第23話 魔族、接穴より来たる


 ――勇者フラーネ・アウタクスがリェダの元を訪れてから、約一週間後のことである。


 エテルオ孤児院から数キロ離れた街、ブロンスト。

 王国では中規模の大きさながら、主要街道の通り道とあって賑わいがある街だ。郊外には農地も広がっている。

 田畑の一角、もう使われなくなった納屋の中で、この日、ある異変が起こった。


 夜。


 動物たちの声もほとんど聞こえない中、納屋の片隅に黒いが広がった。

 カビにしては広く、水漏れにしては水分の出所がない。


 およそ一メートル四方にまで広がったそれから、ふいに、

 手首に付けられた鉄輪がじゃらりと鳴る。最初は筋骨隆々に見えた腕は、納屋の空気に触れるとたちまちしぼみ、骨と皮だけの見た目になる。苦痛を感じているのか、やたらと爪の長い指が空中を何度もつかんだ。

 もう一本、腕が生えてくる。同じように急速に痩せ細る。

 両の手が地面を付く。古びた農具が音を立てて倒れた。


 黒の染みから這い出てきたのは、禿とくとうの痩せた男だった。

 長い耳、夜闇の中で怪しく赤く光る瞳。

 魔族である。


 禿頭魔族は納屋の中に立つと、自らの身体を検分した。元の筋骨隆々とした身体に合わせていた革服はだぶついてしまった。特に上半身は今のままでは使い物になりそうにない。

 禿頭魔族にとって、この服は一種の勲章。魔界において自らが屠ってきた他魔族の身体を解体して作り上げたものだ。防御性能も、多種多様の魔族の血と怨念がこびりついて放つ腐臭も、禿頭魔族のお気に入りであった。


「くくく……」


 禿頭魔族は笑った。お気に入りの服が使い物にならないと悟っても、それを上回る喜悦が彼の全身を巡る。


「ついに来たぞ。人間どもの世界……カカッ」


 魔力と筋力が絞り出されてしまっているため、喉からはかすれた声しか出ない。


 禿頭魔族は、納屋に転がった農具を手に取った。使い古され、先端の鉄部分には錆が目立つ。

 魔族は手に力を入れた。古くても頑丈な木製の柄は、パキンと軽い音を立てて折れる。次いで鉄の鍬先を踏む。耳障りな音とともにひしゃげた。

 醜悪な顔に、粘ついた笑みが浮かぶ。


「脆い。聞いていたとおり、所詮、この程度か。ああ、それにしても渇く、渇くわい」


 また、くつくつと笑う。楽しみで楽しみで仕方ないと、全身が語っていた。


 ――禿頭魔族は、人間世界に来ることを長い間待ち望んでいた。渇望していたと言ってもいい。

 魔界での生活は、彼にとってひどく退屈で無味乾燥なものだった。

 彼の支配領域は、魔界ではありきたりな、ひたすら荒野が広がる不毛地帯。


 殺し、奪い、襲ってきたものを返り討ちにし、晒し、暇つぶしにまた殺し、喰らい、たまに血染めの絵を描き、寝て、起きたら今度は捕らえていた魔族を意味なくなじり、取り巻きの声を気晴らし聞き、たった一言が癪にさわってまた殺す――そんなことの繰り返しである。


 禿頭魔族の暮らしは、他の力ある魔族とおおよそ同じだった。

 荒廃。退廃。ただそれのみである。


 だが、人間世界では違う。

 自らの能力は著しく制限され、取り巻きはおらず、すべてひとりで乗り切らなければならない。

 危険もある。禿頭魔族は人間の騎士や勇者の存在を聞き及んでいた。今の状況では、彼らに対抗するのは極めて難しいだろう。


 だが、それでも心躍る。止められない。


 人間は脆い。人間が作るものは脆い。

 人間は喰える。人間の魂は魔族に恩恵をもたらす。

 今の彼に取り巻きはいない。同業者も近隣にいないなら、すべて独り占めだ。

 遊戯として申し分ない。


 加えて、もし『宝玉』まで手に入れることができたなら、それは将来にわたっての勝利だ。宝玉は魔族に大きな力をもたらす。魔界での暮らしがさらに刺激的に、愉快に、血と肉にまみれたものになるだろう。

 宝玉を入手できる可能性が極めて低いことも、喜悦の炎に油を注ぐ。手に入れにくいほど燃えるというものだ。


 そう。

 人間世界は魔族にとって狩り場であり、遊び場であり、宝の山だ。


 しかも、そこへの道は誰にでも開かれているわけではなく、たどり着けるかどうかはほぼ、運次第。

 禿頭魔族は、数少ないチャンスを掴んだ。沸き立たないわけがない。


「さあて。極上の狩り場を堪能させてもらおうかね」


 納屋を出る。深夜の農地は閑散としていた。晴れた空には美しい星空。緑も星も、魔界にはないものだ。

 当然のように、禿頭魔族は景色の違いなど興味を示さない。


 ふと、彼は小さく咳き込んだ。


 ……これが人間世界の空気か。確かに、身体の中がむず痒いわ。


 顔をしかめながら思う。

 腐臭に慣れた肺は、清浄な農村の空気と相性が悪い。禿頭魔族はいったん納屋に戻り、干しっぱなしだったボロ布を口元に巻いた。みすぼらしい野盗のようななりになって、人心地付く。


 人間世界を楽しむ。可能な限り速やかに。


 ――魔界と人間世界を結ぶ穴。これを『接穴せっけつ』という。

 禿頭魔族が這い出てきた、あの黒い染みのことだ。

 接穴は永続ではない。また、人間世界には接穴を塞ぐ技術もあるという。

 納屋の接穴が使えなくなれば、帰還のために別の接穴を探さなければならなくなる。それは禿頭魔族にとって面白くない。


 面白いうちに、人間世界を愉しむ。


「人間。どこだ」


 ボロ布の下でさらに強く笑みを作りながら、禿頭魔族は赤い瞳をぎょろりと動かした。


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