第13話 魔王リェダの記憶(8) 会話


 院長室のベッド。

 横たわったエテルオは、見てわかるほどにしょうすいしていた。どういうわけか、彼が身につけている義手義足も、どこか錆び付いているように感じる。


「院長せんせー!」

「じいちゃん、じいちゃん!」

「ううっ、ぐ……ずっ、ぜんぜぇ」


 ベッドの周りでは孤児院の子どもたちが常に声をかけていた。

 彼らは体感で知っているのだ。人間が死ぬ兆候を。


 院長室には、リェダを含め孤児院の全員が詰めかけている。一年前、リェダがここに来たときの人数なら、院長室に入りきらなかっただろう。それが、今いる全員が集まってもまだいくらか余裕があるということは、無事に孤児院を巣立った子と――そして死んだ子がいるためだ。


 リェダは、泣き続ける子どもたちの頭をゆっくりと撫でて落ち着かせている。

 隣のフラーネが、無言で彼の背中に身体を預けた。拳を握り、嗚咽をこらえている。


 エテルオは、いつもどおり窓際で椅子に座り、日光浴をしていたらしい。そして何の前触れもなく、崩れ落ちた。


「どうして……今朝だって、ぜんぜん、いつもどおりだったのに」


 ベッドの脇でエテルオの手を握りながら、少女がつぶやく。彼女の言葉は、その場にいるほぼ全員の気持ちを代弁していた。

 エテルオは、細い呼吸を繰り返すだけ。


 誰かが「やっぱりお医者さんを呼ぼう」と言った。だが、これまでずっと無言を貫いていたリェダが遮る。


「このまま、皆で見送ろう。エテルオ院長も、それを望むはずだ」


 反論はなかった。


 そして時間は過ぎ、太陽が山際に沈もうとした頃。


「……っ、院長せんせい!」


 エテルオは、呼吸を止めた。

 部屋は、再び大きな嗚咽のうねりに満たされた。


 やがて、ひとり、またひとりと子どもたちがエテルオに感謝と別れの言葉をかけ、院長室から去っていく。

 年少の子どもたちを早めに寝かしつけ、年長の子たちがエテルオの身体を綺麗に整えようと院長室に戻ってくる。リェダは、彼らに告げた。


「今日は、俺とエテルオ院長のふたりにしてくれ。お前たちは先に休んでいて欲しい」

「……わかりました」


 院長室の扉が閉まる。リェダは、エテルオとふたりきりになった。

 椅子を運び、ベッドの枕元に置く。そこに腰掛けエテルオの顔を見つめたまま、リェダは無言で過ごした。


 静かな時間が過ぎていく。

 窓から差し込んでくるのが橙色の陽光から宵闇の陰ばかりになり、やがて完全に夜となる。この日は月明かりも乏しかった。室内にある物の輪郭が、闇に紛れて曖昧になる。


 リェダは、でエテルオを見つめ続けた。

 を待つ。


『リェダ』


 ――声がした。


 部屋の中は静かなままだ。声は、リェダの頭の中に直接響いてくる。

 あのときと同じ。かつてリェダが闇の檻に囚われたときと同じ、『魔法による声』だ。

 元魔王は落ち着いて返事をした。


「ここにいる。ようやく話をする気になったか、院長」

『その様子だと、最初からわかっていたようだな』

「ああ。身体が朽ち果てる寸前でも、お前の身の内にある魔力の高まりは誤魔化せない」


 リェダは少しだけ笑った。


「元魔王を舐めるな」


 エテルオも笑った。彼の顔の筋肉は、もう動かない。

 文字通り、魂だけの状態になって語りかけているのだ。


「エテルオ院長。話してもらうぞ。お前もそのつもりで魔力をギリギリまで蓄えていたのだろう。――なぜだ。なぜ今になって、倒れた」

『限界だったのだよ』

「嘘をつくな。お前ほどの実力者が、なんの前触れもなく力尽きることがあるか。戦ったわけでもない、魔法をかけられたわけでもない」


 リェダは両手を組み、その上に顎を乗せた。


「お前が攻撃されたのなら、我は黙って見過ごしておらぬ」

『ははは。己の人称が昔に戻っているぞ、リェダ』

「茶化すな、エテルオ!」

『……ふ。お前さんも変わったな、元魔王よ』


 エテルオの口調に、重さが増す。


『話そう。そのために最後の力を残していたのだからな。さあ、リェダよ』

「……なんだ」

『お前さんは今、幸せか?』


 リェダは面食らった。まさかそんな質問を最初にぶつけられるとは思っていない。幸せか、そうでないか――そのようなこと、考える習慣は元魔王にはなかった。

 だが、思案する。思案して、偽りのない言葉をつむぐ。


「正直に言う。俺にはわからん。幸せとはなにか。言語化ができぬ。だが……今の暮らしを続けることに抵抗は一切ない。なにより、その」

『ん。いいぞ、言ってみろ』

「俺は、お前たちが……院長や子どもたちが、とても羨ましい。羨ましいからこそ、この暮らしが続けばいいと思うし、その生をまっとうしてもらいたいと思う。そして俺は……それを護るためにもっと生きようと思う。強く思っている」

『そうか』


 満足げな言葉だった。エテルオはその後も三回、『そうか』を繰り返した。


『お前さんがそう考えてくれているのが、儂は何より嬉しい』

「……。ああもう、院長。そんな台詞はいい。早く俺の質問に答えろ」


 リェダはエテルオの手を握る。


「お前はなぜ、こんな風になった。誰がお前をこんなにしたんだ」


 しばらくの沈黙があった。エテルオの手は冷たいまま。彼の中の魔力は、まだ生きている。

 この期に及んでしゅんじゅんしている――リェダは唇を噛み、思わず叫びそうになった。お前を苦しめる奴がいるなら、この俺が制裁してくれる!

 誰なんだ、そいつは!


『……お前さんのためだよ、リェダ』


 静かに、院長は語った。


『儂は、リェダーニル・サナト・レンダニアを人間世界に留め置くために、すべての力を使った。その限界が今、訪れたのだ』

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