぜったい一緒に寝てもらうんだ。毎日だって!
ささやかだが幸せな想像に、フェムは頬を緩ませた。お気に入りのぬいぐるみをぎゅっと抱きしめ、その柔らかな肌触りの中に笑声をしのばせる。
――そのときだ。
フェムは、部屋の外で物音がするのを聞いた。
最初は近所の猫が運動会をしている――フェムは同年代の少女より純粋だった――と思った。
だが、よく耳を澄ますと、どうも違う。
ぱきん、ぱきん……という乾いた音。
フェムは思い出す。暑い日に、両親が買ってきた氷からそんな音がしていた。
「お父さん? お母さん?」
小さな声で両親を呼ぶ。
返事はなかった。
ぱきん、ぱきん――音は止まない。
「リートゥラお姉ちゃん?」
ぱきん。
……音が止んだ。
静かになったことで、フェムの思考は急速に恐怖に染まっていった。
リートゥラの名を呼んだとき、心のどこかが鋭く警告を発した。まるで尊敬する姉に、後ろからぎゅっと抱きつかれ、引き留められたように。
フェムは大きく息を吸い、思い切り口を閉じると、ベッドの中に潜り込んだ。厚手の寝具を目深に被り、部屋の扉に背を向ける。
お父さん。お母さん。お姉ちゃん。リートゥラお姉ちゃん……!
何度も念じた。
――どのくらい時間が経ったか。数秒か。数分か。それ以上か。
音がしない。
カーテン越しに月明かりが部屋に差し込む。
すっかり暗闇に慣れ、夜目でもぬいぐるみたちや家具の輪郭がわかるようになる。
フェムは深呼吸した。鼓動はだいぶ落ち着いてきた。
少しずつ、寝具から頭を出す。
一度、ぬいぐるみを抱きしめる。嗅ぎ慣れた匂いを思い切り吸ってから、寝返りを打つ。
――部屋の入口に、岩のような塊が居た。
「……あ……」
フェムは声を出した。出してしまった。
暗闇に慣れた目が、『塊』に刻まれたふたつの輝きを捉えた。
赤い目。
読み聞かされてきた絵本に、時折出てくる怖ろしい存在。魔族の証。
岩のような塊だとフェムが思っていたのは、筋骨隆々の姿を取り戻した、
太い腕が動く。魔族自らの顎を撫でる。手首に付いた鉄輪がじゃらりと鳴った。
「おや。起きていたのだな」
聞こえない。聞きたくない。フェムは思った。だが身体が言うことを聞かず、目も耳も閉じられない。
「メインディッシュは後に取っておくべきと思っていたが、存外に前菜を愉しみすぎたようだ。これは無作法。ははは」
あれは笑っているの? どうして? とフェムは思った。
少女の脳裏にリートゥラの笑顔が浮かぶ。少しだけ活力を取り戻したフェムは、禿頭魔族の赤い目から視線を外すことに成功した。
開け放たれた扉の奥が視界に入る。
向かいの部屋は、両親の寝室だ。向こうの扉も全開であった。
両親の寝室は、月明かりが乏しい。薄らとした輪郭と、わずかな色の違いだけが認識できる。
――床に横たわった人影がふたつ。全身が氷に包まれていた。
フェムは、その惨状をうまく理解できなかった。
直後、視界に紫電が走る。禿頭魔族が指先から細く短い稲光を発生させている。
「今、とても気分が良い」
禿頭魔族は言った。
「少し独り言に付き合ってくれよ。後ろのふたりの人間、あれらはとてもよかった。肉体はほぼ以前の力強さを取り戻せたし、なにより魔力。再び魔法が使えるようになったのが感動だ。人間世界では、『できなかったことができるようになる』ことに喜びを感じるそうだな。魔界では唾棄していたが、なかなかどうして。悪くない気分だ。お前たち人間は素晴らしいよ」
饒舌だった。だからか。フェムは吸い寄せられるように、再び禿頭魔族の赤い目と視線を合わせてしまう。怖いのに、背筋が凍りそうなのに、見てしまう。
幼い少女は、すでに恐怖感や判断能力が麻痺していた。
禿頭魔族は語る。語りながら、近づいてくる。
「嬉しすぎて、ついつい魔法を試してしまった。威力、制御、申し分ない。俺は完全に復活した。さて――」
鉄輪が、じゃらりと鳴る。
「メインディッシュは、どんな味がするかな?」
大きな、とても大きな手のひらがフェムの視界を覆う。
少女の意識は、そこで途切れた。
――
「うっぷ」
禿頭魔族は木箱に腰掛け、口元を押さえた。
「少し欲張りすぎたかね。極上品でも食べ過ぎはよくないな。気をつけなければ」
言葉ほど反省した様子はなく、魔族は笑う。
ロフェ宅で『食事』を終えた禿頭魔族は、いったん納屋まで戻っていた。
彼が通ってきた
今のところ、接穴が塞がる兆候は見られない。
「俺は本当に運が良い」
あふれ出る力を感じながら、彼は喉の奥で笑った。
上機嫌な理由。順調に力を取り戻せたこと。そして、その過程で『宝玉』と思われる存在を感じ取ったこと。
これから、本格的に宝探しを始められる。
順調すぎて怖いくらいだった。
禿頭魔族は心から言った。
「人間世界は、この上ない遊び場だ。実に愉しい。本当に愉しい! ふふ、はははは!」
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