第15話 ティアロナの微笑み


 ――午前中。

 孤児院の子どもたちに朝食を食べさせた後、大人ふたりは少しだけ時間ができる。


「お疲れ様です、院長」


 院長室の扉を開け、ティアロナが入ってくる。刺繍入りのマスク姿。手に持ったトレーには、かすかに湯気の立つカップが乗っている。コーヒーの香りが室内に広がった。


 いつもの習慣。だがティアロナは、いつもと少し違うリェダの様子に気づいた。

 この時間、リェダは事務作業をしていることが多い。

 だがこの日は、小箱を手に物思いにふけっていたのだ。


「院長? ……リェダ様?」

「ん、ああ。ティアロナか。すまん、何か用事か」

「コーヒーをお持ちしました。どうぞ」


 執務机の端にソーサーとカップを置く。リェダは「ありがとう」と返した。視線は小箱に向いたままだ。

 いつものティアロナなら黙って踵を返すところだが、今日はそうしなかった。

 敬愛するリェダが見ているモノはなにか、彼女は知っていたからだ。


「群青の宝玉。珍しいですね。最近はご覧になることがなかったですのに」

「……ちょっと、な。昔を思い出したんだ」

「前院長の遺言、ですか」


 ティアロナがカップに目を向ける。深みのある濃い茶色を、白い湯気が彩る。


「そろそろ、五年目に入りますね」

「ああ」


 短くリェダは応える。


 ――およそ五年前。エテルオが没したとき、彼から託された群青色の宝玉。

 これに込められた魔力によって、エテルオ亡き後もリェダは人間世界にいることができる。だが、宝玉の力はもって五年。

 いつ、宝玉が力を失い、リェダが魔界に強制送還されてもおかしくない時期にさしかかっていた。


 ティアロナは静かに言った。


「私が折を見て魔力を込めております。前院長がおっしゃっていた期限より、いくぶん伸びているはず。もちろん、術者以外の魔力でどれほど効果があるのか未知数であることは、以前、申し上げたとおりですが」

「わかっている。お前には感謝している。宝玉のこともそうだが、先生亡き後、偽装魔法や精神魔法を引き継いでくれたのもお前だ。ティアロナがいなければ、俺は強制送還を待つまでもなく、孤児院にはいられなくなっていただろう」

「すべてはあなた様とともに歩むためでございます」

「相変わらずだな」


 小さく笑って、ようやくリェダはカップを手に取った。湯気は少し、薄くなっていた。


「――リェダ様」


 ティアロナの口調に、いくぶん真剣さが増した。


「リェダ様は、魔界にするのがそんなにお嫌ですか?」

「……なぜそう思う」

「宝玉の魔力が切れることを、あなた様はどこか、信じていないように見受けられます。今、この時間が永遠に続くであろうと、そればかりを信じている」


 魔界がそんなにお嫌ですか、とティアロナは重ねた。リェダは答えない。


「私は、リェダ様と同じ方向を歩むことが生きがいです。ただ、魔界で無双無敵の力を振るっていたときのあなた様を、私は肯定します。リェダ様――いえ、リェダーニル・サナト・レンダニア陛下。あなた様は、魔界でこそ輝く存在――」

「ティアロナ」


 熱が入りかけた元部下を、リェダは遮った。

 薄茶色の瞳が、忠実な女魔族を見据える。


「俺は、先生への誓いを破るつもりはない。孤児院の子どもたちは俺が護る。それが、孤独から救ってくれたことへの恩返しだ」

「恩返し、ですか」


 ティアロナはため息をついた。マスクの下、口元にほんの小さな笑みを浮かべる。


「以前なら、『恩返し』など魔王の吐く言葉ではないと憤ったところでしょうが……今なら、私もなんとなく理解できる気がします。ここの子どもたちは、我々の孤独にとてもよく効きますね」

「そういうことだ。そういえば、ティアロナが人間世界に来てからもう何年になるかな。三年……いや四年か?」

「前院長が亡くなってからしばらくしてですから、三年半、といったところでしょうか。リェダ様の魔力を感じたときは、魔族ながら奇跡の存在を信じましたよ」

「お前、相当無理してこちらに来ていたよな。おかげでしばらく、俺はフラフラだったよ。お前の能力制限を人間の魂で補う代わりに、俺の魔力を使ったんだからな」

「この身にはもったいないことでした。思い出しますね。私のこの身体にはリェダ様が流れている、と……ふふ」

「……もしかして涎を流していないだろうな?」


 呆れて言うリェダ。


 それでも、ティアロナの功績は大きい。偽装魔法はともかく、心を落ち着かせる精神魔法はリェダの【無限充填】でもカバーできなかった領域。当時、心の安定を一時的でも失ったために、エテルオ死去から数か月ほど、孤児院運営はめちゃくちゃになってしまった。

 立ち直る前に孤児院を巣立った子どもたちには、悪い記憶が強く残ってしまったことだろう。

 リェダにとって後悔ばかりが募る黒歴史だ。


 ティアロナは精神魔法を始めとした無属性魔法の遣い手。彼女がいてくれたからこそ、肉体的にも精神的にも、安定して孤児院をまとめてこられたのだ。


 ――コーヒーを飲み終えたリェダから、ティアロナはカップ一式を受け取る。


「ところでリェダ様。まだ魔界へ帰るおつもりがないなら、早めに子どもたちの巣立ちの準備を進めませんと。さすがに子どもたちを残してここを去るわけにもいかないでしょう」

「その通りだが、なかなかうまくゆかぬ」

「そのようにおっしゃるから、『魔界に帰りたくないと駄々をこねている』と私が邪推してしまうのですよ」

「……おい。いつ我が駄々をこねた?」


 ティアロナは踵を返した。


「この平穏な暮らしは、いつ終わるかわかりません。案外、呆気なく終焉を迎えてしまうやも」

「不吉なことを言うな。ここは魔界ではない」

「どのような結末になっても、ティアロナはあなた様の側に」


 マスクをずらし、微笑を浮かべて、ティアロナは院長室を出ていった。


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