第24話 何より愉しむために
夜の内に納屋を発ち、彼は付近の農家へと近づいた。
魔族の赤い瞳は夜間でも視界が確保できる。闇を恐れて両目を閉じる者など、魔界ではすぐに淘汰されるだろう。禿頭魔族は、それほど弱くない。
一軒の民家に目星を付ける。ボロ布の奥で舌なめずりをした。
民家に隣接した囲いの中で、黒い牛が飼われていた。
牛は禿頭魔族の接近に気づくと、にわかに鳴き始めた。柵から距離を取り、足を踏みならして魔族を遠ざけようとする。滑稽な動きだと魔族は思った。
「前祝いだ。供物にしてやろうか」
赤い目が黒牛を射貫く。牛は目を見開いたまま、鳴くのを止めた。その場に立ちすくむ。
――民家の窓から、ふんわりと灯りが生まれた。
玄関が開く。
民家の主らしい老齢の男性が、ランタンも持たずに外に出てきた。家から漏れる灯りだけを頼りに、囲いへと向かう。
老人は牛の側に立つと、何事か話しかけていた。辺りを見回し、柵の状態を確かめている。どうやら、何か大きな獣でも襲ってきたのかと考えたようだ。
老人の腰には作業で使う鉈がある。
数歩離れた暗がりから様子を見ていた禿頭魔族は、悪戯心が湧いた。両手の鉄輪が音を立てないよう、静かに移動する。
老人の、真後ろへ。
老人はしばらく牛をなだめた後、やれやれとため息をつきながら踵を返した。
声を、かける。
「よお。人間」
「……っ!? な、お、お前さん……!?」
老人の反応に、禿頭魔族は目を細めた。魔族の証である赤い瞳が愉快そうに輝く。
老人は気骨のある人間だった。
灯りも持たず外に出てきた勇敢さのまま、腰から鉈を抜き、渾身の力で振る。
相手を魔族だと悟った上での攻撃だった。
よく研がれた鉈は、禿頭魔族の右腕に食い込んだ。その深さ、一ミリほど。
老人は二度、三度と鉈を振るった。結果は同じ。
民家からわずかに漏れる光が、緊張で汗だくになった老人の顔を照らし出す。
魔族はさらに目を細めた。
「俺は幸運だなあ。実に運がいい」
「はっ、はっ、はっ……! 忌まわしい魔族め、なにを」
「最初に出会った人間が、貴様のように生きの良い男だったことだ。老い先短いにもかかわらず、本気で俺を殺そうとしてきた。しかもただ蛮勇なだけじゃない。しっかりと恐怖も抱いている」
「誰がっ……」
「おおっと、褒めてるんだぜこれでも。俺はじゅうぶん、愉しめた。誇っていいぜ人間。俺に傷を付けられる奴は、向こうじゃ多くないんだ。たまには好奇心に従ってみるのもいいもんだなあ。お前はどう思う? 人間」
「くっ」
老人は鉈を振りかぶった。禿頭魔族の顔面に向かって至近距離から投擲を試みて――。
「ま、おふざけはこんなもんか」
禿頭魔族の右手が何の躊躇いもなく老人の胸を貫いた。
血は出ない。
傷口もない。
代わりに、老人の胸から引き出された手には、白く薄らと輝く火の玉が握られていた。
人間の魂――。
意識を失った老人は仰向けに倒れる。泡を吹いていた。
その惨状には目もくれず、禿頭魔族は魂を
「これが人間の魂か。美しいものだ」
口元のボロ布を取る。
長く伸ばした舌で魂を絡め取り、そのまま丸呑みした。
満足げなため息ののち、禿頭魔族の身体からわずかに黒い靄が出る。痩せ細った肉体が、少しだけ厚みを取り戻した。
「美味い。……が、少々薄味だな」
倒れた老人を見下ろす。虫の息だった。
魔族は顎に手を当て考える。
――魂だけ抜き取るコツは掴んだ。今度は胸に穴を開けても問題ないのか試すのもいいだろう。
禿頭魔族は老人の首根っこを掴むと、
いくら人間が脆いと言っても、彼らの中に溶け込む努力をするのとしないのとでは、こちらの世界に居られる時間に大きな差ができる。
禿頭魔族は知っていた。かつて、人間社会から帰還した魔族を締め上げて吐かせたことがあったからだ。魔界において、情報のやり取りが対等に行われることなどめったにない。
魔法はまだ使えなかった。魔族は肩をすくめると、老人を部屋の中央に転がした。
そして火の
獣脂の臭いがする。意外と着火に時間がかかった。禿頭魔族は鼻歌を口ずさみながら、火事に発展するまで気長に待った。
もはや老人ひとりの手では消火不可能なところまで燃え上がったところで、外に出る。
再び騒ぎ始めた黒牛を、今度はひと思いに殺す。ごおごおと燃えさかる民家に肉片を突っ込み、適当に焼いてみてからほおばった。
「……いまいちだ。肉を喰うより魂を喰う方が満たされる。面白い発見だ」
食いかけの肉を炎の中にぽいと捨てる。
ここに民家があったという痕跡をあらかた消失させる炎。夜の暗闇を切り取る輝きを背に、禿頭魔族は再び歩き出した。
「さて。次はどうしようか」
ゆっくりと、ゆっくりと舌なめずりする魔族。
笑声を隠すように、彼はボロ布で口元を覆った。
――それから数日間。
厄介な騎士からは身を隠しつつ、禿頭魔族は周囲をぶらつきながら、
力を取り戻すために。
人間世界における己の力を試すために。
そして何より――愉しむために。
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